■自衛隊F104ジェット戦闘機、金沢市街に墜落
沖縄・普天間基地住民が抱き続ける恐れ…それと同じ恐ろしいことが、
今から40年前、金沢南部の静かな市街地を突然襲ったのです。
昭和44年2月8日、航空自衛隊小松基地のF104ジェット戦闘機が、
金沢市泉町の住宅密集地に墜落…静かな住宅街が、爆風と大音響
に包まれた。
「黒鉛と猛火に包まれて燃え上がる民家。ガラスや戸障子が破れ、
屋根瓦が降って来た」…当時の中日新聞夕刊は、現場の様子を
生々しく伝える。
住民4人が死亡、22人が重軽傷を負い、186戸の住宅が破壊された。
落雷が原因だが、同型機の墜落事故は、それまでに14件も発生して
いた…一部の隊員は「空飛ぶ棺桶」と呼んでいた。
中日新聞「記者コラム」
759 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「藩政期・金沢城下の大火」
藩政期の金沢城下の火災件数は69件…500戸以上焼失は19件もあった。
城下に数多く流れる用水は、繰り返される大火から城下を守るために、造られたものです。
○慶長7年(1602)10月30日…落雷で、金沢城の天守閣と
本丸焼失。
以後300年間、天守閣が再建されることはなかった。
○元和6年(1620)…金沢城・本丸屋形焼失。
○寛永8年(1631)4月14日、朝から南西の風が強く、
何となく不穏な空気に満ちていたが、巳の刻頃、
法船寺の
民家から出火。寺に燃え移り、風にあおられて、
河原町から
犀川、片町、香林坊、そして城内へ…市中心部を焼き払い、
金屋町で止まった。城内の大きな建物は、翌朝まで燃え続
けた。
焼失一万戸、原因は放火だった。この後藩は防火のため、
辰巳用水を造った。
○寛永12年(1635)5月9日、河原町より出火。
片町、香林坊、南町、堤町、尾張町と、
中心部を総なめに
して、新町、寺町から田井口へ押し回し、浅野川の下屋敷は
ことごとく焼失、一万戸に達した。
○延宝4年(1676)2月19日、木新保から出火…
古道町に飛火。六枚町、
安江町にかけて1300余戸焼失。
○元禄3年(1690)2月24日辰巳刻、田井村より出火…
313戸焼失。
3月16日、竪町より出火…900戸焼失。
翌3月17日辰刻、左近橋の医師宅より出火。
北の町端、大樋まで6,639戸焼失。
翌18日ようやく鎮火…56の橋が焼け落ちた。
○享保18年(1733)4月26日昼9つ、伝馬町より出火…
河原町、大工町、十三間町など795戸焼失。
三日後の4月29日寺町から出火…
野町、遊郭のある石坂、千日町など537戸焼失。
○宝暦9年(1759)4月10日午後4時、泉野の寺から出火…
寺町・野町・野田の寺院を総なめにして、
犀川以北に飛び火。
片町、竪町、新竪、
柿木台の侍屋敷から金沢城へ延焼。
石引から材木町を抜け、尾張町、彦三、
博労町を焼き、
浅野川をへて森下町から森本、金屋町、高道町へと総なめ
にした。
城内は本丸、二の丸、三の丸、大手門、坂下門などことごとく
焼失。10,508戸、橋29、番所27、木戸61、
焼死者26》…
空前の大火になった。
○天保6年(1835)3月11日、彦三から出火…
横安江町、中島町、堀川笠市町、乙丸にかけて2,939戸、
寺院6棟が焼失した。
寛政11年(1799)には、大地震に見舞われ、享保16年
(1731)、天文元年(1736)、安政2年
(1855)にも、
大火に見舞われている。
その都度”加賀鳶”が勇ましく活躍した…が、延焼を防ぐのが精一杯だった。
前号の748戸全半焼した「彦三の大火」は…昭和2年4月21日。
藩政期の大火の多くも、 2月~5月の間に発生していて、
4月が最も多かった。
今年の四月は寒暖が激しく、異常気象が続いたが、
金沢の四月はフエーン現象が発生して、突風がひんぱんに起きる…
過去の大火発生の時期と合致するのです。