■李朝・王宮宮女
王宮宮女は「尚宮(サングン)」と「内人(ネイン)」に分けられる。
「内人」は4~5歳で入営し、見習い女官からスタートします。
「至密(王と王妃が起居する部屋)」「針房(裁縫)」「繍房(刺繍)」
「洗手間(洗面)」「生果房(菓子)」「焼厨房(炊事)」「洗踏房(洗
濯)」などに配属され、尚営から教育を受けます。
待遇序列は、王族に秘書のように付き従う「至密」が最も高く、
次いで「針房(裁縫)」「繍房(刺繍)」「焼厨房(炊事)」の順…。
7~8歳になると宮女に必要な教育を受けさせ、入営15年目に
「冠礼」成人の儀式を行います。
更に15年勤めると「尚宮」に任じられます…35~40歳に尚宮
になる。長く宮中に仕えるため、尚宮の権威は相当なもので、
自前の家を構え、使用人を置く身分になっている。
最高位の宮女には、宮殿の貴金属・財宝を管理する権限が与
えられる。六段階に分けられた序列に従い、宮中には600人
の宮女が働いていた…江戸の大奥のように、何人も立ち入る
ことができない”女人天国”を形成していたのです。
781 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「李朝最後の国王」
第26代”高祖”…実質上「李朝」最後の国王で、「大韓帝国」
最初の皇帝になる。
25代”哲宗王”に後継がなかったことから、王族の”興宣大院君”が謀を巡らして、
自分の次男を世子(世継)にすることに成功した。
1863年”哲宗王”が死ぬと”高祖”
を名乗り、11歳で即位。
実父・興宣大院君が摂政となり、
すべての権限を把握した。
それまで大院君は、貧民窟に住み、
乞食同然の放浪生活をしていたのです。
昨日まで浮浪者だった者が、大権を掌握したのです。
大院君は権力を掌中に収めるや、それまで李朝を牛耳っていた一族を追放してしまった。
乞食暮らしをしていた時、米を恵んでくれた米屋の李千一(イチョンイル)
を、米と布と金銭の出納を司る役所、 「宣恵庁」
の金庫番に登用した。
李千一は、膨大な利益を懐に入れることができる、人もうらやむ身分になったのです。
同じ頃、日本や中国は開国していた。
しかし、大院君は「鎖国攘夷政策」を強行し、キリスト教弾圧に熱中…
フランス人宣教師を含む数万人の信者を殺害したため、
西洋列強との関係が悪化した。
開国を迫った、フランスとアメリカの艦隊を撃退。その自信からか、
1875年仁川において日本軍艦を砲撃して、日本に激しい敵意を燃やした。
その一方、ソウルに壮麗な宮殿”景福宮”を造営。
その財源を捻出するために増税し、
悪貨を鋳造したために、民衆の生活は圧迫…経済は疲弊した。
王宮内では、高祖の寵愛を受けた妾が男児を生んだことから、世子を巡る政争に発展。王妃と妾の間で一族争いが起こったが、
国王を味方にした王妃側が勝利した。
妾側に付いた王妃の義父大院君を、摂政の座から引きずり降ろし、追放してしまった。
この後高祖は酒色にふけり、政務を省みようとしなかった。
代わって王妃の専制が始まった。
その王妃は、困窮家庭に育ち、8歳の時父母と死別している。
賢い娘だったので、大院君は、
高祖王の正妻に迎えた…
玉の輿に乗ったのです。
大院君は、恩を仇で返した王妃を憤り、嘆いた。
李王朝500年の歴史は、最後の最後まで人民に善政を施すことを忘れ、
権力抗争に明け暮れたのです。
崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」