■日清戦争と韓国併合
李氏朝鮮は、1875年の江華島事件により、翌1876年
(明治9年)日本と「日朝修好条規」を結び、アメリカやフランス
などの欧米諸国との間で、不平等条約が結ばれた。
朝鮮国内では、近代化すべきという「開化党」と、清国との
宗属関係維持を唱える「事大党」とが対立。
そうした中で1882年(明治15年)壬午事変が起こり、
日本と清国の両国は、事変を鎮圧することを理由に朝鮮に出兵…
日本軍と清国軍は韓国内で対峙した。
1894年(明治27年)遂に日清戦争勃発。
1895年、日本が清国に勝利して、下関条約を締結…
この条約で、朝鮮は清国との宗属関係を離れ、自主独立国
であることを清国に認めさせた…
以後、朝鮮国から清国への貢・献上・典礼が廃止された。
朝鮮半島の覇権は、清国から日本に移ったのです。
1905年(明治38年)日本はソウルに統監府を設置して、
日本の保護国にした。
1910年(明治38年)には、日韓併合条約を締結して、朝鮮を
日本に併合…約500年続いた李朝(大韓帝国)は滅亡した。
783 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「李朝最後の国王(2)」
1873年、世子を巡る政争で、妾側に付いた王妃の義父大院君を、摂政の座から引きずり降ろし、追放した。大院君は失脚…王妃一族が実権を握った。
新政権は、開花政策に転換して、外国に門戸を開き、
日本や欧米列強と修好条約を結んだ。
宮廷内は「開化党」と、清国に忠誠を誓う「事大党」
との間のあつれきが深刻化する。
1874年、王妃は男児を出産…後に27代”純宗王”となる。
1880年、清国の外交官が高祖に献上した著書が、
朝廷内に賛否両論を巻き起こすことになった。内容は、清国と親しく交わり、日本と提携し、
アメリカと連合して、ロシアの南下政策を防ごうというもの…この建議は正論だったが、
保守的な儒学者達の強い反対に合い、潰されてしまった。
1881年、近代化先進国日本に、若い官僚で構成された60人の「紳士遊覧団」
を派遣、視察した。帰国後”軍制”を改革…日本式の軍事訓練を実施した。
王妃は、我が子を”世子”に冊封するために、金剛山に、
国庫の6倍を超える膨大な金品を寄進。この法外な浪費で、宮廷の財政は破綻。
その一方で、政府の重臣たちは競って王妃に賄賂を贈り、
その穴埋めに民衆から厳しく税を取り立て、
搾取した。
さらに王妃は、世子の健康と王室の安寧を祈って、毎日「巫堂ノリ」
を巫女たちに祈らせ、踊らせた。
重臣たちも王妃に媚び、巫女たちと共に踊った…狂気の宮廷…踊り歌う毎日…金銭の浪費は続いた。
王妃の執権10年目には、官吏の給与の未払いは6年に及び、
王宮を守る約6千の近衛兵の給与は1年以上滞ったまま。官僚は農民を搾れば、生活に困らないが、
給料に頼る軍人の生活は、窮した。
財政破綻で苦しくなった政府…歳出を削減するため、兵制を改正して、
5師団を2師団に縮小…
結果、多数の軍人が職を失い、飢餓へ追いやられた。
1882年6月、給与の遅滞を怒った軍人たちが蜂起…重臣の家に押し入って、
家財や財物を奪う暴動に発展した
(壬午軍乱)。日本の二・二六事件のように、重臣たちにまだ力があったため、
蜂起した兵士たちの生命は風前の灯火になった。
王妃に権力の座を追われ、復讐する機会をうかがっていた大院君(王妃の義父)
は、蜂起した兵士たちを味方に引き入れ、再び権力の掌握に乗り出した。
反乱兵の意気は、
天を衝かんばかりに高まり、
王妃の重臣たちを次々殺害した…
写真がなかったことが王妃を助けた…王妃は服を脱ぎ、多くの宮女に紛れて、
兵士たちの追及を逃れ、
王宮を脱出して漢江へ逃れようとした…大院君は、王妃の逃亡を防ごうと、女性を船に乗せることを禁じる通達を全国に発した。
王妃は、船頭に金の指輪を握らせて、買収…間一髪、漢江を離れることに成功…
落ちていった。
崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」