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2010年09月 アーカイブ

2010年09月02日

禅僧・関 大徹「入門の儀式・庭詰(2)」

■鍛えれば強靭になる
 
禅僧・関大徹は子供の頃から近視で、メガネを離せなかった。
それが30歳の頃、正眼寺の修行中に、 否応なしにメガネを外
た。
かなり残酷な仕打ちである。視界はすべて茫漠とし、 濃霧の中
歩いているようであり、おぼつかない足許で、 儀執に厳しい禅堂
の生活や作務はこたえた。
 
ところが、そのうちに慣れてきた…霧中の行動に慣れ、人並み
不自由感じなくなった頃、不思議なことが起こった。
徐々にではあったが、霧が晴れてきたのである。ものが見え出し、
知らぬ間に近視は治っていたのです。
 
体は、鍛えようによって、見えなかったものが、見えるように
なったり、歩けなかった人が、 歩けるようになったりします。
反対に身体や脳は、使わなければ、どんどん退化していきます…。
 
 
794 【心と体の健康情報】
~禅僧・関 大徹~ 「入門の儀式・庭詰(2)」
 
人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」…前号の続きです。
 
日が暮れた。客行が現れ、今夜は宿を許すから、 明朝早々に立ち去るようにとげられて” 旦過寮”に案内され、麦八部の粥をいただいた。その後座禅に入った。
九時になり、就寝の梵鐘が鳴った。大徹はいつしか気を失って、 横ざまに倒れていた…失神に近かった。
 
その頭の上から、物凄い罵声が降ってきた…客行であった
「この無道心者め!」
あとは、聞くに耐えない悪罵である。命がけの修行に来ていながら、 寝てしまうとは何事か…
 
ここで弁解すれば、客行と言葉の応酬をしなければならない。
平ったく言えば、り言葉に買い言葉である。
客行は「一刻も置くことはならぬ…即出て行け!」 と言った。
 
言葉で応対するなら…ひたすら許しを乞うか、開き直るか…どちらかであろう。 「ああ、出て行きますとも」と言うのはたやすい。実際、 いくら詫びても許しをられなかったら…そう言うしかないだろう。
 
大徹は、返事のかわりにひたすら平身低頭して、沈黙を守った。この沈黙、不貞れているのではない…自分を守るためでもない。 いわば、相手の判断一切をおまかせしているのである。
 
もし客行が、私の襟首をつかんでひきづり出そうとすれば、 大徹は従うほかなかであろう。
しかし、客行はそうしなかった…なかったことが「許す」 という意表示だったのであろう。
朝になった…四時…広い本堂に案内されて、七十人の僧の後に坐って、 朝のおつとめをした。宗派が違うため、 誦経はまるでわからない。
 
朝食が済むと、昨日と同じ日課が待っている。玄関の式台に斜めに低頭して、 入門の許しを乞うのである。
それも、いきなり玄関に坐るのではなく、いったん山門を出てから引き返し、案内を乞い、毒づかれるという手順まで、前日と同じことをやるのである。
 
この入門の儀式を「庭詰(にわづめ)」という…最も見込みのよいもので二日… しからざる者は、限りなし…と言われる。
大徹は、失敗を重ねながらも、二日間で庭詰を終えたのだから、誠心誠意を認められたのであろう。
 
大徹は、和尚さんに感謝すべきである。何も教えられなかったから、 よかったのある。 あれこれ教えられて、近道をしても、 結果は大いに遠回りをしなければならなかったであろう。
 
- * - * - * - * - * - * -
ゴルフのプレー中に失敗をすると、言わなくてもいい”言い訳”が口をついて出てくる… 自分の正当性をに分かって貰おうとするのでしょうか… 照れくささを隠すめでしょうか…つい、 ああだから、こうだからと、 言い訳をしている自分がいる
 
「言い訳」は、自分の弱さを相手に教えているようなもの。
「弱い犬ほどよくる」 と言うが、「言い訳」をするのは恥ずかしいことです…慎まなけならない

2010年09月06日

民族を二つに分けた悲劇の戦争

■朝鮮戦争が残したもの
 
朝鮮戦争で、南は100万人が死傷し、人口950万の北は、
300万人が死亡または負傷した。南北ほとんどの産業施設が
破壊され、「北は百年は立ち直れないだろう」とアメリカは公言した。
 
戦争終結後も、イデオロギーの対立から、南北双方で見境のない
殺戮・報復が繰りかえされ、犠牲者は数十万人に及んだ。
 
1954年4月26日、関係19ケ国がジュネーブに集まり、戦後協議
に入った。が、意見は対立したまま…6月15日、米国は会談決裂
を宣言。その後、南北はそれぞれ違う社会体制へと進んでいった。
 
朝鮮戦争によって、第二次大戦で疲弊した資本主義諸国の復興が
早まり、日本の復興も「10年早まった」と言われている。
「敗戦国日本が、韓国より豊かになるのは許せない…韓国人が
血の犠牲を払ったお陰ではないか」と、韓国人はやっかみを言う。
 
60年を経た今年の春、韓国海軍哨戒艦が爆破沈没…46名死亡。
韓国は、北の魚雷攻撃によると、北を非難…南北朝鮮に緊張が走る。
現在も”準戦時体制”のまま、対立構造は変わらない。
民族統一の願いは遠のくばかりです。
 
 
795 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「民族を二つに分けた悲劇の戦争」
 
朝鮮戦争はどのように戦われ、 どのようにして南北に分断されたのか…?
年月を追って、戦いの経緯を書き出してみました。
 
■1950年
・6月25日 日曜早朝、北朝鮮人民軍の全面攻撃が開始される
     26日 アメリカは国連安保理・理事会を緊急召集…ソ連と
                   中国はボイッコト
          安保理は、 人民軍の北緯38度線以北への撤収要
                   求を決議
       27日  国連軍、戦争介入を決議
       28日  人民軍、 大韓民国の首都ソウルを占領
 
・7月 1日 北朝鮮、国家総動員令を発令… 人民軍は漢江を越
                  えて南下 
         7日 国連軍が創設され、マッカーサーが総司令官に任命
                  される
       (空軍の98%、海軍の83%、陸軍の88%…米軍)
       18日 大韓民国の李承晩大統領、韓国軍の作戦指令権を
                  米軍に譲る
       末 日 破竹の勢いの人民軍、韓国南端・慶尚南北道を除く
                  全域を掌握。占領地に人民委員会を設置…共産化
                  への改革措置を開始する
 
・9月15日 国連軍、仁川奇襲上陸に成功
        28日 ソウルを奪取
・10月1日 国連軍、38度線を越えて北朝鮮軍を押し返し、
                   進撃
   19日 中国参戦…26万の義勇軍が鴨緑江を渡り、 蟻の
                  大群のごとく南進
・11月    ソ連のミグ戦闘機、国境付近に飛来 
        末日 アメリカ、原子爆弾使用の検討を始める
 
後日マッカーサーは『私は満州のあらゆる重要地点に、 50発程度の原子爆弾落としたかった。 また50万の中国政府軍を鴨緑江に追い落とし、後方の日本から黄海まで、120年は効力のある放射能コバルトを捲きたかった』 と懐古している。
■1951年
・1月 4日 国連軍は後退を繰り返し、ソウルは再び人民軍の
                   支配下に落ちる
                   人民軍と中国軍は南進を止める…戦線は膠着…
                   双方とも占領地の死守へ
・7月10日 休戦会談始まる…会談は長引き、以後2年に及ぶ
 
休戦交渉に入った後も、米軍の北朝鮮地域への爆撃は強化された。
日本を空襲したときのように、無差別爆撃が行われた。
焦土作戦と、原爆投下の噂が広がり、米軍の避難勧告で、数十万の北の難民が南に向かった。
■1952年
国際科学調査団が北朝鮮と満州を現地調査… アメリカ軍の細菌兵器使用を非難
■1953年
7月27日 休戦協定に署名…3年に渡って戦われた朝鮮戦争は終結。 朝鮮半島は焦土となった。

2010年09月08日

禅僧・関 大徹「人間本来無一物」

■「四苦八苦」
 
「いやあ~四苦八苦してますよ…」などと、軽いノリで使われる「四苦八苦」
という言葉…仏教の開祖、ブッダの説法に出て来る言葉です。
人生そのものが「苦」だという教えで、最初の「四苦」は
これに、以下の四つを加えると「八苦」になる。
 
愛別離苦(あいべつりく) …愛する人と別れねばならない苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく) …怨み憎む者と会わねばならない苦しみ
求不徳苦(ぐふとくく)」   …求めるものが得られない苦しみ
五陰盛苦(ごおんじょうく) …五体は丈夫だが、良い考えが浮ばない苦しみ
 
ブッダの教えの基本は”諸行無常”。「この世の一切のものは、絶えず移り
変わって、一瞬の間も同じ姿を保つことがない」…「今、ここに!」なのです。
一秒一秒…命が…時間が…風景が…すべてが変化して新しくなっていく。
 
今、どんなに苦しくとも、時とともに変化していく…明日は違ったものになって
いく。故に、明日への希望を失ってはならないのです。
 
 

796 【心と体の健康情報】
~禅僧・関 大徹~ 「人間本来無一物」

人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」から…
 
禅僧・関 大徹は、日頃から「手マメ・ 口マメ・足マメ」の”三マメ”を実行してきた。
福井市の大きな乾物屋の二代目がお寺へやって来て、 「自分には、とても店を継ぐほどの器量がない」と、悩みを訴えた。
関 大徹…その二代目を見て、控え目なところが彼の美点と見た。
 
『やれるやれる…』と勇気づけ、「本来無一物」 と書いた色紙を激励のために与た。 その覚悟でやってほしいとの願いである。 親から大層な財産を譲り受けたと思うから、荷が重いのであって、人間本来無一物という、 自明の理に踏まえれば、これほど軽やかな心境はあるまい…。
 
二代目は、手や足を動かすことには、誰にも負けぬ自信があったが、口だけは人一倍「口下手」で、どうしようもないと言う。
大徹は即座に、『それこそあなたの「徳」 であろう。「口マメ」といっても、 おしゃべりな人をいうのではない。むしろ、 寡黙な人の誠実な言こそ、より人を動かすであう。それが「徳」というものである』と…。
 
『「」という字をよく見るがいい。 行人偏に十四の心と書いてあるではないか。
十四年間、心を込めてコトを為せば、 必ず得るものがあるであろう。
もし、最初の十四年間で駄目なら、もう十四年頑張る…
計二十八年頑張って、それでも得るものなければ、言った私に文句を言いにくればいい』と、 大徹は言った。
 
二代目は、十四年も待つことなく、事業を手広くひろげ、 この業界では福井県屈指の事業家になった。
大徹は、二代目がその間に何をやっていたかを悟った。
彼は”口マメ”の代わりに「手マメ・足マメ」で、 泥んこになって働いたのである。
そして、言うことがふるっている…「なあに、永平寺の禅僧のことを思えば、 真似事にもなりませんよ…」
 
永平寺で一番早く起きる人は、深夜の1時半である。
1時半から2時間かけて掃除をする。拭き掃除にしても、雑巾一枚で用を足すのではない… それぞれ場所に応じて、上段、中段、 下段と三枚を使いわける。
朝一番の仕事を済ませ、3時半になると、みんなを起こす。
3時半には、すべて日の日課が始まるのである。
 
二代目は、永平寺の日課に習ったのであろう。
 

2010年09月14日

もし日本が東西に分断されていたら…

■武蔵野に亡命した高句麗王
 
660年、百済が新羅に滅ぼされた後、百済と長年親交のあった
大和朝廷は、四万の兵を朝鮮に派兵…百済復興を助けるために、
新羅・唐連合軍と戦った(白村江の戦い)… 「日本書記」に詳細に
記されている。
 
続く668年、高句麗が新羅・唐連合軍に滅ぼされ、 百済と高句麗
遺民が、日本に難を逃れた。日本書記は、 「百済の遺民約二十万人
が、日本に逃れてきた」と伝えている。
また、高句麗の遺民一万余名は、高句麗王を伴い、 援軍を頼み
日本に向かった。
月日が流れ、高句麗が滅亡して40年… 高麗王は祖国再興の夢破れ、
異国武蔵野の地であえなく没した。
 
関東一円に移住し帰化した、数十万の百済・高句麗の遺民は、
開墾拓殖して、日本に定住した。
大和朝廷を護り、国事に尽力した者も数知れず…我が国の文化
発展に貢献すること、多大であった…と記録に残されている。
 
                崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」
 
 
 
797  【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 
「もし日本が東西に分断されていたら…」
 
韓国人は、朝鮮半島を”一つの体”と考えている。その一つの体が分断され、傷ついている状況を、 民族の痛みとして感じているのです。
90年代の初めの頃まで、韓国人はよく「どうして日本ではなく、 韓半島が分断されることになったのか…理不尽だ」と恨みごとを言た。
 
第二次世界大戦を起こしたドイツが分断されたのはよくわかる。同じように極東では、 日本が分断されるべきだった…なぜ朝鮮半島なのか? 
日本から見れば、戦後ドイツや朝鮮が分断されたのは、米ソ冷戦の過程で起きたことであって、 「世界大戦を誰が始めたか」ということとは無関係のはず…。
 
だが、朝鮮の人たちは納得できない…戦後日本は泰平の日々を送った…
それとは対照的に、朝鮮は南北に分断され、敵対し、同じ民族が殺しあう戦争の苦しみを、 経験しなければならなかった。
韓国が死に物狂いで戦っている間に、日本は戦争特需で劇的な経済復興を遂げ、 大国への道を歩み始めた。韓国の人たちは、複雑な思いで日本を見ていたのです。
 
もし朝鮮半島ではなく、日本列島が分断されていたら…米国とソ連は、東京を掌中に収めようと、 激しい戦いを繰り広げただろう。
東京を米国が掌握したと想定したら、東西の境界は北緯37度線…福島県いわき市付近から、我が故郷・ 石川県と富山県の県境辺りを結ぶ線になっただろう。
 
その後、東日本は「日本民主主義人民共和国」という共産主義国になり、西日本は「大日本民国」 という資本主義国家になっただろう。東日本の首都は札幌に、西日本の首都は東京になるだろう。
 
以後日本民族の間で、血で血を洗う戦争を繰り返し、境界に接する我が故郷金沢は戦場になり、 廃墟になっただろう。犠牲者は数百万人…戦争難民が東日本から流れ込んでくる
…そんな悲劇に見舞われたら、私や両親、兄弟の運命はどうなっただろうか? 兄や従兄、 そして私は徴兵され、同胞が殺し合う悲劇に巻き込まれ、戦っただろう。
 
共産国・東日本の経済は疲弊し、東北や北海道では餓死者が百万人以上出ただろう。 37度線の休戦ラインでは、両国の兵士たちが、今も銃を突き合わせて対峙。前線に近い金沢には、軍隊の駐屯地が置かれ、 市民は常時緊張を強いられているだろう。
 
国家予算に占める軍事費の割合はきわめて大きく、国民は重税に耐えなければならない。 経済活動に専念する状況にはなく、大きな経済発展は望めないだろう。
東日本は、大陸弾道ロケットや核兵器を開発して、西日本の同胞を脅かしているかもしれない。
 
韓国は、戦争特需をきっかけに経済大国になっていく。一方、日本は貧しく、 韓国との格差に民族の自尊心は傷つき、苦々しい思いをするだろう。
このような状況を想定してみると、韓国の人たちの心情、心の痛みが少しは理解できるのです。
                          小倉紀蔵著「心で知る韓国」
 

2010年09月17日

禅僧・関 大徹「正眼僧堂の一日」

■「足るを知る」
 
◇老子」三十三章に「知足」がある
『人を知るものは智    自らを知るものは明なり
  人に勝つものは力あり 自らに勝つものは強し
  足るを知るものは富み 強めて行うものは志あり』
 
◇仏教思想では…
『裸で生まれてきたのだから裸で帰る。
  人間寝るところ一畳あれば足りる。
  人間を入れる棺桶は、巾二尺、長さ六尺もあれば足りる』
 
◇「聖書」五章十五節には…
『人は母の胎より出で来たりし如く また裸体にて帰り行くべし。 
  その労苦によりて得たる物を 
  一つも手にとりて携え行くことを得ざるなり』
 
 
 
798 【心と体の健康情報】
~禅僧・関 大徹~ 「正眼僧堂の一日」
 
人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」から…
 
禅には「一日為さざれば、一日食わず」という言葉がある。
「正眼僧堂」の生活が正にそれであろう。 仕事をしないものには食う資格がない…ということになる。
 
禅もすごいが、作務のすごさはまた、言語に絶した。
どんな日でも、決して休みはないのである。
普通でいう作務とは、堂内の拭き掃除、庭掃き、薪とりなどである。
ところが、正眼寺にあっては、 巨大な機械力を投入しなければならないような土木工事まで、雲水たちがやってのける。
 
早暁、本堂の朝課を終えると、禅堂に移って座禅を組む。
それを済ませると、老師の部屋に入って、与えられた”公案”(禅問答の題材)に対して見解をのべ、 批判を受ける。
これがまた峻烈をきわめる… 毎朝毎晩が試験である。そして粥坐(朝食)。粥坐の後、 ただちに作務に入る。
 
私を含めた新参者の多くは、運搬方にまわされた。
土や石をモッコに盛り上げ、二人がかりで天秤をかつぐ。
私の両肩が腫れあがて、食い込む天秤の痛さに、しばしば気を喪いそうだったが、それも暫くすると、 コブシ大の硬い肉塊が盛り上がって、 耐えられるようになった。
 
むろん、強いられてやるのではない。みんながやるから自分もやる… ということではない。 作務もまた禅であり、禅である限りすすんで身を投じるのである。
 
夜九時、開枕の梵鐘が鳴ると、一同は坐禅を終えて経を誦し、 三宝礼をして横になる。ただ一つの小さな灯まで消されて、僧房の中は真っ暗になる。
これで、一日の行が終わったわけではない。「夜坐」という日課外の修行が始まる。 静かに寝所を抜け出し、法衣をつけ、座布団を厚く敷いて、軒下で坐禅を組む。
本堂や諸堂の中に入ることは許されない。 雨などで外に坐れないときは、縁側に坐る。
 
驚いたのは、正眼僧堂では、入堂以来何年というもの、 一夜として僧堂の中で夜を明かしたことがないという、命知らずが少なくないのです。
文字通り「不惜身命」である。雨の夜も風の夜も、 大地が凍てつくような極寒の夜も、 雪の中でさえ平気で坐り続けてきた人たちの仲間入りをしたのです。
 
夜を徹して樹下石上に坐り、露に覚め、寒冷に自らをふるい立たせ、ふくろうの声、 風の音に自分を空しくして、充実していく日々の己を知った。
 
 

2010年09月21日

とりあえず謝罪多すぎ

■勇 気
 
 財を失ったら  損失は軽い
 名を失ったら  損失は大きい
 勇気を失ったら 取り返しがつかな
 
 勇気は男の証
 財産や名誉は 失っても 努力で取り戻せるが
 勇気を失ったら 男ではない すべてを失う
 
 
799 【吉村外喜雄のなんだかんだ 】
「とりあえず謝罪多すぎ」
 
社長以下経営幹部が、記者会見で横並びに平身低頭。別の会社のトップは、 号泣してマイクを握りしめる。フラッシュを浴びながら、麻薬疑惑で頭を下げる有名女優。
「二度とこのような不祥事が起きないよう、全力で改革に努めます」と、神妙に頭を下げる放駒理事長。 首相が平身低頭する姿もあった。
 
今の世の中…謝罪に次ぐ謝罪…過去を振り返ると、 薬害問題で土下座する幹部たちの姿が最初?…あれだけ謝っておきながら、裁判では責任を認めなかった…非難の矛先をかわすパホーマンスだったのだろうか?
現在までに繰り返された謝罪は、300件を超えるという。
 
消費者行動論を研究する、慶応大学・高橋郁夫教授の調査によれば… 「謝れば許す」というのが日本人の国民性…一方で、不祥事があった時、 「謝罪しなければ許さない」という雰囲気が、この国の社会を隅々まで覆っている…と言う。
 
雪印の不祥事が発覚した時、対応を誤ったために、消費者はそれを許さず、 会社が消滅するという、最悪の事態に追い込まれてしまった。
 
一昨年、世界遺産のイタリア・フィレンツェの大聖堂で、日本人観光客らによる落書きが見つかり、問題になった。 落書きした日本の女子短大生…短大関係者に伴われて現地を訪れ…謝罪した。
 
フィレンツェ側は、日本にだけ強く謝罪を求めたわけではなかった。
泣きじゃくりながら謝る学生の誠意を受け入れ、 「これを契機に友好の絆が更に深まるでしょう」とした。イタリア市民は、謝らなければ済まされないと、 大騒ぎになった日本姿勢に、当惑したに違いない。
                         読売新聞「許す心」 より
 
日本人には、「とりあえずお詫びすれば、水に流してもらえる」…そんな「許し」 の甘えがあるようです…欧米で 「とりあえずお詫び」 などしよものなら、 すべての責任を負わされるだろう…
 
今年の夏、韓国併合100年の節目に、菅総理が韓国に改めて謝罪した。
グローバル化が叫ばれる中、 国際社会における許し許されることの本質と是非を、今一度見つめ直す必要があるようです。
 

2010年09月22日

禅修行における悟りとは…

■哲学の祖「タレス」    (今週の倫理676号)

 

ギリシア七賢人の筆頭に数えられ、哲学の祖とも言われる

タレスは、 紀元前六〇〇年から五〇〇年頃、 ミレトスとい

商業都市に生まれ育った。

日蝕を予言するなど天文学に長け、オリーブ油を絞る機械

投資財を成し、 また政治の世界にも深く関与するなど、

様々な経歴を持っている。

残念なことに本人の著作は残っておらず、数々の伝説や逸話

となって、 現在に伝えられている。

 

・その中の一つに、愛弟子との次のような問答がある。

 弟 子「人生で一番難しいことは?」

 タレス「自分自身を知ることだ」

 

 弟 子「人生で一番易しいことは?」

 タレス「他人を批判することだ」

 

 弟 子「人生で一番楽しいことは?」

 タレス「目標を立てて、挑戦することだ」

 
 
 
800 【心と体の健康情報】
「禅修行における悟りとは…」
 
仏教の基本原理は、人の「生死病老」の悩みから解き放つことから始まる。
釈迦は、生死病老の悩みを解決するために、難行苦行に身を投じたが、 一つとして問題解決できず、 苦行は心身を傷つけただけで、何の悟りも得られなかった…そこで、 すべ行を打ち切って、 菩提樹の下で座禅を組んだ…
 
そしてついに”悟り”に到達したす。 悟りを得た釈迦…
「奇なるかな、奇なるかな…一切衆生生草木国土ことごとく、如来の徳相を具有す」と叫んだという。
何をどう悟ったのか…「困苦して悟ったものを、 いま解き明かすべきではない…貧りと怒りに従う者たちに、この理法は理解できるはずがない」と。
 
では”悟り”とは何か? 禅宗ではそれを「冷暖自知」と言って、 「冷たさも暑さもしたことのない者に、いくら言葉で冷たさや暑さを説明しても、 理解できるがない…自ら”悟り” を得初めて、 知ることのできるものである」と…
 
道元は「宋では、仏法を学ぶ者が千人いても、その中で悟りを開く者は、 一人かに過ぎない」と言っている。
大方の修行僧は、一生悟らぬまま、無為に修行に明け暮れることになる。その上で釈迦は、この理法の中身を”空” と言い換えたのす。
 
私たち凡人は、”悟り”を得れば「一切の煩悩が消え去る」と思いがちです。 悟ったからといって、喜怒哀楽・物欲・執着といった煩悩がなくなるわけではない… 煩悩るからこそ、 人の悲しみや苦しみが分かろうというもの… 煩悩のない人間は、 動のロボットのようなものだ。
 
禅問答の題材(公案)に、「婆子焼庵」というのがある。
♪昔、ある所に老婆がいて、一人の禅僧に安心して修行に励めるよう、 小さな庵に住まわせ、 食事や身の回りの世話をした。
しばらくして老婆は、禅僧の心の内を計ろうと、 美しい娘に身の回りの世話をさせた…禅僧が、娘の色香に惑わされるようなら、叩き出すつもりでいたのです。
 
しかし、数ヶ月過ぎても、禅僧は娘に心を動かされることはなかった。 ならばと老婆は、娘に禅僧に抱きつくように指示した…
娘は、座禅をしている僧の後ろから、 いきなり首に抱きついて、「こんなことをしたら…どうなさいます?」
 
禅僧は冷然として答えた…
「枯れ木が冷たい岩に寄りかかっているようなものだ…少しもその気にならん」
いかにも修行僧らしいみごとな態度に、娘は恥ずかしそうに戻って、老婆に告げた。 娘の報告を聞いた老婆…禅僧を庵から叩き出し、庵に火をつけて焼いてしまった。
 
-*-*-*-*-*-*-*-*-
このような事例を問答の題材にして禅問答を行い、禅の精神を究明しようというのです。
人間である限り、性欲・物欲・執着心などの煩悩を消し去ることは不可能です。 なのに、さも悟りきったように振舞った禅僧が、 偽善者であることを老婆は見破のです。
 
難行苦行の末に悟りを得たからといって、煩悩がなくなること決してないことを、 問答を戦わす中から学ぶのです

2010年09月27日

ギザの三大ピラミッド

■各地に点在するピラミッド
発見されたピラミッドは60基。エジプトの広い範囲に点在している。
ピラミッドは、奴隷たちが建造したものと思われてきたが、最近になって、ナイル川の反乱に苦しむ農民を救済するための公共事業だった、 という説が有力になっている。
 
■ピラミッドパワーの謎
ピラミッド内部にあったネズミの死骸が、腐っていなかったことから、ピラミッドの形には、不思議な力があると信じられてきた。
これは、ピラミッドの模型でも同様の効果がみられ、模型の中に植物を置くと長持ちするという。
 
 
801 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「ギザの三大ピラミッド」
 
9月中旬エジプトへ出かけた。目的は、 世界のダイバーが憧れる”レッド・シー”(紅海)、世界で最も透明度が高いと言われる「シャルム・エル・シェイク」 の海潜ること。
カイロに着いた初日、GIZAのピラミッドとスフィンクスを見物した。
 
首都カイロを流れるナイル川西岸に、古代エジプトを代表する巨大遺跡、ギザの三大ピラミッドがある。
最も大きいのが、クフ王のピラミッド(4500年前に建造)…基礎部分の四角形の一辺は約230メートル、高さは約137メートル。
 
4千年も前、一つのピラミッドを造るのに、 重さ約70トンの背丈ほどの四角い石を2万数千個、700キロ離れたアスワンの石切り場から、ナイル川を舟で運んで、 すべて人力で積み上げた…すごい!につきる。

エジプト1 エジプト2 エジプト3
ナイル川よりカイロを望む
※写真をクリックすると拡大写真が表示されます。

 
   
ギザのシンボル”スフインクス”は、ピラミッドに並んでいた。
胴体部分は岩山を彫り下げて造られ、その上に頭部が乗っている。

エジプト4 エジプト5 エジプト6
※写真をクリックすると拡大写真が表示されます。

 

2010年09月30日

お金がすべて

■石川遼を躾け、育てた両親
 
先月28日、天才ゴルファー石川遼のお父さん、石川勝美氏の
講演を聴きにいった。
17歳でプロデビュー後、華やかな戦歴を積み重ねてきた石川遼…
マイクを向けられると、はにかみながら控えめに、明快な答えが
返ってくる。おごりたかぶる様子はみじんもなく、いつも笑顔が絶
えず、さわやかだ。
 
躾けは母親が厳しく、父親はゴルフを教えた。我が子のゴルフ
才能を開花させるために、両親は骨身を惜しまなかった。
礼儀正しく挨拶し、受け答えが上手なのは、幼少の頃から本を
読む習慣をつけさせ、ゴルフマナーを厳しく躾けたこと…。
 
<講演で語ったエピソード>
ジュニア選手権の前日、遼は両親に無断で練習をサボり、友達と
遊びに行った。それを知った父親…大会当日の朝、開催本部に
競技辞退の電話を入れ…本人に諭した。
「大会に出場する選手は、みな優勝を目指し、昨日も懸命に練習し
  ていただろう…しかし、お前は練習をさぼった…一日練習しなくて
  も、お前の実力なら優勝出来るだろう…しかしお前は、懸命に努
  力する他の選手を侮った…だから今回の出場は認められない!」
 
 
802 【心と体の健康情報 】
~子育て~ 「お金がすべて」
 
今の世の中…お金がすべて。「お金さえあれば”幸せ” になれる」と誰もている。
お金さえあれば、車でも家でも、欲しいものは何でも手にる…欲しい時に、 欲しい物を、欲しいだけ手に入れられたら… どんなに幸せだろう
 
盆と年の暮れ、ジャンボ宝くじ売り場は長蛇の列…幸運にも1等を引き当て、億の金を手にしても…ほとんどの人は、その後の人生、不幸になっているという。
また、莫大な親の遺産を継いだばっかりに、人生を棒に振った人も見てきた。
小学生の娘が家からお金を持ち出し、コンビニで買い食いして、友達におごっていた。 それを知った母親が悩んで、新聞の「人生案内」に投稿している。
 
欲しい物が買えるなら…お金が稼げるなら…援助交際も平気な少女… 今が楽しば、 それでい…先のとなど考えようともしない… 恋人に去を知どうるのだろう?… 恥ずかしいことをしていると思わないのだろうか?…プライはどこへいってしまったのか
 
数年前…「東京の老舗の書店が店を閉じた」とTV報道。
度重なる万引きで、経営り立たなくなったのがその理由。
万引きした子供たちが、換金できるお店あるのも問題です… 全国の書店に共通する死活問題です。
 
私の子供の頃は貧しかった。中学生の頃、お腹が空いて我慢出来なくなと、 一個五の芋パンを買いに、 学校から500メートル離れたパン屋へった。ジャム薄く塗っパンのミミ4枚が十円だった。
 
小学生の頃は、親から小遣いを貰ったり、おもちゃを買ってもらったり、クリスマスレゼントを貰った記憶がない。筆入れとノート以外、何も持っていかった…周りみんなそうだから、 何も欲しいとは思わなかった
 
世界で、日本のように豊かで贅沢な国は、 数えるほどだろう。
しかし、そんな豊かな国に住みながら、 子供たちの悩みはつきない。
携帯を持っていない子は、 友達の輪には入れてもらえない。
何でもメールで交換…一緒にいても、メーが優先る…
一心不乱に友達と交信している…持たない子は、 そんな仲間に入れないのです。
 
貧しさを知らず、我慢を知らず、命の尊厳を知らない今の子供たち。 贅沢な暮らしに浸りきった子どもたちの将来は、どうなるのだろう? 
そのうえ両親は共働き…子供の躾けはおざなり…親たちは、 不足するを、お金モノで埋め合わせようとする…そのツケは、子どもたちが成人して後、 自ら負うことになる
 

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