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彦三の大火

■記憶に残る金沢の大火
 
昭和三十年代…中学生の頃、大きな火災が頻発した。狭い路地に木造家屋
が密集する金沢にあって、いずれの火災も無風が幸いして大火を免れた。
 
○昭和2?年…兼六公園下、北陸鉄道車庫より出火。火柱と真っ黒な太い煙
          の柱が、天に向かって真っ直ぐ昇っていったのを記憶している。
○昭和31年4月…材木町小学校全焼…市内全域から立ち昇る煙が見えた。
○昭和32年5月…金沢城内・金沢大学薬学部から出火…32研究室を焼失。
 
○昭和3?年…夜半、香林坊の映画館(現、東急ホテル)から出火、全焼。
          火の粉がパラパラ、私の家の屋根に降りかかって、怖かった。 
○昭和37年7月…夜8時頃、横安江町・金沢東別院全焼…放火だった。
  物凄い火柱が真っ直ぐ天に向かい、熱波が消化活動を妨げ、燃えるに任せた。
  別院真向かいの祖母の実家の大屋根に上って、物凄い光景を見た私…
  火の粉が降りかかり、熱波で顔がチリチリしたことを記憶している。
  
30年代は、香林坊・片町・横安江商店街の全盛期。私の生れた香林坊も、
数年の間に4度も火災に見舞われた。(屋根裏伝いに12軒焼け、一人焼死)
その後、再開発近代化計画が急速に進み、アーケードビル街に生まれ変わった。
 

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 757】
「彦三の大火」

昭和2年4月21日未明、金沢市横安江町商店街の雑貨店から出た火事は、 南西強い風にあおられ、一気に勢いを増し、密集した木造家屋を次々とのみ込んだ。 くすぶった一つの火鉢が発端だった。
千人がかりでやっと消し止めたが、南北300メートル、 東西550メートの範囲え広がり、 全焼733棟、半焼15棟、 三千人が被した。
 
「彦三の大火」として、今に伝えられている。
あれから約八十年、当時を知る人はいなくなった。
「そりや怖かったよ。兄貴と二人、泣きながら震えとったがや」
福岡さん(89)が、7歳の頃のかすかな記憶をたどる。

古物商だつた父親は、火元近くの親戚宅を助けに走った。
福岡さんの自宅は被害を免れたが、火の手はすぐ近くまで迫っていた。

※クリックすると拡大して表示されます。
 
当時は「木皮(こば)ぶきの屋根が多かった。大人たちが屋根に上り、雨アラレのようにんでくる火の粉を消そうと、 懸命に水をかけていた」
大火の時、奇跡的に助かった家がある。 当時コンニャク店を営んでいた敷波さんは、隣の松立寺など三方が火に囲まれ焼失する中、土蔵も住居も無事だった。
敷波さんの家は商売柄、水の神”竜神”様を自宅のほこらに祭っていた。
 
「その時、竜神さんが家の中を走っているのが見えた」と…
今は故人の敷浪のお爺ちゃん… 「竜神さんが守ってくれた」…と、大火の後も、 竜神の参拝を欠かさなたという。
北国新聞「通りものがたり」より
 
私の祖母の実家は、横安江商店街・東別院の真向かいで、出火元からわずか100メートルしか離れていなかったにもかかわらず、 延焼を免れた。今もドッシリとしたたたずまいを残している
火元のTさんは、その後香林坊の私の家の引っ越してた。表だって後指を指す人はいなかっが、 いつ頃、 誰から聞いたのか? 私も知ようになった。
 
昭和37年、国道拡張に伴う再開発で、私の父はTさん・ Iさんと4階建店舗付を新築。Tさんは一階店舗で傘店を営んでいた。
昨年、 筑後約50年の古びたビルは、 北国新聞社に売却さ 取りされ、新しいビルに生まれ変わることになった。
                               

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