■老いの時間
動物が一生に脈打つ心臓の回数は、ほぼ同じだという。
心臓が”15億回”脈打つと、象もネズミも、私たち人間も死んでしまう。
寿命の長い生き物は、そのぶん脈拍はゆっくりしている。
そういえば、我が家の愛犬の鼓動…動悸を打ったように人間の三倍
くらい早い。
象とハツカネズミの体重差は十万倍。
懐胎期間も、寿命も、「体重の四分の一乗に比例」する。
象の方がネズミより18倍、ゆっくりした時間を生きる。
この「老いの法則」に従えば、人間は”40歳半ば”で寿命が切れる
計算になる…人類の寿命は、長い歴史そのくらいだった。
日本人の平均寿命が50歳の大台を超えたのは、昭和も戦後に
なってからである。
故に、50歳を超えてからの老いの時間は、本来、人間界には存在
しないことになる。人間の才知と医療技術によって、人為的につくられた
寿命なのです。今の私は、寿命をはるかに超えた「おまけの人生」を
歩んでいることになる。
中央新書「ゾウの時間 ネズミの時間」
857 【心と体の健康情報】
~幸せな人生~
「死を迎える時、あなたは…」
ほとんどの人は、自分が死を迎える時のことを考えると、怖くなるので、
何も考えないようにしている。しかし私たちは、死ぬ日に向かって一日も休まず歩み続けていることを、
忘れてはならない。
二十歳の成人式を迎える青年が年々減って、少子化が心配されるのと反対に、
亡くなる人の数は急速に増加…昭和三十年の頃、 約70万人だった死亡数が、
平成15年には百万の大台を超え、
平成17年は108万4千人、平成47年には 160万人を超えるという。
社会は、高齢化社会から「多死社会」になろうとしている。
平均寿命は…昭和30年、女67.8年、男63.6年だったのが、
平成17年には、女性の寿命が17.
7年延びて、85,5年に、男性は15年延びて、78,5年に…。
昭和初期は、80歳以上の死亡者が5%にも満たなかったが、現在は、
全死亡者の5割に届こうとしているのです。
(平成19年 人口問題研究所)
少子高齢化が進むにつれ、高齢者の一人住まいが増える…
家族に看取られての死は、
もはや理想というか…夢と言うか…極めて少なくなってきている。
家族の介護を当てにせず、多くは老老介護の手を借りて、長い闘病生活の末に、看取る者もないまま、淋しい死を迎えることになる。
もとより人は、自分の死に方を選び、死にどきを選ぶことはできません。
死に場所も、昭和30年代は八割弱が自宅であった。
それが平成19年には、
90%
が病院で死を迎えるようになった。
自宅で死にたいと願望しても、叶わぬ時代になったのです。
生活から切り離されて迎える死。看取る家族のいない死。
多くの人が医療の発達で、病の床に伏した後、
死に至るまでの年数が伸び(平均6年)て…自分の意思には関係なく、
不自然に生かされ、
苦しみ続けたあげく、死んでいくのです。
死がそうであるなら、葬儀も当然のように変わってきている。
毎月、父母の命日には、
我が家でお経を上げてもらっている。
お参りの後の世間話で…
「お葬式で、
お経を唱えるお坊さんが、
三人はいないと寂しいのに、”
2人でよい”と言われることが多くなった…
二人だと、しばしばお経の合唱が途切れるし、葬儀も盛り上がらない」…
遺族の葬式のあり方が変わりつつあるのです。
つい最近まで、生活の基盤が自宅と近隣にあり、亡くなると、向う三軒両隣、
ご近所のコミュニティが総出で死者を見送ったものです。
今は、 地域のつながりが薄く、 血縁関係が弱体化して、
少ない家族がひっそりと見送る…
亡くなられた人の人生がしみ込んだ生活の場からではなく、
病院から直接葬儀場へ…
という図式になってきた。見送る家族もなく、
死後24時間火葬場の保冷庫に保管された後、
火葬される”直葬” も珍しくなくなった。
高齢者の意識も変化してきている。今までは「人並み」の立派な葬式を、残された家族がやってくれた。
しかし今は”地味婚”が流行る時代…「残す家族に迷惑を掛けたくない…」と、「出来るだけ身内で、簡素に送ってほしい」
と言い残す人が多くなった。
年老いて、孤独な一人暮らしの末、淋しい死を迎えることにならないよう…
生活のあり方を考え…
誰に看取ってもらうのか? どんな見送られ方をしたいのか?
今から考えておかねばならない。
碑文谷 創「変わる死、変わる葬送」より