■15メートルの堤防・水門…村救う 4/4 読売朝刊
津波で壊滅的な被害を受けた |
「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長は譲らなかった。
村は、1896年明治三陸津波と、1933年の昭和三陸津波で、
計439人の犠牲者を出した…村長は言い伝えを守ったのです。
854 [吉村外喜雄のなんだかんだ]
「未曾有の災害に思う…」
今回、東北を襲った大津波…
37メートルの高さにまで達した港町があるという…13階建ビルの最上階まで水没したことになる。海水に飲み込まれた一万数千人の住民が、未だ行方不明のまま・・
亡くなられた方々のご冥福を、心から祈らずにはいられない。
今から六十数年前…戦争で、全国の都市四十数ケ所が、
空襲で家を焼かれ、家族を失った。命からがら…
生残った人たちは、悲しみを胸に、生涯忘れることなく懸命に生きてきた…私も友人から、
そうしたすさまじい体験物語を聞いたことがある。
(2005.8.12 なんだかんだNo89)
以下は、富山大学/三宝政美・名誉教授が、10歳の時に体験した
「東京大空襲」です。
10日未明、私は両親と長姉を失った。小学生だつた私と次姉は、
群馬の伯父の家に疎開していたために難を免れたが、父や母がどこで死に、
どこに葬られたのか、いまだに不明のままです。
19年11月から、B29が東京上空に飛来するようになり、
空襲が繰り返され、
翌年3月の大空襲前には、 すでに被害家屋33,798戸、死者2,
544人を数えた。
だが、この戦果を生ぬるいとする米空軍は、
上空から目標を狙い撃ちするそれまでの戦術を転換し、軍の施設、民間人を問わず、
無差別に殺りくし尽くすという、
国際法にもとる、じゅうたん爆撃の戦術に出たのです。
その最初の空襲が、3月10日未明の東京大空襲だった。
火の手は折からの烈風にあおられ、父母が住まう下町一帯は、
焦熱地獄と化した。19万個の焼夷弾が街をなめ尽くし、炎の中を人々は逃げまどった。
9万数千人が焼死し、 被災家屋は30万戸に及ぶ、
生涯忘れられない悲惨な日になった。
1945年、連合国軍に次第に追い詰められて、敗色濃厚となった日本。
頃合いを見て、太平洋戦争、日中戦争を終結し、
国民の犠牲を最小限に抑える機会がたびたびあった…が、その都度逸してきた。
もし早期に終結していたら、
3月10日の大惨事は起こらなかっただろう。
その数ケ月後、7月26日のポツダム宣言をいち早く受諾していたら、富山・
福井の空襲も、広島・
長崎の原爆も回避できただろう。
戦後、伯父が亡くなる少し前に、両親と姉の形ばかりの葬式をしてくれた。
三人の墓は赤城山麓にある。
墓には三人の写真が納められたが、
どこかに生きているのでは…
という虚妄に後々まで取り付かれ、ある日ひょっこりと、三人が疲れきった顔で顕われる夢をよく見た。
三人がどんな思いで死んでいったのか…後に結婚し、
生まれてきた我が子の成長を見て、
考えるようになった。
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今回の震災もまた、死者たちを無残な姿のままに死なせないために、死の意味、
津波の意味をとことん突き詰めて、
今後の教訓として生かしていく…それが本当の追悼になると思うのです。