■極楽浄土までの距離は?
仏教でいう「あちらの岸」とは…「彼岸」のことをいう。
そして、真宗門徒にとっての彼岸とは…「浄土」になる。
ところで、極楽浄土はどこにあるのだろうか?
浄土へ行きたいと思っても、浄土までどれくらいの距離なのか?
さっぱり分からない。
経典には、浄土は「西方十万億土の彼方」にあると説いている。
一体どれくらいの距離なのか?
1億光年の1億倍が1京光年…その十倍の10京光年になります。
現実の宇宙の広さは、約150億光年と言われているが、
浄土は、宇宙の広さの数百万倍の彼方になる。
つまり、どんなにもがこうと、行くことのできない距離なのです。
日々信心して、来世のことは、仏さまにおまかせするしかない…
極楽への道は、心の持ちようで、近くにも遠くにもなるのです。
三条教区勝覚寺住職・草間法照
839 【心と体の健康情報】
~禅僧・関 大徹~ 「病は死ねば治る」
今年七十になる。十年前還暦を迎えたとき、祝う気にはなれなかった…六十歳とはいえまだまだ元気で、
第一線から退く年齢には「早すぎる」と思った。
七十歳の節目の今、ようやく還暦を受け入れ、喜び・祝う気になった。
以下、人生の書/禅僧・関 大徹「食えなんだら食うな」からの抜粋です。
二十数年前大徹は…五十代の初めに癌を患い、
医師から死の宣告を受けたことがあった。
「ははあ、死ぬときが来たか」と思った…ところが良医を得、
手術のおかげで命をとりとめた。日頃は
「死ぬときは、死ぬるがよろしく候」という覚悟でいる。
いつ死に直面しても動じぬ心得で生きてきた…
それが本物であるかどうか、私は知りたかった。
あるいは、発狂しそうになるかもしれないし、
人か゜変わったように塞ぎ込んでしまうかもしれぬ…そうなれば、それでもよいと思った。
現実、医師から引導を渡されたとき、発狂も、
塞ぎ込みもしなかった…普段と同じだった。
お釈迦さまが説かれた「生・老・
病・死」の四つの”苦”は、
つまるところ生死の問題であり、「苦は…
生を受けたときに始まり、死を迎えたとき完結する」
「人間、何のために生まれてきたのか」という問いに対して、
万人共通の答えを求めるなら、それは「死ぬまでに何を為したか」であり、”老”も”病”
も、死への手続きにすぎないのです。
私はあの時…癌が進行していたら、癌の苦痛に耐えるだけでよかった…
いずれ死ねば治るのである。
当然の帰結に安心していられた。病に伴う死への恐怖などなかったのである。
自分は、自分一人で生きているのではなく、多くの人たちに支えられて”
生かされている”ことを、病を得て感じた。病になれば、
多くの人が我がごとのように心痛し、快癒すればまた、我がごとのように喜んでくれた。
人生…何が苦であるといって、”病”に勝る苦はあるまい。
人の世に病というものがなければ、
どれほど幸福であろうかと思う。
病苦を…健康な人は、病による”生理的苦痛”と安易に思いがちだが、
一度患ってみれば、
そうではないということが、
分かるであろう。
仏教には「転禍招福」の教えがある…禍を”除いて”
ではなく、 ”転じて”というところが面白い。
禍が降りかかって、免れることができないのであれば…その禍を”禍のままに”、あるがままへとひっくり返してしまえ…というのが、
仏教の味わいのあるところである。
何事も「モノは取りよう…思いよう」である。