■朝鮮戦争が残したもの
朝鮮戦争で、南は100万人が死傷し、人口950万の北は、
300万人が死亡または負傷した。南北ほとんどの産業施設が
破壊され、「北は百年は立ち直れないだろう」とアメリカは公言した。
戦争終結後も、イデオロギーの対立から、南北双方で見境のない
殺戮・報復が繰りかえされ、犠牲者は数十万人に及んだ。
1954年4月26日、関係19ケ国がジュネーブに集まり、戦後協議
に入った。が、意見は対立したまま…6月15日、米国は会談決裂
を宣言。その後、南北はそれぞれ違う社会体制へと進んでいった。
朝鮮戦争によって、第二次大戦で疲弊した資本主義諸国の復興が
早まり、日本の復興も「10年早まった」と言われている。
「敗戦国日本が、韓国より豊かになるのは許せない…韓国人が
血の犠牲を払ったお陰ではないか」と、韓国人はやっかみを言う。
60年を経た今年の春、韓国海軍哨戒艦が爆破沈没…46名死亡。
韓国は、北の魚雷攻撃によると、北を非難…南北朝鮮に緊張が走る。
現在も”準戦時体制”のまま、対立構造は変わらない。
民族統一の願いは遠のくばかりです。
795 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「民族を二つに分けた悲劇の戦争」
朝鮮戦争はどのように戦われ、
どのようにして南北に分断されたのか…?
年月を追って、戦いの経緯を書き出してみました。
■1950年
・6月25日 日曜早朝、北朝鮮人民軍の全面攻撃が開始される
26日 アメリカは国連安保理・理事会を緊急召集…ソ連と
中国はボイッコト
安保理は、
人民軍の北緯38度線以北への撤収要
求を決議
27日
国連軍、戦争介入を決議
28日 人民軍、
大韓民国の首都ソウルを占領
・7月 1日 北朝鮮、国家総動員令を発令…
人民軍は漢江を越
えて南下
7日 国連軍が創設され、マッカーサーが総司令官に任命
される
(空軍の98%、海軍の83%、陸軍の88%…米軍)
18日 大韓民国の李承晩大統領、韓国軍の作戦指令権を
米軍に譲る
末
日 破竹の勢いの人民軍、韓国南端・慶尚南北道を除く
全域を掌握。占領地に人民委員会を設置…共産化
への改革措置を開始する
・9月15日 国連軍、仁川奇襲上陸に成功
28日 ソウルを奪取
・10月1日 国連軍、38度線を越えて北朝鮮軍を押し返し、
進撃
19日 中国参戦…26万の義勇軍が鴨緑江を渡り、 蟻の
大群のごとく南進
・11月 ソ連のミグ戦闘機、国境付近に飛来
末日 アメリカ、原子爆弾使用の検討を始める
後日マッカーサーは『私は満州のあらゆる重要地点に、
50発程度の原子爆弾を落としたかった。
また50万の中国政府軍を鴨緑江に追い落とし、後方の日本海から黄海まで、120年は効力のある放射能コバルトを捲きたかった』
と懐古している。
■1951年
・1月 4日 国連軍は後退を繰り返し、ソウルは再び人民軍の
支配下に落ちる
人民軍と中国軍は南進を止める…戦線は膠着…
双方とも占領地の死守へ
・7月10日 休戦会談始まる…会談は長引き、以後2年に及ぶ
休戦交渉に入った後も、米軍の北朝鮮地域への爆撃は強化された。
日本を空襲したときのように、無差別爆撃が行われた。
焦土作戦と、原爆投下の噂が広がり、米軍の避難勧告で、数十万の北の難民が南に向かった。
■1952年
国際科学調査団が北朝鮮と満州を現地調査…
アメリカ軍の細菌兵器使用を非難
■1953年
7月27日 休戦協定に署名…3年に渡って戦われた朝鮮戦争は終結。
朝鮮半島は焦土となった。