■三度の災害を乗り越えた福井市
福井城跡の近くで生まれ育った映画監督”吉田善重”
十二歳の時、父に「空襲だ…私は家を守るから、お前は逃げなさい」
と言われ、
一人家を飛び出し…走った。
焼夷弾が降り注ぐ街を逃げ惑った。
橋の下に逃げ込んでも、木の下に隠れても、死の恐怖が迫ってくる。
どうやって街の外に逃げたのか…まったく覚えていない。
県都は、大空襲で焼き尽くされ、大津波の跡のように、原っぱに
なってしまった。
そのわずか三年後…復興しかけた街を、福井大地震が襲った。
M7.1の直下型地震が、またも福井市民を打ちのめしたのです。
平成10年には、九頭竜川が決壊し、川沿いの町は水害に泣いた。
度重なる辛い体験…その都度復興に立ち上がる…
福井市は「不死鳥福井」を宣言。
吉田監督は、死の恐怖の体験を乗り越えようと、「エロスー虐殺」
「戒厳令」など、一連の作品を世に送り出している。
856 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~県民性~「善光寺詣で」
県民性が育つ要因は、三つあるという。
一つは”風土”、一つは”歴史”、もう一つは”信仰”です。
北陸は雨がよく降る。夏は湿度が高く、やたらと蒸し暑い。
冬期四ヶ月は、灰色の雲が垂れ込め、
水気の多い雪が降る。
最近は地球温暖化で、昔ほど雪が降らなくなったが、今年は寒かった。
金沢は、冬の始まりと終り、夏の始まりと終りの季節の変わり目に、必ず雷鳴が轟き、「ガラガラビシャッ!」
と大地を震わせる。
他県から来た人は、そのものすごいエネルギーに驚き、恐怖する。
一年の半分は雨模様の金沢…「弁当忘れても傘忘れるな」と言われる土地柄です。
そうした気候風土に培われた性格は、
いたって内向的。
反面、一旦決めたら、粘り強く黙々とやりぬく強さがある。
どこかユーモアに欠け、きまじめさが目立つ…それ故か、芸能界で活躍する、
大物お笑いタレントがいない。
百万石城下町金沢は、謡や能、文学、
美術工芸などの職人文化が盛んだ。
しかし、京都の祇園祭りのような、
全国に知られる民謡や祭りがない…武家社会が、庶民文化が伸びやかに育つのを妨げたようです。
’09.10月配信メルマガNo704で、「越中強盗、
加賀乞食、福井詐欺師」を例えに、
北陸三県の県民性の違いを取り上げたが、 もう一つ、面白い小噺があります。
♪加賀・越中・越前の友人三人、揃って長野の善光寺詣でに出かけた。
見上げるような山門をくぐり、
大きな香炉に線香を上げ、三人は本堂の前に立った。
加賀の人は、草履をきちんと揃えて本堂に上がり…
越前の人は、
パンパンとはたいて、草履を懐に入れ…越中の人は、
左右行儀悪く脱ぎはなして、
本堂に駆け込んでいった。
さて、帰る頃になり、越前福井の人は、
やおら草履を懐から出して履いて出た…
加賀金沢の人は、
自分の草履が見当たらないと、うろうろ… それを見た越前の人、
「私のように懐にいれておかないからだ」と、
警戒心が薄く、 不要心な加賀の人をバカにした。
かたや越中富山の人…参拝人が脱いだ草履で、
一番立派なのを突っかけて飛び出していった。
よくよく見れば、越中の人が加賀の人の草履を履いているではないか…。
加賀の人は、草履を新調して旅に出た…越前の人は、
普段履き慣れた草履を履いて…越中の人は、
履き捨ててもいい、粗末な草履を突っかけて、旅に出た。
富山県や福井県の人にこの話をすると、
嫌な顔をされそう…。
私の父は、戦後金沢の中心香林坊で商いを始めた。
地震・大火・洪水・台風・戦災など、災害に合ったことがなく、
私の若い頃のあだ名は「お坊ちゃま」。
香林坊の旦那衆は、先代からの財産と暖簾を守り、真面目に商いをしていれば、
生活に困ることはなかった…性格はおっとりとして愛想がよく保守的…人を疑うことを知らない。
そうした土地柄のせいか、着るもの、
食べる物に見栄を張り、
暮しぶりはいたって贅沢。
戦災や地震で全てを失い、
ゼロから這い上がってきた福井や富山の人の暮らしぶりは質素…贅沢を慎み、額に汗し、粘り強くよく働く。
善光寺詣の噺は、北陸三県人の気質をズバリ言い当てていて、面白い。