■食事と躾け
子供の頃、家族揃って食卓を囲み、食事をするのが決まりだった。
父親から「食物に感謝して、黙って食べなさい」と、喧しく注意されたものです。
関大徹の書物を読むまで、何故黙々と黙って食べなければならないのか、
わからなかった…単に「行儀が悪いから」くらいにしか思っていなかった。
母親が心を込めて調理し、食卓に並べられた料理…
感謝の心で、「いただきます」と手を合わせ、よく噛んで食べる。
食事が終わったら、「ごちそうさま」と手を合わせ、箸を置く。
食事の行儀を知らない子は、人に挨拶が出来ず、履物も揃えられない…
一事が万事である。家庭で、親がやらないから…子もやらない。
躾けのない子は、成人してのち恥をかく…結婚しても我が子を躾けられない。
親の親…つまり、私たちの世代が、我が子をしっかり躾けてこなかったからだ。
859 【心と体の健康情報】
~禅僧・関 大徹~ 「食事の作法」
人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」から…
禅宗における食事の作法です。
禅宗の食事は、正坐と沈黙の中で行われる。
”ものを食う”という営みに、全身全霊を打ち込むには、まず、
必要最小限度の条件として、正坐と沈黙を守る。
おしゃべりついでに食事をしたり、テレビを見ながら食事をするのは、
せっかくの食事に対して、
申し訳が立たない。
遊び半分に食事の支度をするような主婦は、まずいまい。
ましてや禅宗の寺では、
台所方の食事の仕度も、修行の一つであり、それこそ、 全身全霊でやらねばならない。
世間一般の料理人なら、巧みに包丁をさばき、
おいしく味付けをして、綺麗に盛り付ければいい。それは、
技術にかかわることで済まされる。
禅宗の台所方は、技術より先に”心”が問われる。
道元禅師は、「この役に当たったものは『喜心・老心・
大心』の”三心”でもって当たらなければならない」と説いている。
「喜心」とは、自分に与えられた仕事を素直に喜び、
感謝する心である。
「老心」とは”親切心”のことである。本当の親切心とは、
親が子を育てるときのような”無私の心”でなければならない。
「大心」とは、字の通り”大きな心”…山のように高く、海のように深い心である。
いかなる材料を与えられても、うろたえてはならない…
臨機応変、たちどころに調理しなければならない。
台所方は、かかる”三心”をもって食事を提供する。
たとえ献立は貧しくても、料理の「心」をいただく。
真心をこめて一心不乱につくったものに、
真心で応えていただく。
そして、それに応えるのが本当の会話であり、その会話を豊かにするために”正坐と沈黙”がある。
沈黙の中に”無限に広がる会話”を楽しむのである。