■南伊の歴史の町アマルフィと、城下町金沢の共通点
南イタリアからローマに向うと、高い崖の上にへばりつく修道院や、
4~5百メートルの丘の頂きに、軒を寄せ合って建つ集落が遠望できる。
歴史を知らないと、何故あのような不便な所に人が住むのか?
不思議に思う。
世界遺産、南伊の町アマルフィ…荷車も通れない細い坂道が町中迷路
のよう…何故このような町をつくったのだろう? 町の歴史を知ったとき、
初めて納得するのです。
前田利家が拓いた城下町金沢…街路はやたら狭く、曲がりくねっている。
所々に「広み(広場)」や、行き止まりの「袋小路」がある。
城下に攻め込んできた敵を、広みや袋小路に誘い込んで討ち取る…
そんな戦術的意図でつくられた町。
今もそのなごりが、市内あちこちに残っている。
838 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「イスラムにとって聖戦とは(2)」
8世紀、アラブから発したイスラム勢力は、シリア、エジプトを「イスラムの家」にし、北アフリカの異民族リビア、チェニジア、アルジェリア、
モロッコ、 そして海峡を渡って、
イベリア半島 (スペイン)をイスラム圏に取り込んでいった。
9世紀、北アフリカの港から、
順風なら1日~2日の距離のシチリアや南伊へ押し渡るサラセンの”海賊”…南伊に住むキリスト教住民を、恐怖と絶望に陥れた。
神出鬼没の小型ガレー船は、キリスト教国の旗を掲げて人々の眼を欺き…上陸。
町に侵入して金品を略奪・破壊し、住民を拉致…獲物を手にするや、素早く海の彼方に消えていく…
繰り返される海賊・テロ行為は、
イスラムにとっては”聖戦”…
イスラムの敵、
異教徒の力をそぐ行為なのです。
帰港した彼らは英雄である…犯罪者ではない…
コーランの教え、「聖戦」を忠実に実行したのである。神の教えを誤って信じる、
キリスト教徒とユダヤ教徒を拉致して、財産を奪うのは、
イスラム教徒にとっては正当な行為なのです。
略奪してきた財宝や穀物、住民を奴隷市場で売り、その5分の1をお上に上納する。
海賊業は、地域社会を支える重要な産業になった。
拉致した奴隷は、海賊行為に欠かせないガレー船の漕ぎ手や、
船大工の職人、下働きの労働力として、
イスラム社会の雇用創出に重要な役割を果たした。
対岸のキリスト教国の大規模な修道院や教会には、信徒が奉納した財宝・
お宝が詰まっている。上陸後、
狙いを定めて、そうした獲物を効率よく略奪し、持ち帰った。
イタリア半島からフランスの地中海に面した海岸の町は、
九世紀から十世紀にかけて、
サラセン海賊の襲撃に震えおののいたのです。
大規模な修道院は、たび重なるサラセンの略奪にそなえ、城塞のようなつくりに変えた。
人々は海に近い土地を捨て、
安住の地を求めて切り立った崖の上や、
山間部奥深くに移り住んだ。
中には、生活に不自由な山岳に逃れたりせず、
海ぎわの地に留まる住民もいた。
その象徴が、地中海貿易でベネチュアに匹敵する繁栄を誇った、海洋都市アマルフィ。
急斜面に家が建てられ、快適性を犠牲に、曲がりくねった小路を迷路のように町中に張り巡らせた。
肩幅しかない細い坂道の先に、
突然広場が開ける…
賊がまぎれ込むと、小路を鉄の扉でふさいで、
袋のネズミにした。
いつ襲ってくるかわからない海賊…
いち早く発見し、
被害を最小限に食い止めようと、海を眺望できる岬や崖の上に、
「サラセンの塔」と呼ばれる監視塔を、数キロごとに建てた。
そして、サラセン人の来襲を迎え撃つ軍船隊が組織された。
前期中世は暗黒の時代だった。地中海の波が洗うすべての地域が、サラセン海賊の餌食になり、数世紀の間、海賊の被害に泣いた。
すべての地が、略奪と殺戮と焼打ちに合い、剣から逃れられても、
炎から逃れられず、炎から逃れられても、
待っているのは鉄鎖につながれ、連行され、異教徒の地に送られ、その地で奴隷として酷使され…死を迎える。
この時代、地中海沿岸に住むキリスト教徒は、絶望に生きるしかない運命にあった。
塩野七生著「ローマ亡き後の地中海世界」より