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青砥藤綱の逸話

■江戸町奉行…もう一人の名奉行

国会は「尖閣問題」や「砲撃事件」 で、責任の所在をめぐり大荒れ…                                                                                 非常事態が発生した時、 咄嗟に判断を下すのは難しいものです。                                                                                  ましてや、 責任が我が身に振りかりそうだと、 責任の擦り合いになってしまう…                                                                                                            裁きの名奉行といえば、 大岡越前守や遠山金四郎が有名ですが、                                                                        同じ江戸町奉行にもう一人” 根岸肥前守鎮衛”という名奉行がいた。                                                                                         

逸話には…津波で、大船が永代橋に衝突するという事故があった。                                                                               永代橋が壊れ、 橋を管理する橋守が、奉行所に賠償を出訴した。                                                                          奉行・ 鎮衛は「天災のことゆえ是非に及ばず」と、その訴えを退けた。                                                                                                          

納得しない橋守に鎮衛は、「船主に賠償させるのはよいが、 事故によっ船も壊れた…そこに橋があったことが原因である。 よって、船主の損害を賠償しなければならない」と言い渡した。                                                                                                            橋守は、 即座に訴えを取り下げた。                                                                                                                                                                                          

災難に合ったとき…つい他人のせいにしてしまいがちです。                                                                             広い視点に立って、 皆が平等に甘受するにはどうすべきかを考え、                                                                        裁定した逸話です。                                                                                                                               

 
 
820  【吉村外喜雄のなんだかんだ】   
~故事から学ぶ~ 「青砥藤綱の逸話」
 
青砥藤綱(あおと ふじつな)という人物…いつの時代に、何を為した人物なのか?  私にはなじの薄い人物ですが、逸話は何かで記憶している
 
青砥藤綱は鎌倉代後期の武士で、出身は上総とも武蔵いう。11歳の時出したが、 21歳時還俗して家に帰った。
学問に優れ、儒教仏教に広い知識を有していた。
 
当時の執権・北条時頼に仕え、幕府の訴訟審理(裁判官)の役を務め、 閣僚クラスの地位あった。権力にこびたり、 おごることなく公平な裁判を行い、常日頃から質素倹心がける、清廉白な人柄だったという。
 
江戸中期の大岡裁きは有名だが、その数百年も前に、剛直な姿勢を貫き、 人情味れる名裁判官として、”藤綱裁き”の逸話が数多く、今に残されているのです。
 
[逸話1] さる人が、時の最高権力者、執権・ 時頼と所領を争った際、どの奉行も、時頼の権威を恐れて”敗訴”にした。 それを聞いた藤綱は、道理を重んじて所領を返し、謝礼の金銭も受け取らなかった。この1件から、 公正・剛直の藤綱の名が、広く知られるようになった。
 
[逸話2/銭ざらい]  夕刻、 橋を渡ろうとしていた馬上の藤綱、石ころにでもつまづいたのか、突然馬もろとも転倒した。そのはずみで、 銭が巾着袋からこぼれ落ちてしまった。 こぼれた銭を拾い集め、数えてみるが十文足りない。
共の者にも探させたが、辺りが暗くて見つからない。
 
そこで藤綱は、松明を買いに走らせ、村人にも声をかけ、一緒に探させた。
ようよう文拾い集めることができた…十文を探すために使った金子は、松明を含めて五十文…人々は「何と愚かなことを…」と笑った。
 
しかし藤綱には、凡人には思いもせぬ、深い思慮があった。
「十文は小なりといど、失えば天下の損… 五十文の出費は自分には損だが、の手に渡り益となる」お金は天下の回りもの…生きたお金の使い方を、 藤綱は実践してせたのです。
 
北条時頼・時宗二代に仕えた藤綱…広大な所領を有し、家財に富んでいたが、 日々の暮らしは質素倹約を旨とし、人への施しを好み、 入る俸禄は生活苦にあえ人々に与えたという。
藤綱が職にあったときは、役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。
 
                 フリー百科事典「ウィキペディア」                            

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