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2010年06月 アーカイブ

2010年06月03日

韓国パワーの源・四大メニュー

食材のみごとなバランスが、 キムチの美味しさを生む
 
キムチは、塩漬けの白菜に、ネギ、ニンニク、ショウガなどの香辛
菜を加え、塩辛と唐辛子を入れて漬け込んだ発酵食品です。
 
キムチの熟成とともに増え続ける乳酸菌は、塩辛の動物性蛋白質
を餌に生育する。ところがこの動物性蛋白質は、酸化し腐りやすい
代物…その進行を防ぎ、抑えてくれるのが唐辛子です。
 
更に、乳酸菌は塩分が高いと、生育しにくい性質がある。
唐辛子は、塩分を少量で済むようにしてくれ、塩味を引き立たせる
効果がある。ために、唐辛子を入れない塩漬け食品より、塩分量
は少なくて済むのです。
 
唐辛子に育成を助けられた乳酸菌は、腸の働きを正常に保ち、
便秘を予防する。更に唐辛子は、体内脂肪を燃焼させ、肥満の
予防に効果がある他、胃液の分泌を促し、食欲を増進させ、
カロチンなどのビタミンAが豊富な、健康食品です。
 
 
 
769 【心と体の健康情報】 
~食と健康~ 
「韓国パワーの源・四大メニュー」
 
盛り付けが綺麗で、見た目に美しくおいしく見せるのが日本料理。一方の韓国料理… ひとことで言えば「体で食べる料理」ということでしょうか。
韓国料理といえば、焼肉と唐辛子を想する。 が、日本食の刺身がそうであるうに、韓国人が毎食焼肉を食べているわけではない。
 
キムチに代表される一般的韓国料理は、食材にニンニク、 唐辛子を使ったもの多く、辛いというイメージが強い。すべてがそうではなく、 大河ドラ「チャングム」 てくるような宮廷料理は、辛くなく、上品な味わいだという。
 
韓国を代表する料理といえば…
石焼ビビンバ
 この料理のポイントは、コチュジャン(辛子味噌)にある。
 日本人は、ちらしずしの感覚で食べようとするが、本場
   食べ方は、 これでもかというくらい、ご飯と約10種類の具
  をよくかき混ぜてから、ご飯と野菜が混ざり合った味覚を
 楽しむ。
 ビビンバとは、ヒビム「混ぜる」と、パァ 「ご飯」が結合した
 言葉です。
 
キムチチゲ
 この料理は、韓国を代表する「キムチ」を使った汁物料理
 です。これを食べて美味いと感じれば、 韓国料理は何でも
 OKです。
 
ビビン冷麺
 少々辛いが、一度食べるとやみつきになります。
参鶏湯 (サムゲタン)」
 鶏の内臓をくりぬいて、もち米・人参・ナツメなどを詰め、
 釜で長時間煮たスープ料理で、滋養・ 強壮食品です。
 
日本人の食卓に牛肉・豚肉が載るようになったのは、明治中期になってから…。 すき焼きのように、庶民が肉料理に舌鼓をうつようになって、 まだ百年の歴史しないのです。 日本は、魚や野菜を調理する 「和食文化」の国なのです。
 
一方、朝鮮の食肉の習慣と調理ノウハウは、 日本とは比べようのない長い歴史ある。肉料理の長所と短所を知りぬき、持ち味を十分に活かした韓国は、本当に美味しい。
                                 眞田幸光著「早わかり韓国」
 
余談だが、日本人の腸の長さは約7メートル。
欧米人は4メートル。穀類を主食にする日本人の腸は、欧米人より長い…その分、なる。腸が長いと、未消化の肉が腸内に長く留まり、 身体に悪い影響を与える。それが近年の直腸ン患者加の原因になっているのです。
 
欧米人のように、肉類を中心とした食生活は、腸の長い日本人には向かないのです。
 

2010年06月07日

秀吉、朝鮮出兵の顛末(1)

隣国 (朝鮮・中国)に無知…「夜郎自大」の秀吉
 
李氏朝鮮に、明征伐の協力をさせようとした秀吉…当時途絶えて
いた「朝鮮通信使」の再開を李朝に持ちかけたが、日本は野蛮国
と軽蔑していた朝鮮…一旦は修好を拒否した。
 
1589年秀吉は、対馬の宗氏に命じて、李氏朝鮮王に「秀吉に
入貢するよう伝えよ」と命じた。
宗氏の再三にわたる懇願で、ようやく身分の低い通信使を2名、
日本に派遣した。
秀吉は、朝鮮が自分の意に簡単に従うと、タカをくっていたようで、
国王が来なかったことに怒り、散々待たせたあげく、会見の席で
傍若無人な振る舞いをした。
 
通信使に秀吉から渡された返書は、「明を征伐するから、先陣を
勤めよ」という、臣下に接するようなとんでもない内容。
李氏朝鮮にとって、明国こそが唯一無二の宗主国…秀吉の返書に、
しばし呆然とした。
 
 
 
770 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「秀吉、朝鮮出兵の顛末(1)」
 
1580年代、14代”宣祖王”のとき、日本国王・秀吉が、 明を征服するという誇大妄想の夢を描き、 実行に移そうと画策していた。
その情報は李朝にも伝えられ、「10万養兵防衛策」 が献じられた。しかし、党派争いに明け暮れる宮廷は、危機に目を閉ざし、 王は情報の信憑性を究明しようとしなかった。
 
1590年になると、宣祖王は次々日本から伝えられる情報に、 さすが不安を抱き、日本に二人の使節を送り、情報を確認させた。使節団は8ケ月間滞留して帰朝。 秀吉が明へ侵攻するにあたり、「朝鮮の道を借りたい」 という考えのあることを知らせた
 
正使は「兵禍の怖れがある。秀吉は恐るべき人物だ。必ず攻めてくる」 と報告した。副使は 「そのような心配はまったく不要!」と強調した。
 
二人の報告が相反したのは、正使が”西人”であり、副使が”東人”で、二人は日頃、 勢力を競い合う党派に属していたという理由だけであった。
当時、党派が違えば、同じ意見を述べることはありえなかった。更に当時、李朝は”東人”が政権を牛耳っていたため、王は「秀吉の来攻はない」 との判断を下して、黙殺した。
 
1591年6月、対馬藩主がソウルにやってきて、秀吉軍を明へ通すよう請うた。
ここでなお王は、東人側の判断が正しいと…なんら対策を講じようとしなかった。
 
秀吉は、李氏朝鮮が自分の要求を無視したことを知るや、激怒… 直ちに朝鮮出兵のための名護屋城建設を命じた。
「明征伐に手を貸さないのであれば、まず朝鮮から征伐すればよい。半年も要しないだろう」。綿密な戦略もなく、 楽観的計画を推し進めようとしていたのです。
 
592年4月、小西行長一行率いる15万の兵が、 釜山浦に上陸し、進撃した。
上陸20日後にはソウルを占領。小西行長の軍は平壌に達し、加藤清正の部隊は、 朝鮮半島中部の江原道まで侵入した。
国家の防衛を明に委ね、正規軍を持たない李朝は、 大量の新式銃を装備した日本軍の前には、 烏合の衆でしかなく、抵抗もできず、かい走を続けた。
 
宣祖王と、重臣はソウルを脱出、開城へ落ちていった…
建国200年、初めての出来事である。 空になった王宮に民衆がなだれ込み、略奪・ 放火を行った。
宣祖王は日本軍に追われ、開城からさらに遠く義州へ落ちていった。
                                                          崔 基鎬著 「韓国堕落の2000年史」

2010年06月10日

許す心

■言葉と察し合いのバランス
 
文化庁が、全国の16歳以上の男女3480人を対象に 「国語に関する
世論調査」を行った。この十年で「言葉で伝えるより、 察し合って心を
通わせることを重んじる」人が、1、4倍に増えたという。
 
調査は面接方式で、人と付き合う時、互いの考えを 「できるだけ
して伝える」か、 全部は言わなくても「互いに察し合うことをか」 、
いずれかを問いました。
回答は「言葉にする」は38%で、 前回の調査から12ポイントも
のに対し、「察し合う」は10ポイント増えて34%でした。
 
この結果について同庁では、「KY(空気が読めない)と言われること
恐れ、場の空気に合わせようとする風潮の表われでは…」と指摘
いる。
人間関係で、お互いの気持ちを察し合う能力に欠けると、
自分勝手
なり、場の空気に合わせるだけでは、自分の意志いつまでも相手に
伝わりません。
空気を読む受信能力だけでなく、言葉による、思いの適切な伝達が
大切です。 言葉と察し合い、 両方のバランスがとれて初めて、 心地よい
人間係が生まれるのです。
                                 職場の教養
 
 
771  【心と体の健康情報】
~幸せな人生~ 「許す心」
 
もう少し、家族や他人に寛容になれなかっただろうか? 
「許す心」…寛容さが私たちに求められ その背景には「責任」を強調するあり、 他人への配慮を欠き、 余裕をっている現代の風潮があります。
 
一昔前まで、日本の社会は「互助の精神」 に支えられていました。人から「助けてほしい」と求められれば、自らを省みることなく、 親身になって手を差し伸べようとする”利他” の心があったのです。
では、どうしたら相手を思いやり、 寒々とした今の社会に、ぬくもりを取り戻すことがでるでしょうか?
 
■僧侶・玄侑宗久は、「許す心」について次のように語っている。
「現在の日本は、許し許される心を忘れ、何でも白黒つけたがる傾向がある。
不祥事を起こした企業の謝罪会見を見ていても、更に攻め立て、 それでも許さないという風潮が強まっている。断罪して裁かなければ、 気が済まなくなっているのです。
 
そこには、日本人の美徳である「和を尊び、許す心」の代わりに、 相手を打ち負かそうとする、 酷薄な”正義観”が透けて見えてくる。
 
■仏教では、物事の原因を”一つ”にのみ求めることを、よしとしない。
「物事を、白か黒かで分けてとらえるのは、分かりやすいが、その間には”七色” あり、その一つひとつに意味がある」と…
多様な価値観を認める心の広さが、仏教にはあるのです。
 
■1月6日メルマガN0629「日本人の心を語る”落語”」 の中で…
日本語には、1と0、イエスとノーの間に、 限のトーンが存る…日本人の社会には、 イエスでもノーでもない” 曖昧ファジー” な空間が存在するのです
 
神や仏の教えで、与えることが出来るものに「許し」 がある…
私に、そしてあなたに、 誰かを許す度量の広さがどれだけあるだろうか… 自らに問いかけてみる必要があるようですす。
 
■神戸女子学院大教授”内田 樹”さんは、「許す心」について…
「何事もスピードが求められる現代では、即断即決が求められ、 余裕をもって事にあたることが許されない」
「言いたいことを200字以内にまとめて提出しなさい」などと、 物事を単純化することが歓迎され、人の能力の有無は、 テストの結果表れる数字で片付けられてしまう。
 
物事を数値で見て比べるのは、てっとり早く分かりやすい…
が、底が浅く、人間としての深みがない。単純化することに慣れた現代の日本人は、余裕をもって他人と接する耐力を失ってしまっているようだ。
 
例えば、昆虫を見つめる子どもに、親は「そんなことをしていないで、 塾へ行きなさい」 と言うだけ…数値では測れない我が子の長所・魅力・器に気付こうとしない。
 
■医療の世界でも、患者との意思疎通が軽んじられる傾向にあると、 マスコミが報道している。産婦人科や脳外科など、訴訟リスクの多い分野を避けようとする。
こうした傾向が、社会システムに機能不全を引き起こしているのです。
 
「自分には理解できないことには、注意深く耳を傾け、理解しようと努める」… それが、「許す」ということではないでしょうか? 
そのためには、情理をつくして、相手ととことん話し合う、 精神的余裕が持てようになりたいものです。

2010年06月14日

秀吉、朝鮮出兵の顛末(2)

■撤 退
 
1598年8月秀吉が死んだ。秀吉軍は戦意を消失し、我先にと撤退を
始めた。しかし、陸は明兵と朝鮮義兵が溢れ、海は”李舜臣”の軍に
抑えられて、撤退は困難を極めた。
 
その時大活躍したのが薩摩の島津義弘。わずか七千の兵で明軍20
万を包囲…完璧なまでに打ち破っている。
海戦でも一計を用いて、宿敵”李舜臣”将軍を戦死させている。
 
このような島津の活躍により、多大な被害を出しながら、なんとか撤退
を完了した。逃げ帰れずに朝鮮に留まり、帰化した人も多かったという。
 
終戦後、大名たちから、豊臣政権の石田三成など五奉行に非難が集
中…豊臣の権威は失墜し、政権を支えてきた大名が多数離反した。
そこにつけ込んだのが徳川家康…巧みな外交で天下を奪い取った。
 
 
772 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「秀吉、朝鮮出兵の顛末(2)」
 
日本軍の朝鮮進撃によって、国土が廃墟と化した。が、王も重臣たちも、 反省するとがかった。ただひたすら、宗主国・明に救援を請願するだけだった。
明に防衛のすべてを委ねる 「属国根性」しか持ち合わせていなかったのです。
 
国難に際し、最大の功績者は、水軍総司令官の”李舜臣(イスンシン)”であった。 舜臣は、世界史上初の装甲軍船「亀甲船」を考案し、日本軍を撃破していった。
日本軍上陸3ケ月目には、制海権を手中に収め、 日本軍の補給路を絶ってしまった。
 
補給が途絶えて、日本軍の進撃の速度が落ちたところへ、 明から15万余の救援が到着。
翌年3月には平壌とソウルを奪還。4月末には、 日本軍を釜山のある慶尚道沿岸まで退却させた。日本軍は築城して篭り、戦況は膠着状態に陥った。
 
ところが、救国の英雄になるはずだった舜臣は、 その功績を嫉妬した一族の謀略によって罪人に仕立て上げられ、拷問の末死刑を宣告された(韓流時代劇そのもの)。
一部重臣の反対で何とか死刑は免れたが、 一平卒として従軍することを命じられた。
 
1597年、日本軍は再び朝鮮に侵入してきた。対戦した朝鮮軍は大敗、 朝鮮水軍も全滅した。
ろうばいした李王朝、再び舜臣を呼び戻し、水軍総司令官に任じた。
舜臣は、母親の喪の報せに接したが、喪に服すことを許されず、 残ったわずか12隻の軍船を率いて日本水軍に立ち向かい、勝利したが、舜臣は戦死した。
 
前回と異なり明軍が駐留し、朝鮮軍も戦備を整えていたため、 日本軍は苦戦をいられた。
翌年、秀吉が亡くなったため撤収… 7年に及んだ倭乱はようやく終焉した。
 
日本軍に国土を破壊されて、男子は老若を問わず徴兵され、 農地は荒れ果てて、食物は欠乏。
飢民がちまたに溢れ、庶民の暮らしは疲弊した… にもかかわらず王や力者は、国民に目を向けようとせず、以前にも増して党派争に明け暮れて争 自らの責任を省みようとはしなかったのです。
 
宣祖王は、倭乱の10年後の1608年に没した。
次の15代王になったのは”光海君” …宣祖の第二子である。
光海君は暴君となり、第十代王・ 燕山君と並ぶ「最もふさ
しくない王」 の烙印を後世に残した
                  崔 基鎬著 「韓国堕落の2000年史」

2010年06月15日

言語は女性、男性は一点集中

■劇団四季金沢公演

劇団創立55周年を記念したミュージカル「ソング&ダンス・55ステップ」を観賞した。
 
四季の代表作「マンマ・ミーアー」「ライオンキング」「オペラ座の怪人」「キャッツ」など、 55年間の名作のおいしいところが次々演じられる…
 
観客を魅了する振付・演出・衣装・音楽とダンス…はちきれんばかりに舞台を飛び跳ねるナマの迫力…
照明の演出効果もバツグン! 
 
四季ファンの私には、絶対見逃せない2時間半だった。
(私が劇団四季の常連になったルーツは、S36年公開の映画・ウエストサイド物語から…ナタリー・ウッド、ジョージ・ チャキリス…最高です!)
   劇団四季金沢公演劇団四季金沢公演※クリックすると写真が拡大されます。

 


【心と体の健康情報 - 773】
~女(男)の言い分~ 
言語は女性、男性は一点集中

私の会社…男性は私1人…女性のみが働く会社です。
親会社の経営理念に、 「女性の地位向上と男女平等の実現」 がある。
 
我社の創業は30年前の昭和54年…当時は"女性家庭"という考え方が一般で、25歳の年頃になると「まだ嫁に行かないのか」と、会社に居づらくなり、 結婚退社が当たりだった時代… 女性の社会進出と自立を掲げ性の人材発掘び回っていた私…
 
NHK土曜ドラマ「トップセールス」の主役の女性… 自動車のセールスの世界に飛び込んで、悪戦苦闘…女性が働くのは結婚まで… 腰掛にしか見られなかった時代です。
 
今は会社の要職に女性がいるのはあたりまえ… 男性以上に活躍する女性経営者も珍しくない。能力があれば男性と対等に評価され、 登用される時代になった。
なのに、女子社員を苦手とする管理職や経営者がまだまだ多いのは、何故でしうか?
 
私のメルマガ、「女(男)の言い分」シリーズを読むと、少しは理解できるでしょうが、近年、医学の発達で、 男性と女性の脳の違いが分かってきたのです。
「男と女は全く違った思考回路でモノ見、 考える」… 女性は男性とはまったく別の生きものなのです。
 
右脳と左脳をつなぐ神経繊維の束が、女性は男性より太く、左右の脳を同時に働かせることが出来て、 いくつもの作業を同時に手際よくこなせるのです。
 
家事を例に挙げると、女性は、料理・洗濯・掃除・育児を、 同時に手際よくこなせます。同じことを男性にやらせると、どれもこれも中途半端… 最悪なことが起こりかねせん。
料理をやりだすと、料理に熱中し、育児や洗濯を全く忘れてしまう。 気がつくと赤ちゃんの姿が見えなくなって大騒ぎ…なんてことになってしまう。
 
数年前のTVお茶の間番組で…若い男女が向き合って、 夫婦喧嘩もどきに相手をののしり合う…という番組があった。
やり合っているうちに、左脳で考えながら反論する男性は、言葉に詰まって、なにも言えなくなってしまう。
対する女性…瞬時に思ったことが言葉になっ出てくる。右脳と左脳をフル回転させ、 機関銃のように攻めたててくる…男性はタジタジ… 毎週同じシーンが繰り返えさる。
 
会話の応酬には不器用な男性の脳ですが、男性特有の長所がある。 一つの事柄深く追求する「一点集中」に適しているのです。興味のあることには、 違和感なく何時間でも打ち込める
女性は、こうした男性を我慢出来ないし、理解できないのです。
富山短大教授・田淵英一「脳を鍛える」
 
頂点に登りつめるのに男女差別のない、囲碁や将棋の世界…
男性をしのぐ女性は出ていない。 闘争本能が男性よりっているかと思いきや、そうではない… ものごとを集中して深く探求し、 50手先をみする力は、男性の脳の方が勝っているのです…その差が、実力の差となってれてくのです。
 

2010年06月21日

日本は蛮夷の国

■韓国小噺「箸とさじ」
 
『長い歴史、 日本の文化は中国から朝鮮を経てもたらされた
 その昔日本人は、食事のとき手を使って食べていました。
 
 ある時、日本の使節が新しい文明を求めて、朝鮮国を訪れました。
 朝鮮の王は使節に、食事の時に箸を使うことを教えました。
 日本の使節は、大変喜んで帰っていきました。
 
 しばらくして朝鮮の王は、笑いをかみ殺しながら、
 「あの時、日本人に箸の使い方は教えた…が、”さじ”は教えなかった。
 だから、いまだに野蛮人なのだ」と言った。
 
 なるほど、日本料理で”さじ”を使って食べる料理はない。 
 しいて取り上げるなら、「茶碗蒸し」ぐらいだろう。
 ”さじ”がスプーンとなって日本に普及したのは、明治以降…
 西洋の影響を受けて、洋食になじむようになってからである 』
 
 
774  【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「日本は蛮夷の国」
 
■日本軍の捕虜になった儒学者の記録
名門の儒家の両班の家に生まれ、秀才の誉れ高く、27歳で科挙の文科に合格。 29歳で官庁の役職に付いた姜沆(カンハン)。
秀吉の朝鮮侵略で日本軍の捕虜になり、日本に連行された。
滞留した時の記録が「看羊録」 として今に残されている。
その内容は…
 
『絶域の外、犬や豚の巣窟に陥ってしまった。倭人は背が低く、力もない。 わが国の男と倭が角力をとったら、倭人はまったく勝ち目がない。 なのにどうしてたやすく、国土をじゅうりんされてしまったのだろう…』
 
このように「看羊録」では、日本人は「蛮夷・倭奴」と呼び、 犬や豚のたぐいと蔑んでいる。李朝鮮は中国を崇め、自らを「小中華」と誇っていた。朝鮮人にとって日本は、朝鮮人が持つ「華夷 (かい)思想」によって、人間以下の辺境の未開人(夷てき) でしかなかったのです
 
2月、大阪出張の折京都に立ち寄り、松下幸之助が開いた霊山歴史館で 坂本馬展」を見学した。展示館には、竜馬のピストルや着物が展示れてた。
”姜沆”が言うように、竜馬の着物は、中学生の服かと思うほど小さかった。 江戸時代の男子の平均身長は、1メートル60センチにも満たなかったのです。
 
李朝は徳川の将軍が代替わりするとき、「通信使」 の一行を12回にわたってに派遣している。彼らは終始日本を”夷てき”と侮っていたため、 日本のた所を学ぼうとしなかった…朝鮮では、日本人は倭奴であり続けたのです。
 
■現代の日本を見透かした”姜沆”のけい眼
”姜沆”はけい眼の持ち主だった。「看羊録」の中で…
『倭人、風俗といえば、さとく、大事にうとい。 衆人が尊びほまれとすることは、  内容もよく調べずにひたすら従い、一旦惑わされてしまったら、 死ぬまで覚(さと)ることがない。これこそ、蛮夷というものである… 』と述べている。
 
これは太平洋戦争後の日本に当てはまる。日本がアメリカの傘の下に守られていることを、 天与のものとして、 それが未来永劫に続くであろうと錯覚している。
アメリカが、日本人が持つ大和魂を骨抜きにし、”属国”として従えるために強要した”平和憲法”を、戦後60年を経た現在も、一行の改憲もせず崇めている…それを見透かしているです。
 
戦後の日本が、アメリカ文化を競うように模倣して恥じることなく、 アメリカ国家安全と未来のすべてを託しているのを見ると、李氏朝鮮が500年にわたり、 中国に国防のすべてを託した 「事大主義」を想起せざるをえない。
 
中国にあこがれ服属したことが、 李朝時代を通じて韓民族を堕落させたという事実を、 よもや日本人が知らないわけはなかろう…。
                                        崔 基鎬著 「韓国堕落の2000年史」より
 
※崔 基鎬(チェ・ケイホ)
韓国の大学教授。朝鮮・中国・日本の歴史を客観的に見つめた書物は、
韓国人の持つ歴史認識とは大きく逸脱した、日本人には「目から鱗」の、
大変興味深い内容になっている。富山県韓国交流推進アドバイザー。
著書は「日韓併合…韓民族を救った”日帝36年”の真実」「韓国堕落の
2000年史」
 

2010年06月24日

三すくみ

■勘違い(富山県の某社で実際にあった話)
 
・お客様から電話がかかってきた
     「”唇”という社員がいるだろう、電話口に出してくれ」
社  員「”くちびる”さん? 
     当社にはそのような社員はおりませんが…」
お客様「居ない? そんなことあるか、電話口に出せ!
 
社  員「”唇”? 何度おっしゃられても、
     そのような名前の社員はおりませんが…」
お客様「そんなはずはない、お宅から届いたファックスに、
     ”唇”っていう社員の印鑑押してあるやないか…」
社  員「??? 少々お待ちください」 電話を保留に…
     上司に、「おかしな電話が…」と報告
上  司、少し考えて…
         「あっはっは! それは営業の”辰口”君のことじゃないかね
    「お~い辰口君、○○さんは君の客かね… 」
    「あっそう、わかった…君に○○さんから電話が入っているよ」
 
※”辰口”を印鑑にすると”唇”と読める…笑えない勘違いの実話です。
 
 
775 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「三すくみ」
 
百万石まつりの翌日、お客様と金沢城内に竣工して間もない「河北門」と、 兼六園の散策を楽しんだ
兼六園の霞ケ池の奥の千歳台の広場に、日本武尊 (やまとたけるのみこと)の大き像が立っている。
 
古事記や日本書紀に出てくる人物だが…この人物、一体何か? 前田藩と無縁の銅像が、公園内に立っているのは何故か?  詳しいい。
銅像は、西南戦争の戦没者の慰霊碑と、立て札の説明書き… 明治政府に反旗を翻した薩摩士族戦った、金沢・ 陸軍七連隊…この戦いで、約390名が戦死した。
 
▲クリックすると拡大写真をご覧いただけます。
 
■その銅像の台石に、蛇とガマガエルとナメクジの形をした、
 「三すくみの石」があを知る人は少ない。
 蛇はカエルを、カエルはナメクジを襲い、ナメクジは蛇を
  溶かすという…
 獲物がいが、天敵もいる…三者立ちすくみ、身動きがとれ
  ない。
 動けないから、動かない…三すくみの石が、銅像をしっかり
  支えているのです。                   北国新聞「時鐘」
 
■三すくみといえば「グー・チョキ・パー」がある。
 金沢の西のお茶屋で、「とらとら」という粋なお座敷遊びをした
 ことがある…お婆さんはわとうない (明国の遺臣をモデル
 た人物)に勝ち、わとうないはを退治し、 虎はお婆さんを食
 べてしまう。
■よく似たお座敷遊びに「つるつるてんつる」がある…
 向かい合って「鉄砲・狐・庄屋」 の格好をして、勝ち負け
 競う。鉄砲は狐をズドン、狐は庄屋を化かし、 庄屋は鉄砲を
 あやつる。
 
■この他に「人・蟻・象」は、人が蟻を踏み潰し、象は人を踏
 み潰す、蟻は象を刺す。
 「炎・草・水」は、炎は草を燃やし、草は水を吸い上げ、水は
 炎を消す。
■自民党政権の頃の権力構造は、「権力の三すくみ」で世間
 を騒がた。
 政界は、多額の献金をする財界に頭が上がらず、財界は、
 脱税で”官”に訴えられ、官界は、 政界に人事と予算を握ら
 れている。
■「政治家と国民とお役所」も”三すくみ”の関係…
 政治家は、国民の一票にペコペコ頭を下げ 国民はお役所
 (お上)に逆らえず、お役所は、事業仕分けでオロオロする
 ばかり。
■民主党の小沢、鳩山、管の三首脳も”三すくみ”
 力があるが、人気がない。口は達者だが、力がない。
 人気はあるが、無愛想。

2010年06月28日

頑張れ日本・頑張れ本田圭佑

■小数精鋭とは        「理念と経営・ 6月号」
 
少数精鋭とは、精鋭を少数集めることではなく、
 組織の中を小数にすること、 誰もが自立的に反応
 し行動して、自ずと精鋭に育つということである
 
オムロン(立石電機)創業社長”立石一真”のことばです。
 
急成長を果たした立石社長。ところが、社内に官僚主義が
はびこるようになり.、成長に急ブレーキがかかった。
そこで、大企業でありながら、中小企業の熱意と創意工夫
を社内に取り入れるべく、冒頭の「小数精鋭」を実践した。
 
これによって、大組織に埋没しかけた社員を、もう一度自ら
積極的に仕事をするように鍛え直し、再び快進撃を開始した。
 
”野武士集団”と言われた総合電機トップメーカー。日本一
になった住宅会社。起業10年で化粧品業界大手6位に…
この三つ企業に絡んた職業で、人生を歩んできた私…
何れの企業も、発展の途上で官僚主義が目に付くようになり、
成長にブレーキがかかったことを、この目で見てきた。
 
 
776 【心と体の健康情報 】
~幸せな人生~ 
「頑張れ日本・頑張れ本田圭佑」
 
25日未明のベルギー戦の日本チームの活躍は素晴らしかった…興奮した。
今日29日夜11時、いよいよパラグアイ戦だ…堅い守り、怒涛のような攻め…
日本とよく似た相手だが、今日勝って、ベスト4進出がみんなの悲願です。
 
■以下は、中日春秋からの抜粋です
作家の童門冬二さんが、木下藤吉郎の「一夜城」の逸話を語る時、” にぎり飯とおかゆ”を、例に上げている。
組織は『にぎり飯の米つぶでなければならない』と、組織論を展開する。  
組織がだらけきって、米つぶが自分を見失っている状態を、
おかゆ” に例えていです。
自分の意思がなく、組織の言いなり…だから自らの大切なものは、”汁” という悪しき習慣に埋没してしまっている。
 
一方、にぎり飯は違う…にぎり飯という組織の中にあって、 握られた米粒が一粒、自分は米粒であることを主張している。 自分にしかないアイデンティしっかり守っているのです。                    
 
岡田監督率いるサッカー日本代表は、「にぎり飯型」の強いチームだ。 選手一人ひとりが使命を自覚し、攻守にわたって役割を果たした結果の、 決勝トーメン進出である。
 
勝因は我が故郷、星陵高出身の本田圭佑選手の活躍によるところが大きい。
今年1月、本田選手がチームに合流してから、それまで得点力の低かった、 チームワークにこだわるパスし戦法から、チャンスが来たら積極果敢ゴールを狙う…そんなチームに変身した。
当初心配された世界の高い壁を、選手一人ひとりが輝くことで、 ひらりと乗り越えてしまった。
決戦を前にして岡田監督は、自軍を「蝿」に例えた。
W杯に臨む選手を発表した時、岡田監督は日本の強みを 「蝿がたかるような…」表現して、 フアンは違和感を抱い… 蝿には強者のイメージはない。非力で…「せめて蜂に…」と、 本サッカー協会会長がこぼす。
 
それがどうだ!日本は一次リーグで、追っても追ってもまとわりつく蝿のごとく、 オラデンマークを追い回し、 互角に戦い、そして勝った。
相手は「不屈のライオン」の異名を持つ強豪である ちょうど、イソップ寓話のごとく 本田選手は、 オランダやロシアで苦労の末身につけた、 「勝ちを掴む個性のハーモニー」 を、 日本チーム込んだのです。
 
■以下、読売新聞「編集手帳より
アメリカンフットボールに「ショットガン」と呼ばれる戦法がある。
司令塔クオーターバックが、何人もの選手を一斉に走らせ、ロングパスを狙う。  
縦横無尽に駆け抜ける選手たちは、散弾銃の弾が飛散する様子に似て、 どの選手にボールが渡るか分からないから、守りにくい。 もたもたすれば突進してくる相手に潰される。パスの出し手と受けてが、 一瞬のタイミングを計る判断が勝負を分ける。
 
北朝鮮に7-0の大差で勝ったポルトガル…その戦い方は 「ショットガンに似て、 見ごたえがあった。

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