■韓国小噺「箸とさじ」
『長い歴史、
日本の文化は中国から朝鮮を経てもたらされた。
その昔日本人は、食事のとき手を使って食べていました。
ある時、日本の使節が新しい文明を求めて、朝鮮国を訪れました。
朝鮮の王は使節に、食事の時に箸を使うことを教えました。
日本の使節は、大変喜んで帰っていきました。
しばらくして朝鮮の王は、笑いをかみ殺しながら、
「あの時、日本人に箸の使い方は教えた…が、”さじ”は教えなかった。
だから、いまだに野蛮人なのだ」と言った。
なるほど、日本料理で”さじ”を使って食べる料理はない。
しいて取り上げるなら、「茶碗蒸し」ぐらいだろう。
”さじ”がスプーンとなって日本に普及したのは、明治以降…
西洋の影響を受けて、洋食になじむようになってからである 』
774 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「日本は蛮夷の国」
■日本軍の捕虜になった儒学者の記録
名門の儒家の両班の家に生まれ、秀才の誉れ高く、27歳で科挙の文科に合格。
29歳で官庁の役職に付いた姜沆(カンハン)。
秀吉の朝鮮侵略で日本軍の捕虜になり、日本に連行された。
滞留した時の記録が「看羊録」
として今に残されている。
その内容は…
『絶域の外、犬や豚の巣窟に陥ってしまった。倭人は背が低く、力もない。
わが国の男と倭が角力をとったら、倭人はまったく勝ち目がない。
なのにどうしてたやすく、国土をじゅうりんされてしまったのだろう…』
このように「看羊録」では、日本人は「蛮夷・倭奴」と呼び、
犬や豚のたぐいと蔑んでいる。李朝鮮は中国を崇め、自らを「小中華」と誇っていた。朝鮮人にとって日本人は、朝鮮人が持つ「華夷
(かい)思想」によって、人間以下の辺境の未開人(夷てき)
でしかなかったのです。
2月、大阪出張の折京都に立ち寄り、松下幸之助が開いた霊山歴史館で
「坂本竜馬展」を見学した。展示館には、竜馬のピストルや着物が展示されていた。
”姜沆”が言うように、竜馬の着物は、中学生の服かと思うほど小さかった。
江戸時代の男子の平均身長は、1メートル60センチにも満たなかったのです。
李朝は徳川の将軍が代替わりするとき、「通信使」
の一行を12回にわたって日本に派遣している。彼らは終始日本を”夷てき”と侮っていたため、
日本の優れた所を学ぼうとしなかった…朝鮮では、日本人は倭奴であり続けたのです。
■現代の日本を見透かした”姜沆”のけい眼
”姜沆”はけい眼の持ち主だった。「看羊録」の中で…
『倭人、風俗といえば、小事にさとく、大事にうとい。
衆人が尊びほまれとすることは、
内容もよく調べずにひたすら従い、一旦惑わされてしまったら、
死ぬまで覚(さと)ることがない。これこそ、蛮夷というものである…
』と述べている。
これは太平洋戦争後の日本に当てはまる。日本がアメリカの傘の下に守られていることを、
天与のものとして、
それが未来永劫に続くであろうと錯覚している。
アメリカが、日本人が持つ大和魂を骨抜きにし、”属国”として従えるために強要した”平和憲法”を、戦後60年を経た現在も、一行の改憲もせず崇めている…それを見透かしているのです。
戦後の日本が、アメリカ文化を競うように模倣して恥じることなく、
アメリカに国家の安全と未来のすべてを託しているのを見ると、李氏朝鮮が500年にわたり、
中国に国防のすべてを託した
「事大主義」を想起せざるをえない。
中国にあこがれ服属したことが、
李朝時代を通じて韓民族を堕落させたという事実を、
よもや日本人が知らないわけはなかろう…。
崔 基鎬著
「韓国堕落の2000年史」より
※崔 基鎬(チェ・ケイホ)
韓国の大学教授。朝鮮・中国・日本の歴史を客観的に見つめた書物は、
韓国人の持つ歴史認識とは大きく逸脱した、日本人には「目から鱗」の、
大変興味深い内容になっている。富山県韓国交流推進アドバイザー。
著書は「日韓併合…韓民族を救った”日帝36年”の真実」「韓国堕落の
2000年史」