■苦難に遭って 3/2 職場の教養
兵庫県の西宮神社では、毎年一月に「開門神事福男選び」の神事が行な
われる。十年ほど前の神事のとき、先頭を走りながらも、残り5メートルで
転倒し、後続に抜かれてしまった平尾亮さん…TVで見た記憶がある。
間を置かずに交通事故にも遭い、塞ぎ込んでいた。
そんな平尾さんを救ったのが、「えべっさんが命を守ってくれたんやないか」
という友人の一言。以来平尾さんは、毎年神事の時、整理券配布・交通整理、
走者の服装指導などの手伝をするようになった。「福をおすそ分けする男」に
変身したのです。
何事であれ順調な時は、勢いに乗って前に進むことができます。
何事であれ順調な時は、勢いに乗って前に進むことができます。
が、ひとたび何かに躓くと、それまでの勢いが嘘のように止まり、マイナスの
面が表に出てきます…それが分岐点になって、
人生に影響を及ぼす
のです。
苦難に遭った時、「何に気づき、何を学ぶか」
で人の真価が
問われる。今は、苦しみの渦中にあっても、『だから良かった』と
言える日が来ることを、
心に留めておかねばならない。
845 [心と体の健康情報]
「死生観を養う(3)」
私たちは日々、
生きているのが当たり前のように暮らしている。その与えられた命…大切にしているだろうか? どのように生きようとしているのか?
以下、末期ガンと闘って健康を取り戻した、O医師の体験談…
最終です。
北陸は浄土真宗の盛んな土地柄です。親鸞聖人は「熱心に信心すれば、
皆等しく光輝く極楽浄土へ行ける…
地獄に落ちることはない」と説いている。
O医師、余命1年弱と言われ、絶望の淵に立たされた時、「たとえ死んでも浄土に行くことができるなら、
それも悪くない」との思いが救いになった。亡き母や友人、
祖父母が逝った世界に自分も戻って、一緒にいられる…と思うと安心した。
でも、モヤモヤしたものがある。「じゃあ、生きているうちはどうなんだろう?
努力すれば叶うのか…叶わずにこのまま死ぬとしたら、
それは努力が足らないからなのか」…あれこれ思いは尽きない。
残された時間はわずか…明るく前向きに生きようと思っても、
気持はなえる。
ガンとの闘いの中で、むしろ「人間は淋しく悲しいものだ」
との思いを持つことの大切さを、
S医師が教えてくれた。
死にいく人の顔を見ていると、みんないい顔になる…
今しがた亡くなった人とはとても思えない、仏さまのような表情をしている。
ある人にその話をしたら、「それは、死ぬ間際に何かを見るんじゃないでしょうか」と言うんです…死ぬ間際に何かを見て、ほっとするんじゃないか…と。
とすると、やはりそれは”あの世”
としか言いようがない…そんな気がするのです…
一面お花畑の、美しい”あの世”を見て安心し、心が和むのでしょうか。
人は誰しも、長生きしたいと願う…可能なら百歳までも生きたい。
もし願いが叶い、
百歳以上生きることができたとしたら…兄弟・ 我が子・親戚みな、 先に逝ってしまい、
友人も知人も他界していない…
一人取り残され、 寂しさだけが残る。
どこか適当な年齢で区切りよく死んだ方が、
本人も・周りも幸せだし、楽ではないだろうか。
死後の世界の有無は別にして、”死”
というものを考えて生きることは、良いことに思えてくるのです…とO医師。
自分が今生きているのは…十代先祖を遡れば、およそ千人の遺伝子が…二十代遡ると、何と百万人もの遺伝子が、今の私の身体とつながってくる…
生かされていることに気づくのです。
この命、自分一人のものではない。
先祖に支えられた我が命なのです。
ガンの病にならなかったら…死を覚悟することがなかったら…
そのことに気づかず、自分一人の狭い了見で、苦悩しているであろう…愚かさ。
病を得たことに感謝しなければならない。