■無我の境地
某テレビ番組で…修行を積んだ禅宗のお坊さんが座禅を組んで瞑想する。
その前を小学生の鼓笛隊が通り過ぎて行く。
頭には、何箇所もセンサーコードを貼り付けられ、測定器の針が地震計の
ように、脳が反応するのを画面に映し出し、見せようという趣向。
座禅を組み瞑想する禅僧の前へ、「ピーヒャラドン!ドン!」とけたたましく、
楽団が近づいてくる。
禅僧と並んで一般人が数人、同じく座禅を組み、センサーを付けている。
鼓笛隊が近づくにつれ、測定器の針はちじに乱れ始め、目の前を通り
過ぎる頃には、測定器の針は、振り切れんばかりに激しく波打っている。
何とか冷静でありたいと思うのだが、心の乱れを抑えることができない…
方や禅僧…無我の境地に入り込んで、石のごとく静かに瞑想…
測定器は…と見れば、おだやかな水面のごとく、乱れるところがない…
目の前でドンチャカやっていても、外界の雑音が届かない瞑想無我の
境地にいる…
790 【心と体の健康情報】 ~禅僧・ 関 大徹~ 「座禅三昧の苦行」
お盆にちなんで、人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」から…
大正十四年夏、関 大徹は、福井県小浜にある発心寺の門を叩いた。
「毎日饅頭が食える」と、饅頭食いたさに頭をまるめて丁度十年。
いよいよ、本格的な禅の修業に入ることになった。
一人前の雲水になるための入門の儀式となる、
かなりきついお勤めをした。
一日中座っている…用便のとき以外、
立つことは許されない。運ばれてきた食事を作法通りいただくと、直ちに座禅三昧に入る。
大徹は一人で、まるで無限のように感じられる”時間”との格闘が始まった。
蝉が啼いていた…騒がしく騒然と啼いている…
と最初は聞こえた。
それが、実は、一定の”気息”のようなものがあり、
それは大自然の気息と一体になっていると言ってもよく、一つに融けあった世界だと知って、大徹は自らの気息も、
その蝉の”無心”に移しかえていく心境になった。
この一週間、大徹にとって蝉は師であり、仏であった。
そして、大徹自身が蝉になった。夜間も座禅は続く…
意識がもうろうとしてくる。
そういうとき、不意に蝉が啼いた…
蝉の周辺で自然の気息をかきまわすような、 何か、異変が起こったのであろう。 蝉が叫ぶ…蝉の叫びは、
もうろうとした私をよび醒ました。蝉の驚きが、大徹の驚きになった…
大徹は、蝉になっていた。
旦過寮(入門の儀式)を終えて、正式に入門を許され、
雲水の生活が始まった。座禅、
作務、勤行といった日々。そういう日常の中に、
毎月一回、一週間の「接心」
に入る。
入門の儀式と同じ座禅三昧である。
この時、原田祖岳老師じきじきの指導がある。大徹の
「蝉座禅」には、感じるところがあったのだろう…”初めての悟り”は近いと言われた。
十二月一日からの「接心」のお勤めで、大徹は”
初関(初めての悟り)”を得た。
”初関”がいかなる内容であったかという点については、
筆舌には表し難い。
強いて言うなら、「座禅三昧」の果てにたどり着いた、
一種の宗教的恍惚かもしれず、恍惚と言ってしまえば身も蓋もないが、やはり恍惚としか言いようのない世界であった。