■多額の義援金を寄付した著名人・大企業
4月上旬、ソフトバンクの孫正義社長が、東日本大震災の被災者に、
一個人としては、100億円という驚くべき義援金を公にした。
この先、引退するまでの役員報酬全額を、寄付に充てるという。
企業ではユニクロ14億円、ソフトバンクと楽天がそれぞれ10億円。
コカコーラは7億円、その他多くの企業が数億円寄付している。
スポーツ界では、大リーグのイチロウがいち早く1億円を寄付。
プロゴルファーの石川遼は、今期の国内大会と海外メジャー大会の
獲得賞金全額を寄付…初戦のマスターズの賞金930万円と、一昨日
の東建カップで、4バーディ40万円+3位獲得賞金全額を寄付した。
その他有名人では、”AKB48”は6億円、”SMAP”は5人の合計が
4億円を超え、久米宏2億円、松井秀喜は五千万円の義援金を送って
いる。韓国のトップスター、ぺ・ヨンジュンも7千3百万円寄付した。
858 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「100億円寄付した孫正義」
国の内外から、心のこもった義援金や救援物資が続々届けられている…
4月上旬の日赤のまとめでは、義援金総額は1千4百億円を超えたという。
ちなみに、阪神淡路大震災の義援金総額は1千8百億円弱でした。
さて、個人で100億円寄付した孫正義とは、どのような人物なのか?
日本を代表する経営者でありながら、
京セラの稲盛和夫ほどには知られていない。
「理念と経営4月号/大経営者の名言・訓言」に、孫正義が載っていたので転載します。
「二十代で名乗りを上げ、三十代で二千億、四十代で二兆円、
五十代で事業を完成、
六十代でバトンタッチする」
織田信長・坂本竜馬を尊敬し、世界一の企業家を夢見て、19歳の時
「人生50年計画」を立てた。
現在53歳の孫正義…後進の社長育成に取り組む、「情報社会の風雲児」
「日本のビル・ゲイツ」
「インターネットの帝王」…
いや、平成の怪物経営者である。
昭和32年福岡県生まれの在日韓国人三世。子どもの頃家は貧しく、
祖母とリヤカーを引いて残飯を貰い歩いた。
いわれなき差別を受け、貧しさから抜け出そうと必死で頑張った。
16歳で、閉鎖的な日本を飛び出し、米サンフランシスコの高校に留学。
試験官を説き伏せて、ホーリーネームズ大に入学したエピソードは、
孫の天才的行動力を示している。
昭和55年カルフォルニア大学卒業。
徹底した有言実行タイプで、世界一の発明家エジソンを追い抜こうと、1日1件の発明に挑戦…1年365件は無理だったが、二年間に260の発明・
アイデアを生み出している。
孫のすごさは、「将来を見据える洞察力」、物事を決める前の
「徹底した分析」、そして「決めたら即実行に移す、
強靭な精神力」…困難にぶつかっても決してあきらめず、自らの意思を貫き通していく。
アメリカに行きたいと思ったら惑わず実行し、毎日5分間、
発明やアイデアを考える時間を作って、実践…成果を生み出していった。
大学在学中に、起業を決意する。事業資金を得ようと、小型のパソコンで特許を取得して1億円、
日本からゲーム機を仕入れて販売、1億円稼いでいる。
孫正義がゴルフを始めた時、三ヶ月間スイングのイメージビデオを見続け、潜在意識に叩き込んだ後、練習した…短期間で上達したのは言うまでもない。
大学卒業後日本に帰国。起業して日本一になる決意をするも、何をするかは白紙…
市場調査にたっぷり時間をかけ、やってみたい事業を11ピックアップ…
1年半熟考の末…昭和56年、24歳のとき
「日本ソフトバンク」を設立。
社員3名、机は二つ…早く出社した社員が机に座る…日々「行動はスピーディに」をモットーに、
初年度の売上は200万円。
平成6年37歳で株式を店頭公開。
事業を起こして数年後、病気で入院したことがある。
ベッドの上で中長期計画を練り、千通りのプランを立案…消却法で、
最も相応しいものを事業計画にまとめ、
退院後銀行に持ち込み、融資を受けている。
平成8年、社員15人、売上わずか2億円、赤字1億円の”米ヤフー”を、
インターネットのトップ企業にすると、
100億円で買収した。
ヤフーはその後、インターネットの巨大企業に成長…いち早く世界最大の市場・中国に進出…疾風怒濤の大躍進を遂げる。
いまや、インターネット全分野で、世界に関連会社800社をおさめ、連結売上高2兆7千億円の「孫帝国」を築き上げ、
「50年人生プラン」を実現した。