■呼吸法
ヨガで大切な呼吸法。ところで、「吐く」と「吸う」とは、どちらが先と
捉えればよいのでしょうか。普通に「呼吸してください」と言うと、
多くの人はスーッと息を吸って、その後にハーッと吐きます。
まず酸素を充分に吸って、炭酸ガスを吐き出すのです。
呼吸の「呼」は「吐く」の意で、「吸」は「吸う」の意です。
文字通りに呼吸とは、「吸って吐く」の繰り返しなのです。
しっかりと息を吸うことによって、自然に息を吐くことができます。
この呼吸のリズム…私たちの生き方にも当てはまります。
ヨガの呼吸法は、すーうッと3秒吸って、ゆっくり7秒吐き出します。
「吸う」は人から与えられることで、「吐く」
は人に施すことに通じます。
人は、一人では生きられません。人から三つ与えられたら、
それに倍する七つ、お返ししなければなりません。
見返りを期待する行為は、良い生き方とはいえません。
人に奉仕し、人の喜ぶ姿を見て、
自分の喜びとしたいものです。
837 【心と体の健康情報】
「死をみつめる」
以下、同朋大・大学院教授・三重県行順寺住職/田代俊孝
「ビハーラ往生のすすめ」
からの抜粋です。
人間は欲深い生き物です。思い通りにならないのに、思い通りにしようとし、
思い通りにならないことに悩み苦しむのです。
大腸ガンで亡くなった阿部幸子さんは、著書「生死をみつめる…
進行ガンの患者として」で、患う前は自分の力で生きていると、自信過剰な私であった。
人生の困難に直面した時も、
自らの力で活路を見出してきたし、様々な状況に柔軟に対応する能力があると思っていた。
そうした自信にあふれた人生…ガンを患って、
立ち止まざるをえなくなったのです。
まず、第一に浮かんだ疑問は…
これまでの人生、「本当に自分だけの力で生きてきたのか?
」ということであった。
「他力によって生かされてきた」…
何故今までこんな単純な心理に気づかなかったのか。気づくのが遅すぎたと思うと同時に、
気づかぬまま死んでいくよりよかった」と語っている。
”煩悩”に囚われている間は、どんなに長生きしても、
「こんなはずではなかった…もっと長生きしたい」と、我が身の不幸を嘆く。
老いたくない…病気になりたくない…死にたくない…という虚妄が、
死すべき状態にさらされたとき、
思い通りに生きてきた自我が、打ち砕かれてしまうのです。
そこに、老いてあたりまえ、死んであたりまえ…と、
「あるがままを、あるがままに」受け入れる境地が開かれてくる。
まさに”我”が破れた”無我”の世界である…
これを親鸞は自然法爾(じねんほうに)
と言った。
ここで誤解してはならないのは、
何でも思い通りに自然体でいればよいということではない。それは「あるがまま」ではなく、「我がまま、気まま」なのであって…無我ではないのです。
仏教の”救い”とは、ガンが治ることではない…死なない体になることでもない。
ガンをガンのままに、あるがままに「これでよし」と受け入れられるよう、
こちらから”転じて”いくことである。
ガンを患った人は誰もが、「ガンは、今まで気づかなかったことを、
沢山気づかせてくれた…
生かされている自分、家族の愛、朝目覚める喜び…様々な気づきを与えてくれた」、「ガンは宝です」
と言って逝った人もいる。
ガンを患ったことで、それまでの価値観が変わり、
事実をあるがままに受け止めることができるようになったのです。
(鈴木章子著「癌告知のあとで」)
良寛の言葉に…
「老いるときは老いるがよかろう、死ぬるときは死ぬるがよかろう」
がある。
これが、災難を安らかに逃れる妙法である。「老・病・死」に逆らい、
そこから逃れようとし、
うち克とうとすればするほど、
苦しみの刃は鋭く我が身に突き刺さってくる…。
生まれたからには、いずれは死ぬ。死を迎える時に
「こんなはずではなかった」と、不平不満を言って死ぬのか?
「いい人生だった」と”満足”して死ぬのか?
死を目前にして、死を受け入れざるを得なくなった時…心の持ちようで、楽にもなれば、苦にもなるのです。