■王貞治/早実野球部での四年間
王少年は昭和31年4月、早実に進学した。
1ケ月後の5月3日、早くも関東高校春季大会・都予選決勝で
エースとして先発…5番に起用され、春の選抜出場高・日大三を
4ー0で完封した。
その年1年生の夏、甲子園に出場…二回戦で、岐阜商に1ー8で
破れるも、三塁打を打っている。
昭和32年春の選抜、2年生の王選手は、準決勝までの3試合を
被安打10、奪三振27ですべて完封。
決勝で高知商を5ー3で下し、初めて関東に優勝旗を持ち帰った。
早実時代、四季連続甲子園に出場するという幸運に恵まれ、
3年の春には、二試合連続本塁打を打っている。
読売新聞「時代の証言者」
809 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「不思議な力に導かれた、王貞治の少年時代」
ファイナルステージで、中日を勝利に導いた落合博満監督は、巨人軍で、王、長嶋選手が華やかに活躍していた頃、南海の野村捕手と並び、パシフィックを背負う名内野手として、又、セ・パ両リーグで三冠王になった選手として、
私の脳裏に深く刻みこまれている。
今の若者は、落合選手や王選手の現役時代をあまり知らないでしょう…そこで、
王貞治の野球人生を振り返ってみることにしました。
王貞治の人生を振り返るとき、何か不思議な力で、
世界の王へと導かれていることに気づきます。
まず、王貞治の少年時代をたどる時、「1~7」いずれか一つ欠けていたら、巨人の王、
世界の王は誕生しなかったでしょう。
1.[姉の死が、生きる力をもらった]
二卵性双生児で、仮死状態で生まれた王貞治…医師にパンと叩かれ、
ようやく弱々しい産声をあげた…
姉は丸々太っているのに、貞治は見るからに小さくて虚弱。
両親は見るなり「これは駄目だ」と思ったという。事実、二歳になるまで歩けなかった。
父は東京墨田区の下町で中華そば店を営んでいた。兄弟は十歳年上の兄と、
二人の姉がいた。一緒に生まれた三女は、
一歳三ヶ月の時ジフテリアで急死した…
そのお陰で母のお乳を独占…姉の死が、二人分の力をくれたのです…
みるみる元気に育っていった。
2.[左右両利きが、後の王貞治を育んだ]
貞治は左利き…父から、箸を持つのも、字を書くのも、
右手を使うよう厳しく躾けられた。野球も、
投げるのは左だが、打つのは右…それが後年、大きな意味を持つことになる。
3.[戦後、ひもじい思いをせずに育った]
終戦直後の貞治…父は中国籍で戦勝国だつたので、進駐軍の配給に恵まれ、
ひもじい思いをすることなく育った。 体も大きくなって、
小学校の同級生より、頭ひとつ背が高い。いつしかガキ大将になっていた。
4.[兄に教わった野球の魅力]
貞治に、野球の面白さを教えたのは兄。小学四年の時、慶大医学部・
野球部の兄は、
貞治を野球部の合宿に連れていった。手の空いた部員たちが、
キャッチボールやトスバッティングの相手をしてくれた。
兄は慶大のエースで4番の強打者…
四割の打率を誇ったという。父は、 貞治が野球の道に進むのを反対した…
兄の説得がなかったら、世界の王は生まれなかっただろう。
5.[理系高校の受験に受かっていたら、王選手は生まれなかった]
中華そば店を経営する父は、兄を医師に、弟の貞治を技師にしたいと願っていた。
理工系大学への進学率の高い、都立隅田川高に行くことに決めていた。
当初は両国高を志願したが、ちょっと無理と先生に言われ、墨高を受けた。
ところが落ちてしまった…貞治は落胆した。
6.[荒川との出会いが、王選手を早実へと導いた]
仕方なく、考えもしなかった早実へ…野球をやることに反対の父を、
兄が説得しての進学です。
早実に王少年を推薦したのは、当時毎日オリオンズの選手だった、荒川博さん。
早実出身の荒川さんは、昭和29年偶然出会った王少年の素質に驚き、
母校に「彼が入れば全国制覇できる」と報告している。
7.[一度は、阪神への入団を承諾していた]
早実3年の夏、各球団のスカウトが詰め掛ける中、
特に熱心だった阪神に入団を承諾。あこがれていた、巨人のスカウトは来ていなかった…前年、父親が「大学に行かせる」
と、スカウトに断っていたのです。
ようやく巨人が動いた…貞治は阪神を断って、
巨人に入団することを決意した。
読売新聞「時代の証言者」