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禅僧・関 大徹「食えなんだら食うな」

■”布施”とは、与える徳
 
他人に布施(施し)をしなさい。そうすれば来世で救われる…
仏教の教えです。
布施とは与えること…「与えれば””になり、貰うと””になる」
”徳”とは…他のために自己の能力の最善を尽くすこと。
       そうすると、形を変えて自分に返ってくる。
 
得は…博打で儲けたり、才覚で思わぬ儲けを手にしたりするが、
    長続きしない。
徳という字は…「人が行う十四の心」と書く。
十四とは…「八正道」の八と「六波羅密」の六を合わせた数字です。
八正道とは…人格を完成するために実践する、八つの正しい道をいう。
        (正しい見方、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、
        正しい生活、正しい努力、正しい願い、迷いのない境地)
 
六波羅密とは…施す、慎む、忍ぶ、励む、静める、学ぶを表し、
          菩薩が実践すべき徳目になる。           
本当の”徳”というのは、日々の積み重ねの中から生まれてくる。
 
 
788  【心と体の健康情報】
~禅僧・関 大徹~「食えなんだら食うな」
 
人生の書、禅僧・関 大徹 著「食えなんだら食うな」からの抜粋です。
 
貧乏こせがれの”関 大徹”が、仏門に入ったのは十三歳の時、 大正四年である。寺に入れば饅頭が腹いっぱい食えるとそそのかされ、のこのこついていったのが、 運の尽き。
ところが寺で出される食事はひどい麦粥。毎日…朝も、昼も、 夜も粥…朝から晩まばっかり。
たまりかねて和尚さんに尋ねた…「いったい饅頭はいつ食わしてくれるのか?」
答えは「饅頭食いたかったら、せいぜい修行せよ…修行して偉い坊さんになったら、饅頭なんかいつでも食える」
 
十日目に、我慢できずに寺を脱走…40キロ歩いて生家へ逃げ帰った。
大徹の姿を見て、母は喜んでくれた… 父も喜んでくれると思った。ところが、こわい顔をして 「何しにきた、 ここはおまえの家ではない…すぐ戻れ!」… このときの父親の一言が、大徹の人生を決定した。
 
当時、小学校の五年生だったが、朝、托鉢をすませてからでないと学校に行けい。 四時には床をたたんで、四キロ先の大野市まで乞(ぎょうこつ)に行く…往復十キロにもなる。
 
帰ってきて、托鉢してきた米で粥をたき、塩を入れて食い、残りをブリキの茶筒に詰めて、弁当として学校へ持っていく。 托鉢に回っても、米を喜捨してくれる人がなかったら、喜捨してもらえるまで回らねばならない。
 
それでも、恵んでくれる人がなかったら、手ぶらで帰るよりほかく、手ぶらでると、 朝の粥にありつけず、昼の弁当の粥もない。 「食えなんだら食うな」と厳しさを、 物心つかない幼い頃に、身をもって体験させられたのです」
 
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時代が違うと言ってしまえばそれまでだが、「てんびんの詩」 の近江商人の子も、NHKの「おしん」 も、我が子に人生の試練を積ませている…まだ幼い我が子を人様に預け、 子離れしようと耐え忍ぶた、偉い思うす。
 
「食えなんだら食うな」には、「食うことのできない己が…」という懺悔(ざんげ) が込められている。禅僧は”乞食”に頼っている…お恵みを得て、 食えるべきでなが、食わしていただいている。 それを実感として、小僧の体に叩き込まれるのです。
 
日本の歴史で、最も豊かな時代に生まれ、何不自由ない平和な時代をらしてきた私たち…
昔の人から見れば、呆れるほど満ち足りて幸せなはずなのに、家族を養えみ、 が無い悩み、世間体に悩み、 出世が遅れたと悩み、 周りと見比べて悩むキリのない煩さいなまれながら、暮らしているのです
 
妻帯せず、俗世界の欲すべてを捨て去り、 明日の食うものも保証されない禅には、 失うものなど何もない…故に悩むこともないのです。

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