■隣国
(朝鮮・中国)に無知…「夜郎自大」の秀吉
李氏朝鮮に、明征伐の協力をさせようとした秀吉…当時途絶えて
いた「朝鮮通信使」の再開を李朝に持ちかけたが、日本は野蛮国
と軽蔑していた朝鮮…一旦は修好を拒否した。
1589年秀吉は、対馬の宗氏に命じて、李氏朝鮮王に「秀吉に
入貢するよう伝えよ」と命じた。
宗氏の再三にわたる懇願で、ようやく身分の低い通信使を2名、
日本に派遣した。
秀吉は、朝鮮が自分の意に簡単に従うと、タカをくっていたようで、
国王が来なかったことに怒り、散々待たせたあげく、会見の席で
傍若無人な振る舞いをした。
通信使に秀吉から渡された返書は、「明を征伐するから、先陣を
勤めよ」という、臣下に接するようなとんでもない内容。
李氏朝鮮にとって、明国こそが唯一無二の宗主国…秀吉の返書に、
しばし呆然とした。
770 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「秀吉、朝鮮出兵の顛末(1)」
1580年代、14代”宣祖王”のとき、日本国王・秀吉が、
明を征服するという誇大妄想の夢を描き、
実行に移そうと画策していた。
その情報は李朝にも伝えられ、「10万養兵防衛策」
が献じられた。しかし、党派争いに明け暮れる宮廷は、危機に目を閉ざし、
王は情報の信憑性を究明しようとしなかった。
1590年になると、宣祖王は次々日本から伝えられる情報に、
さすが不安を抱き、日本に二人の使節を送り、情報を確認させた。使節団は8ケ月間滞留して帰朝。
秀吉が明へ侵攻するにあたり、「朝鮮の道を借りたい」
という考えのあることを知らせた。
正使は「兵禍の怖れがある。秀吉は恐るべき人物だ。必ず攻めてくる」
と報告した。副使は
「そのような心配はまったく不要!」と強調した。
二人の報告が相反したのは、正使が”西人”であり、副使が”東人”で、二人は日頃、
勢力を競い合う党派に属していたという理由だけであった。
当時、党派が違えば、同じ意見を述べることはありえなかった。更に当時、李朝は”東人”が政権を牛耳っていたため、王は「秀吉の来攻はない」
との判断を下して、黙殺した。
1591年6月、対馬藩主がソウルにやってきて、秀吉軍を明へ通すよう請うた。
ここでなお王は、東人側の判断が正しいと…なんら対策を講じようとしなかった。
秀吉は、李氏朝鮮が自分の要求を無視したことを知るや、激怒…
直ちに朝鮮出兵のための名護屋城建設を命じた。
「明征伐に手を貸さないのであれば、まず朝鮮から征伐すればよい。半年も要しないだろう」。綿密な戦略もなく、
楽観的予想で計画を推し進めようとしていたのです。
1592年4月、小西行長一行率いる15万の兵が、
釜山浦に上陸し、進撃した。
上陸20日後にはソウルを占領。小西行長の軍は平壌に達し、加藤清正の部隊は、
朝鮮半島中部の江原道まで侵入した。
国家の防衛を明に委ね、正規軍を持たない李朝は、
大量の新式銃を装備した日本軍の前には、
烏合の衆でしかなく、抵抗もできず、かい走を続けた。
宣祖王と、重臣はソウルを脱出、開城へ落ちていった…
建国200年、初めての出来事である。
空になった王宮に民衆がなだれ込み、略奪・
放火を行った。
宣祖王は日本軍に追われ、開城からさらに遠く義州へ落ちていった。
崔 基鎬著
「韓国堕落の2000年史」