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~禅僧・関 大徹~ 「よく生きぬくとは…」

■親鸞聖人の「極楽浄土」
 
新年から、北陸中日新聞に小説「親鸞」の連載が始まり、
毎日楽しく読んでいる。
北陸は浄土真宗が盛んな、信心深い土地柄です。
 
親鸞の時代は、生きていくのが大変な時代であった。
当時の仏教の教えは、善行を積まないと、
来世「地獄に落ちる」と説き人々の心に重くのしかかた。
 
怖い鬼がいて、血の池地獄、針の山地獄と、人々を苦しめる
絵図が、信者の脳裏に焼きついて離れないのです。
日々、生き地獄のような暮らしをしているというのに、
死んでまた地獄かと…信者は悲嘆にくれたのです
 
親鸞聖人は、「熱心に信心すれば、皆等しく光輝く
極楽浄土へ行ける地獄に落ちることはない」と説いた。
当時の人々に、生きることへの希望与えたのです。
 
 
 
833 【心と体の健康情報】
~禅僧・関  大徹~ 「よく生きぬくとは…」
以下、人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」から…
 
人間生まれてきた以上、必ず死ぬときがくる。死というのは、人間が行う最大の事である。
生死一如生きるとは 死ぬことであり、死ぬことは 生きている者証しである
これが仏教の大原則である。
 
禅宗では、人は死んでも「(ごう)」という働きが永遠に残る。
苦しんで死ぬのも、ぽっくり死ぬのも、そのための通過点であり、死ぬ時になっみなければ、誰わからない。
 
わかっているのは、生きている間に「次に生まれ変わってきたとき、何をなすのか」という課題を、しっかり固めておかねばならぬということである。
その覚悟ができ、「業と因果の道理」をわきまえることができたら、これまで生きてきた短い人生の、この上もない尊さがわかってくるであろう…これが仏教・禅宗の考え方です。
 
-  *  -  *  -  *  -  *  -
いずれ死ぬ時が来る。その時に備え、普段から、いつその時がやって来ても、シャキッと腹を据えて臨めるようにしておかねばならない。
 
ところが、いずれ死ぬときが来るに、そのこに触れたくないし、考えようとし…いや、「考えたくない」のがでしょう。しかし、生きている以上は、いつか必ず死を迎えなければならない。
まだ若いからとか、人生、先が長いからといっても、誰も将来のことはわからない。ある日医師から、癌の病で余命三ヶ月と告げられるかもしれない。死はまだまだ先のことだと、勝手に思っているだけなのです。
 
太平洋戦争で赤札が来た時、多くの青年は、国のために死ぬ覚悟で、出征していった。そして、一部の若者は「特攻隊」に志願し、散っていった。
数年前、そうした特攻隊員を教育・訓練した、生き残り教官の講演を聞いた。
戦後になって、博識な文化人が「将来る若者が、国の犠牲になって死んでいた」と哀れんだが、「それは全く違う!」と元教官。
 
「お国のために自ら志願し、命捧げたのであって、上官の命令で特攻隊になったわけではない。どの青年も、ら死に行くというのに、明るくさわやかであった…己の運命を呪ったり、泣喚いたりする者ただの一人もいなかった」と当時を振り返って、語るのです。
 
忠臣蔵の浅野匠守…不祥事の責任を問われ、お上から切腹を言い渡されたとき、「いかに潔く散るか」ということが最大事だった…時世の句を詠み、いさぎよく腹切った。
誰一人、恐れおののいたり、痛さを想像するまり泣き叫び、命乞いをすという、みっともない行為をする者はいなかった。武家に生まれた以上、切腹もありうる。若くして武家の作法を身につけ、覚悟が備わっていたのです。
 
いつ我が身に降りかかるかもしれない”死”…普段からその覚悟が出ていれば、その時になって不運を歎いたり、死を恐れたりことはないであろう
昨年の大河ドラマの正岡子規のように、どんなに辛く苦しい病であっても、いずれは死ぬ…死ねば治るのです…これが禅宗の教えです。

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