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2010年11月 アーカイブ

2010年11月01日

入団当初の長嶋茂雄、王貞治

■天皇賜杯
 
大相撲夏場所で優勝した白鵬…天皇賜杯が貰えず、 悔し涙を流した。
アマチュアスポーツ、全国競技の多くに天皇杯がある…
都道府県対抗の国体、駅伝、サッカー、テニス、陸上競技、水泳、
体操、弓道、剣道、卓球、バスケット、バレーボール、 レスリングetc
 
プロ野球には天皇賜杯がない。天覧試合は、公式戦では昭和34年
の巨人阪神戦…後にも先にもこの一戦のみ。
試合展開は、後に伝説の試合となる、まれに見る熱戦となった。
 
昭和天皇は、公式戦以外にもう一戦観戦している…
昭和41年の日米野球…全日本選抜は、ロサンゼルス・ドジャースに
11対3で快勝した。巨人は堀内投手が先発し、長嶋選手はこの試合
でもホームランを放っている。
 
 
811 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「入団当初の長嶋茂雄、王貞治」
 
今年の文化勲章受章者が政府から発表されました。 合わせて文化功労者も選ばれた…王貞治さん、 吉永小百合さん、そして漫画家の水木しげるさんの3名です。
ブロ野球界からは、川上哲治さん、長嶋茂雄さんに続く栄誉です。
 
長嶋茂雄選手は、立教大時代に六大学・ 8本の本塁打記録を持ち、昭和33年巨人に入団した。入団するや、 打点92、本塁打29本の「二冠」を奪取。
打率は3割5厘2位… 三冠王にあと一歩に迫る活躍で、「新人王」を獲得した。
 
天才スターの登場である…長嶋選手がグラウンドに立つだけで、 ファンの心をわしづかみにした… すべてがダイナミック…走ればカモシカ… 明るく躍動感がり、 太陽そのものである。
天性のバッティングで、どんなに体勢が崩れても、 バットの芯で球をとらえた。
 
一方の王貞治…昭和34年、甲子園優勝投手として、鳴り物入りで巨人に入団。 直後のキャンプで、早々に投手失格を言い渡され、 打者転向を命じられた。しかし、内角高めが欠点の王…
 
1年目の昭和34年は、1割6分・7本塁打。初打席から26打数ノーヒットだった。 2年目は、2割7分・17本塁打と、まずまずの成績だが、101個の三振の山。
3年目も低迷…即戦力と期待されたアイドルの、三年間の姿です。
 
34年の天覧試合で、サヨナラ本塁打を放った長嶋選手は、 神話となって今も継がれる。この試合で、入団一年目の王選手も、 小山投手から同点本塁放っいる…ONアベック本塁打第一号であることは、あまり知られてない。
 
天覧試合で巨人が勝利したのは、王選手の活躍も忘れてはならない… なのに印象がは、長嶋選手が本塁打を2本打ち、その一本が衝撃的サヨナラホーマーだったことにある。
 
長嶋選手は、昭和49年に引退するまで、本塁打王2回、 打点王5回、首位打者6回と、 輝かしい戦績を残した。王選手と共にONコンビを組んで巨人”V9” 達成の原動力になった。
                                 読売新聞 「時代の証言者」より

2010年11月04日

我が家はみんなが悪い…

■友情を誓うことば
 
『 我為人人  人人我為 』
「我は人々の為に 人々は我の為に」
 
フランスの小説「三銃士」の中で、
ダルタニャンが発案した友情を誓うことば。
この教訓は、人間がとるべき行動の規範として、
広く世界に知られている。
 
 
812 【心と体の健康情報】
~幸せな人生~ 「我が家はみんなが悪い…」
以下、今週の倫理681号から…ある小学生の作文です。
 
『きょう私が学校から帰ると、お母さんが「お兄ちゃんの机を拭いていて、金魚鉢を落として割ってしまった。
もっと気をつければよかったのに、お母さんが悪かった」と言いました。するとお兄ちゃんは、「僕が端っこに置いておいたから、僕が悪かった」って言いました。
 
でも私は思い出しました。きのうお兄ちゃんが端っこに置いたとき、私は「危ないな」って思ったのに、それを言わなかったから、私が悪かったと言い出しました。
 
夜帰ってきて、それを聴いたお父さんは「いや、お父さんが金魚鉢を買うとき、丸い方でなく、四角い方にすればよかったなあ…お父さんが悪かった」と言い出しました。そしてみんなが笑いました…うちはいつもこうなんです…うちの家はいつもみんなが悪いのです』
 
- * - * - * - * - * -
 
私たちは、何か問題が生じると、小学生の「うちの家」とは逆に、自分のことは棚に上げて、問題を人に擦りつけ、他人のせいにしがちです。
「自分は精一杯やったのだから、あとは君たちの責任だ」「伝えるべきことは伝えたのだから、よく理解しなかったお前が悪い」…無意識に、このような心理が働くのです。
 
こうした心理状態では、起こった問題を解決するのに、自分自身はもちろん、相手にとっても、何のプラスも進歩も望めません。
「自分が悪かった」「自分の配慮が足りなかった」と振り返る心が、場を和ませ、人間関係を良くし、やる気を引き出していくのです。
 
生活や仕事の場で、日々様々な問題が生じます。
その原因の所在をきちんと究明することは大切ですが、その前に「自分自身に、何か至らぬ点はなかったか」を冷静に振り返る。そのような謙虚さを持っていたいものです。
 

2010年11月08日

ホームラン王・王貞治

■シーズン最多ホームラン
・1 位  55本 王貞治 (1964)  ローズ(2001) カブレラ(2002)
・4 位  54本 バース(1985)
・5 位  52本 野村克也(1963)   落合博満(1985)
・7 位  51本 子鶴(1950)   王 貞治(1973) ローズ(2003)
・10位  50本 王 貞治 (1977)  落合博満(1986)
           松井秀喜(2002)  カブレラ(2003)
 
■通算本塁打記録(2010.シーズン終了時)
[1位]王貞治 868 [2位] 野村克也 657   [3位]門田博光 567
[4位]山本浩二 536 [5位]清原和博 525  [6位]落合博満  510
[7位]張本 勳、衣笠祥雄 504  [9位]大杉勝男 486  
[10位]田淵幸一  474  [11位]土井正博  465  [12位]ローズ  464
[13位]金本知憲  458   [14位] 長嶋茂雄 444  [15位]秋山幸二 437 
 
 
813 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「ホームラン王・王貞治」
 
中日フアンの私には悔しい一昨日、そして昨日の日本シリーズ…手に汗握る大熱戦の末、 ロッテに今年の覇者を持っていかれてしまった。
クライマックスシリーズでは、2位の西部とリーグ優勝したソフトバンクを倒し、その勢いに乗ってチーム一丸… 日本一への執念はロッテの方が勝っていたようで、中日はねじ伏せられてしまった。
 
私が10歳だった1951年から、昨年2009年までの59年の間に、巨人は32回日本シリーズに出場している。 中でもV9を達成した1965年から1973年にかけての王、長嶋両選手の活躍は、巨人フアンに留まらず、日本中が巨人の3・ 4番に熱狂した。    
 
3番の王貞治が人生を振り返るとき、何か不思議な力で導かれていることに気づくという。
以下、王貞治のプロ野球人生…「少年時代の1~7」 (なんだかんだ809号)に続き、社会人になって後、8~12いずれか一つでも欠けていたら、巨人の王・ 世界の王は生まれなかっただろう。
 
8.[投手の力量が認められていたら、ホームラン王はなかった]
昭和34年(1959)投手として巨人に入団し、宮崎キャンプに参加した。しかし、 先輩の球と比べると、遅く感じられた。
2月、水原監督に呼ばれ、打者への転向を告げられた。
投手としての力量は、早実2年の夏が最高だったようです。
 
9.[打撃の神様、川上が現役でいたら…]
4月11日の開幕戦では、7番1塁手でスタメンデビュー…国鉄・ 金田正一投手に2打数2三振1四球と、ひねられてしまった。
打てなかった…打席に立つと「オー、オー三振王!」とヤジが飛ぶ…26打席ノーヒット… 4月26日の27打席目にようやく初安打…それが初ホームランになった。
 
幸運だったのは、川上哲治の引退と入れ替わりに入団したこと…
王選手の打撃センスに期待した水原監督が、我慢をして使ってくれたのです。 一年目の打率は1割6分1厘…川上が現役でいたら、出番はなかっただろう。
 
10.[2年目に入団してきた木次選手とのレギュラー争いが、 王を育てた]
二年目にようやく2割7分、本塁打もチームトップの17本打った。
入団2年目に早稲田の一塁手で、六大学リーグで長嶋に次ぐ通算7本塁打の強打者、木次選手が入団し、 レギュラー争いをした…負けたらベンチを温めなければならない…必死だった。
木次選手は、早大入試のとき受験票を忘れ、1年浪人した…
1年早く同期に入団していたら、貞治は競争に負けていただろう。
 
11.[長嶋選手の存在が、世界一王を育んだ]
「ON砲」と恐れられるようになったのは、王貞治が37年に「一本足打法」を会得して、 38年長嶋選手とともに、巨人優勝の原動力となってから…。
チームの中心4番に長嶋選手がいたから、伸び伸びとバッターボックスに立つことができたのです。
年上で大卒の長嶋選手とは、絶対同格にはならない… 王選手にライバル意識が生まれなかったことで、「ON砲」がうま機能したのです。
 
12.[荒川博が巨人の打撃コーチにならなかったら、 世界の王は生まれなかった]
3年目はスランプに悩まされ、打率2割5分3厘、本塁打も4本減って13本に終った。 猛練習をしたものの、バッティングに自信が持てない。川上監督は、荒川博をコーチに招き、「王を本塁打25本、 2割7分打てる打者にしてくれ」と頼んだ。
 
貞治が中学二年の時偶然出会い、貞治を見て左で打つように助言…早実に行くよう勧めてくれた荒川博… 奇跡というか…運命を感じた。
 
                           読売新聞「時代の証言者」
 

2010年11月11日

孔子の教え(29)「過ちを改むる」

■過ちを犯さないための「七常の心得」
 
1.「仁」 思いやりをもち、相手の立場や気持になって考える
2.「義」 人として行いは正しく、そのための犠牲もいとわず
3.「礼」 謙虚にでしゃばらず、鼻にかけず、人を見下さない
4.「智」 智恵と判断力、洞察力を磨く
5.「信」 誠意をもって自分を偽ることなく、約束を守る
 
6.「勇」 私欲を捨て、決断力をもって事に当たれ
7.「寛」 寛大で寛容な心をやしなう
 
 
814 【心と体の健康情報】 
~古典から学ぶ~  
孔子の教え(29)「過ちを改むる」
 
(あやま) てば  則ち改むるに憚(はばか)ることなかれ
                                (学而編)
「過ちに気がついたら、改めるのに誰にも遠慮はいらないよ」
 
孔子の教え(24)でも取り上げましたが、よく知られる論語の言葉です。
が、いざ実行するとなると、大変勇気のいる言葉です。
孔子は「完全無欠の人間はいない、人間であれば誰でもあやまちを犯 言っている。大事なのは、 過ちの後の処理の仕方です。
 
過ちに気付いたら、弁解したり取りつくろったりせずに、男らしく過ちを認め、改める。そして、 その後の人生に生かしていくこです。
論語には、そうしたことを前提にした、過ちについて述べた章がいくつかあます
 
子曰く 過ちて改めざる 是を過ちという(衛霊公第十五)
「誰にも過ちはある。過ちに気付きながら、なかなか改めようと
  しない。  これが本当の過ちだ」
 
子夏曰く 小人の過つや 必ず文(かざ) (子張第十九)  
「子夏が言った。つまらない人間は、過ちをすると、言葉巧みに
 言い逃れをしようとする」
 
子曰く 已(や)んぬるかな 吾未だよく其の過ちを見て 
 内に自ら(せ)むる者を見ざるなり        (公冶長第五)
「なんともしようがない世の中だなあ。私は、まだ自分の過ちを
 認めて、心底から自分を責める人を見たことがない」
 
良好な人間関係を築くために、教訓にしなければならない孔子のことばです…
しかし、「思っている」だけで、実行しなければ、 改まりようがありません
 
私のゴルフは我流です…書店で買ったゴルフ指南書を違って理解し、間違ったスイングでせっせと練習励む私
 
見かねたゴルフ仲間の指摘で…あるいは、自らのスイングをビデオで見て…    初めて違いに気くのです。早速改めようとするが、悪い癖が身についていて… 少々のことでは改まらない。
今までの何倍も練習しなければ、間違を正すことができないのです。

2010年11月15日

ホームラン王・王貞治(2)

■王シフト
 
昭和39年5月3日阪神戦…王選手は、記録に残る4打席連続本塁打を打った。
その5年前の5月3日の天覧試合も阪神戦…何か因縁めいたものを感じる。
 
2日後の5月5日の広島戦…初回、王選手が打席に立つと、広島の守備陣は
そろって右翼に移動…三塁側はがら空き…極端な王シフトの始まりです。
 
向かうところ敵なしの王選手に対抗するために、広島の白石監督が考案した
「王シフト」です…これ以降、他球団も真似をして、フアンの注目を集めた。
 
王選手は意に介せず真っ向勝負…7月に一度だけ、がら空きの三塁線に
セフティーバントを試みた…誰も守っていないため、二塁打になった。
試合後「すっきりしない…気持いいものではない」と、記者の質問に答えている。
                                  読売新聞「時代の証言者」
がら空きのヒット…イチローだったら、どう言うだろうか?
 
 
815  【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「ホームラン王・王貞治(2)」
 
王貞治が人生を振り返るとき、 何か不思議な力で自分が導かれていることに気付のです。
以下は一本足打法を体得した後の、王選手の逸話です。
 
4年目の昭和37年2月、マンツーマンの荒川道場がスタートした… 「やる気がなら、 3年間は俺の言うことを黙って聞け」 「夜遊びはやめろ、 酒もタバコもやめろ」
チーム練習終了後に素振りをし、夕食後と夜のミーティングの後にも振った… 一日回は振ったでしょう…パンツ一枚の裸でバットを振らされ、 とことん絞られた。
 
13.[一本足打法の成功がなかったら、世界の王はなかった]
弱点の内角攻めを克服しようと、「一本足打法」に取り組んだ。
忘れもしない7月1日の大洋戦、荒川から「今日は足を上げて打て!」と言われ、 初めて一本足で球を打った。
 
前日の大洋戦は、3打席2三振に抑えられていた。
結果は、本塁打を含む5打数3安打の猛打賞… あの日もし打てずに終わってら、一本足打法は夢のまま、 終わっていただろう。
 
マスコミの「一本足打法」への評価は、「あの構えでは、 タイミングを外されると手も足も出なくなる…田んぼのカカシだ。強い風が吹けば倒れる」などと…極評。
 
練習は更に厳しくなり、7月1ケ月に10本打った…それまでの3ケ月間は9本だった。 結果が出始めると、自ら進んで猛練習。その年、本塁打38本、 打点85の活躍2冠に輝く。
 
2年後の昭和39年には、前年に南海の野村選手が作った日本記録、 52本の本を抜いて、55本塁田達成…この記録は今も破られていない。
打点も119…ところが又も、 中日の江藤真一に首位打者を3厘差で阻まれ、三冠を逃したが、 初のMVPに選ばれた。
 
昭和40年…4月には35打席無安打、8月には85打席無安打と、大スランプ陥る。 「一本足打法」という不安きわまりない打ち方…他人にはとても勧められない。
体全体の力を一点に集中し、ぶつけていく。打球は遠くへ飛び、 本塁打が出やすなる。 その反面タイミングがずれやすく、フォームが崩れ、三振が増える。
 
この年、2年連続で本塁打王、打点王の二冠を獲得したが、 首位打者は又々中日の江藤に持っていかれた。
                       読売新聞「時代の証言者」

2010年11月17日

2:6:2の法則

■11月22日は「いい夫婦」の日
 
ある結婚式の披露宴で…「私たち夫婦は、結婚以来夫婦喧嘩をしたことが
一度もない」と、某来賓の祝辞…本当だろうか? 
私と妻…振り返ると、若い頃派手によく喧嘩をした。
お互いエネルギーが有り余っていたのでしょう…最近は歳のせいか喧嘩を
しなくなった。
米ミシガン大で、州内192組の夫婦を17年間追跡調査した…
お互い喧嘩になりそうな時、反論せず、グッと我慢してしまう夫婦の死亡率は
25%だった。
対して、夫婦喧嘩でストレスを発散して、問題を解決してしまう夫婦の死亡率
は、12.3%と約半数にとどまった。
 
嫁と姑の争そい…ストレスを溜め込んだりせず、言いたいことを言い合った
方が、健康に良いということになるが…
大切なのは喧嘩の後…「自分は正しい…間違っていない」と意地を張らず、
素直に謝って、いつまでも尾を引かぬことです。
 
 
816 【心と体の健康】
~幸せな人生~ 「2:6:2の法則」
 
先週・日曜夜のTV番組で、瀬戸内海で養殖している”鯛”が、 十年くらい前から伝染病全滅してしまう問題を抱え、生産者を悩ませ、死活問題にいた。
 
抗生物質などの薬を投与せずに、安全に細菌を駆除する方法を模索していたところ、 偶然、生簀にサンゴの天敵”オニヒトデ” を入れると、 鯛が伝染病にかからないことがわかった。
オニヒトデから排出されるある種の液体が、鯛の体内に入ると免疫力が高まり、 体内に潜む病原菌を退治してしまうことが分かったのです。
 
日本海で獲れた”鯛”を水槽に入れて、東京へ陸送する時、同じ鯛ばかりだと目的地に着く前に弱ってしまう…それでは生きのいい鯛を届けることが出来ない。
 
そこで、ウナギでもヒラメでもいい…種類の違う魚を群れの中に入れておくと、 鯛は元気なのです… 何故だろう?…自分たちと異なる魚が身近にいると緊張する… その緊張が種の生存力を高め、元気の基にっなているのです。
 
この話は、組織や同業者の中で、「2:6:2の法則」となって現れてくる。
組織の中で業績が良く、 全体を引っ張っていける人や企業は…約2割。可もなく不可もない人や企業は…約6割。残り約2割は、組織内での存在感がない。
 
トップ集団の2割が、何らかの理由で組織から抜けてしまったら…どうなるでしょう。 残った8割の中から、トップクラス2割にレベルアップする人や企業が出てくる。
 
反対に、駄目な2割がいなくなったら…残った8割から、 駄目なグループにレベルダウンる人や企業が出てくる…これが心理学における「2:6:2の法則」です。
 
私たちの社会は、様々な人間模様で成り立っている…地位の高い人、 普通の人、お金持ち、貧しい人、強い人、 弱い人…社会に格差があるからこそ、緊張が生まれ、競争原理が働いて、社会全体が活性化するのです。
 
貧富の差のない平等社会を理想とする、 共産主義をイデオロギーにする国々がしたのは、「2:6:2の法則」 が働かなかったからです。
 
会社では、社長を取り巻く経営幹部がイエスマンばかりだったら、社内の緊張み、 成長発展は望めないだろう。経営者には使いにくい社員であっも、適材適所に使いこなせる力量が、 求められるのです。
 
              致知出版/坂爪捷兵 「和尚が書いたいい話」

2010年11月20日

ホームラン王・王貞治(3)

■江夏投手との対決
 
昭和46年…王選手は、生涯忘れられない本塁打を一本放っている。
打った後、ベースを回りながら興奮して涙が出たのは、868本の本塁打の
中で、江夏から放ったこの1本だけ!
 
前年、荒川コーチが巨人を退団…王選手は一人調整に励んでいた。
シーズン後半から、過去・経験したことのない不調に陥り、どん底状態に…
9月15日甲子園球場…その日王選手は阪神・江夏投手に、3打席連続
三振を喫していた。
 
試合は2対0…阪神が勝利を目前にした9回裏…4打席目、打席に立った
王の耳に、失笑と同情が混じった声が、スタンドから聞こえてきた。
二死二・三塁…敬遠かと思っていたら、江夏投手は平然と攻めてきた。
直後、起死回生の逆転ホームランを右翼席に叩き込んだのです…。
 
球界屈指の江夏投手との対決は、戦国武将が名乗り合っての一騎打ちに
例えられる…真っ向ストレート勝負で挑んできた。
「対戦ピッチャーで、力負けすることがあったのは、江夏くらい」と王選手は
語る。
二人の対決は321回に及び、本塁打20本、三振57と、球史に残る名勝負
を後世に残した。江夏投手も「王さんに対しては、一度も逃げなかった…
これが僕の一番の誇り」と語っている。
                            読売新聞「時代の証言者」
 
 
817 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「ホームラン王・王貞治(3)」
 
王貞治が人生を振り返るとき、何か不思議な力で自分が導かれていることに気付くのです。
以下は一本足打法を体得した後の、王選手の逸話です。
 
14.[真似のできない猛練習が、世界の王を育てた]
昭和40年…王選手は最大のスランプに陥っていた。
川上監督は「練習のし過ぎ…」と言ったが、王選手は不器用…練習を休むと不安が増してくる… 「打てなくなったらどうしよう」という不安が付きまとう…練習で克服するしかない。
 
長嶋選手はタイミングと気力で打つタイプ…怪我をして一週間休んでも、 打席に立てば打てるのです。
王選手は、心も体も練習にのめり込むことで、打つ感触をつかんでいくしかない。 技術とフォームがしっかりして、「よし今日はいけるぞ!」とならなければ、打てない…だから練習する。
 
いつも「もっと力を伸ばしたい」…そう願って練習する…昨日より今日、今日より明日と… 気づいたことはメモにして残す…中身は技術的なこと、精神的なことだが、 後者の方が多かった。
アメリカの大打者ハンク・アーロンに会ったとき、スランプ克服法を尋ねた… 答えは「ボールを一球でも多く打つ練習をすることだよ」
 
15.[怪我に強い骨太の体が、大記録を成し遂げた]
100年に一人の天才と言われ、鳴り物入りで入団しても、怪我には勝てない。
ヒジや肩、腰を痛めて去っていった選手の、なんと多いことか。
王選手は、ケガで休場するということはまれだった。
 
昭和43年9月18日、阪神のバッキー投手が王選手の頭すれすれに投球した…王選手 「そんなことをしては駄目だ」と言いに駆け寄ったら…両軍大乱闘になった。
その直後、権藤投手のシュートをよけ切れず、頭に死球を受けて病院へ…全治2週間。
試合は、長嶋選手が逆転本塁打を放って、阪神から勝利をもぎ取った…巨人・ 阪神戦は劇的な展開になることが多い。
入院した王…三日後の21日の中日戦にはもう出てきて…42・43号の連続ホームランを放ち、 通算350号を達成した。
 
16.[必死にV9を重ねていく中で、記録が重ねられていった]
巨人の9連覇は昭和40年に始まっている。今年こそはと、どのチームも総戦力で挑んでくる。 巨人を倒したいと、ローテーションを変えてでも執念を燃やし、主力投手をぶつけてくる…。
 
受けて立つ巨人の選手も必死だ…最後まで諦めない根性がチームに浸透し、王選手も長嶋選手も、 V9の戦いの中で鍛えられ、成長していった。
                                                     読売新聞「時代の証言者」

2010年11月25日

口は禍の門(元)

■吉田首相「バカヤロー」発言…その後
 
国会議員の失言・暴言では、吉田首相の「バカヤロー」発言が一番記憶に
残っている…直後、 首相は発言を取り消し、野党議員了承した。
「ついつぶやいた一言が、マイクに入ってしまった」 と、しょげ首相。
数日後元気を取り戻し、「これからもちょいちょい失言するかもしれないので、
よろしく」と、余裕しゃくしゃくだった。
 
この失言…議会軽視とみた右派社会党は、 懲罰委員会に動議をした。
(提出の背景に、鳩山一郎・三木武吉ら、自由党非主流派の後押しがあった)
 
動議採決に際して、非主流派に加え、主流派の広川農相一派が造反し可決。
直後、動議に賛成した30余名が自由党を脱党…野党と組んで、内閣不信任
案を可決してしまった。
これを受けて、吉田は衆議院を解散…総選挙で吉田率いる自由党は大敗。
かろうじて政権を維持したものの、小数与党に転落…吉田の影響力は急速に
衰えていった。
晩年、吉田は回想録の中で、「取るに足らない言葉尻をとらえて、不信任案に
同調した与党の仲間は”裏切り者”」と糾弾している。
 
失言が取り消されたことで、「無礼」と「バカヤロー」は議事録から削除され、
現在記録にはない。
                        
 
 
818 【心と体の健康】
~幸せな人生~ 「口は禍の門(元)」
 
問責決議案が提出される日の前夜、柳田法相は辞任を決意した。
「口は禍の門」…中国の思想家・孔子の教えです。
類似語に「雉も鳴かずば打たい」がある。
失言で辞任した政治家…過去・数え上げればキリがない… 何か言えば叩かれるだけに、 政府要人の言動は、 とりわけ慎重でなければならない
 
古くは、吉田茂首相が右派社会党議員との質疑応答中に、「バカヤロー」と暴言を吐き、 衆議院が解散されたのは、余りにも有名。
この一件、つい興奮して「バカヤロー!」と、 野党議員に向って大声を出したと伝えられてきたが、 映像資料によれば、吉田首相が席に戻る時、 小さな声で 「ばかやろう」つぶやいた
それが偶然マイクに拾われて、大騒ぎになったのです。
 
夫婦喧嘩も、夫や妻の不用意な一言が、相手を傷つけ、喧嘩の発端になっている。
柳田法相の場合は、地元支持者を前につい気がゆるみ、「ジョーク」 のつもり二言が、シャレにもならなず、 野党議員の追求を受けるった。
 
折悪しく、仙石官房長官も「自衛隊は暴力組織」と暴言を吐き追求され謝罪…日頃は心の奥底に収めて、軽々しく口にすることのない本音… つい気が緩んで…過度のストレスに陥って… ポロと口から出てくる…その一言がなったり、 人を傷つけたりして、 取り返しのつかないことになってしまう
 
諸外国の政治家と接するときの必須条件は、豊かな言語力と、しゃれたジョーク。
火災現場でダジャレを言う消防士はいない。手術中に漫談をする外科医もいない。 「尖閣」問題の渦中に身を置く閣僚が、支持者を前に笑いを取ろうと、 口から出自虐ネタ…この失言が職務をおとしめることになった。       (読売新聞「編集手帳」)
 
生真面目な仙石官房長官… 大臣も人の子…失言もしよう。野党議員の追及を、 しゃれたジョークで笑いを誘い、サラとかわしてしまう… そんな芸当のできる政治家であってほしい

2010年11月29日

球史に残る天覧試合

■「敗者」の汚名を背負い続ける村山投手
 
「箸よく盆水を回す」一昨日の金沢市長選挙、非勢覚悟で臨んだ
山野候補が当選した! 熱烈な支持者の応援で、逆転満塁ホームラン
を放ったような爽快感を味わった。
 
「ニューヨーク9.11テロ」のように、生涯忘れられない出来事があります。
スポーツでは、王・長嶋選手が活躍した「天覧試合」もその一つ。
昭和34年6月25日の巨人・阪神戦(当時私は17歳)…
天皇陛下がプロ野球を観戦したのは、その日が初めてでした。    
 
観戦の日からわずか14年前は、戦時中だった…野球は”敵性スポーツ
で、アウトを「ひけ」セーフを「よし」と言わされた。その野球を、昭和天皇
が観戦されたのです…「時代は変わったものだ」と新聞は論評した。             
 
リリーフに立って打たれ、敗戦投手になった阪神の大黒柱・村山投手…
その夜宿舎に帰り、恩賜のタバコを1本吸って、無念の思いを紫煙に
まぎらわせた。そのタバコは、生まれて初めて口にする一服になった…
と、後に長男が懐古している。
 
華麗なヒーロー長嶋の影に、「敗者」の汚名を背負い続ける村山投手の
悲壮があることを、忘れてはならない。      
                         
 
 
819 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「球史に残る天覧試合」
 
昭和34年6月25日後楽園球場… 四万人大観衆を集めて行なわれた巨人-阪神は、4-4の同点のまま9回裏を迎えていた。
 
先頭バッターは入団2年目の長嶋茂雄。長嶋は5回裏に、 阪神のエース小山投手から、1-1の同点に追いつくソロホームランを、 レフトスタンドに放っている。
巨人は、続く坂崎選手が連続ホームランを打ち、2-1と逆転… 試合の流れを引寄せたかに見えた。
 
阪神も負けじと、6回裏にタイムリーと2ランホーマーで、4-2と逆転。 すると今度は、入団1年目の王貞治が、7回裏ライトスタンドに同点2ランを放ち、 勝敗の行方は混沌としていた。
 
阪神は9回からエース小山に代えて、村山実を投入した。
入団1年目の村山は、 フォークボールと150キロの剛速球を武器に、 小山に次ぐ阪神の大黒柱に成長していた。
 
1球目は、内角へのフォークボールでボール…2球目も外への、 これまたフォークボール…三球目は内角に突き刺さるストレート…4球目は、外へ外れるフォークでボール。左右に散らすうまい配給でカウントを2-2とし、長嶋を追い込んだ。
 
そして運命の5球目…村山の振り下ろしたシュート回転の球は、内角高めに入った。 長嶋はこん身の力でフルスイング…バットは完璧にボールを捕らえ、 弾丸ライナーとなって、レフトスタンド上段のポール際に突き刺さった。
 
瞬間、球場は歓喜と興奮の声にどよめいた。奇跡の逆転さよならホームラン… ゆっくりダイヤモンドを一周する長島選手に、興奮・ 狂喜したのを覚えている。
 
見ごたえのある試合に、陛下も大喜びしたご様子で、翌日の新聞には、 「長嶋のなゼスチュアに、 思わずニコニコされた」「王のホームランも、 落下点までジッ目で追っておられた」 などと伝えている。
 
一方、選手も緊張していた様子で、試合後長嶋は 「昨日はよく寝られなかった…十時頃床へ入ったが、 両陛下をお迎えして、初めて野球をお見せする興奮で、眠ったのは1時頃…まるで子供ですね」とコメントしている。
 
                 学習研究社「ヒーローと偉大なる敗者」
 

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