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2010年04月 アーカイブ

2010年04月02日

チュニジア紀行(3)

■エル・ジェムのコロセウム

 

6日目、首都チェニスの南2百キロ
の町エル・ジェムへ…
3万5千人収容の世界遺産・コロセ
ウムを見学した。
ローマのそれに匹敵する、巨大な
円形闘技場…
ローマのように、床が抜け落ちては
なく、保存度が良い…
地階の猛獣の檻も見学した。
  
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【吉村外喜雄のなんだかんだ - 751】
チュニジア紀行(3)「原住民ベルベル人の穴居住宅」

チュニジア観光五日目は、サハラから、 内陸部の山岳地帯マトマタへ…北アフリカの先住民族ベルベル人は、12世紀頃、アラブ・ イスラムの過激なベドウィン族に追われて山岳地帯に逃れ、住み着いた。
彼らの住居は、とても不思議…山の斜面に穴を穿った「穴居住宅」に暮らしている。
最初の頃は、敵から身を隠すために掘られたという。
10メートルほどの高さの丘の斜面に、横穴を掘り、玄関の出入り口が作られる。 二人が並んで歩けるほどの、 S字に折れ曲がったトンネルを、奥深く7~8メートル抜けると、 20畳くらい中庭に出る。中庭は写真のように、 丘のてっぺんかクレーターのように掘り下げていって、 先に掘られた横穴につながる

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その中庭の四方に居間、台所、寝室など、8畳くらいの大きさの洞穴が掘られて、 配置されている。
砂漠地帯の洞穴…夏は強い日差しを避けて涼しく、 冬は保湿性にすぐれ温かい。 雨の少ない乾燥地帯ゆえ、湿気やカビに悩まされることもない… 想像以上に快なのだ。 写真の住居には、 2世帯・子ども、合わせて14人が暮らしているという。
玄関脇のボックスを覗いたら、水道メーターがあった。電気は引かれてなく、ランプ暮らし。テレビも洗濯機も家具調度も、何もない質素な暮らし。一キロ下れば、 21世紀の今様に暮らせる村があり、その気になればいつでも移住できるのに…山の斜面のあちこちに、 穴居住宅が在しているのが見える
もう一つのタイプの住居は、土をこねたレンガのカマボコ型住居。 カマボコを幾くっつけて一戸の住居になっている。
その光景は"異星的"…ハリウッド映画「スター・ ォーズ」 の舞台になったことで知られる。

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5日目の夜は、ベルベル人の洞穴住居を改造したホテル「シディ・ドリス」 に宿泊 「エピソード4のラーズ家」になったことで、有名になったホテルです。 その日は北風が強く、気温は出発時の日本と同じくらい…寒く・冷たい風が、 肌た。

教育は家庭から

■政治に期待が持てるか…
 
3月31日の読売朝刊… 二つのニュースが一面のトップを飾った
一つは、亀井郵政改革相が悲願とする「郵政改革法案」が、鳩山
総理の決断で了承したこと。
もう一つは、小学校教育の根幹「ゆとり教育」との決別。教科書の
ページ数を一気に40%増量…低下した学力の向上が目的とか。
 
政治(歴史)の揺り戻しである。十年くらい前に、それまでのヒズミ
問題を改革しようと、国会で可決し実行したことが、ここに来て、
元に戻そうというのです…。
何が良くて、何がよくないのか?…私たちにはよく分からない。
政治が決定する施策に、”風にそよく葦”のごとく右往左往するだけ。
 
今後世の中、更に暮らしにくくなるだろう…21世紀半ばになって、
国に、国民の幸せを守るエネルギーが残っているだろうか? 
国の財源不足が問題になる中、次々可決されるマニフェスト法案。
参議院選挙の票集めが本音だとしたら?…国民はやりきれない。
 
 
752  【心と体の健康情報】
~子育て~ 「教育は家庭から」
                        
終戦直後、食べることがままならない時代に育ち、 ひたすら豊かさを求めて、懸命に働いてきた私たちの世代…日本の歴史をひもどき、今ほど幸福満ちた時代はない。
 
しかし、現実に目を向けると、社会が抱える問題に”自殺といじめ”がある。
2009年まで12年連続、年間の自殺者が3万人を超えている。 今に生きることが決して幸せではないことを、数字が示しているのです。
 
何故なんでしょう? 家族は気付かなかったのでしょうか?  
会社の上司や同僚、学校の先生や同級生… 手を差し延べられなかったでしょうか?
 
親は、一日に何度も子どもの顔を見ている…会話はなくても、 いじめに合っていれば顔に出ているはず…家族も、学校も、会社も…コミュニケーションが不足しるのでしょうか? 
 
少し前の時代、私たちの子どもの頃は、家族や親戚との結びつきが強く、 との触れ合いは、 今よりずっと強かったように思う。 親に言えない悩みがあっても、 おじさんやおばさん、近所のだれかに相談できた。
 
「人と人、お互いを大切にして初めて人間になる」という意味の”人間” とい言葉… この素晴らしい日本語が失われようとしている。
古来日本人は、自分のことしか考えない「利己的」な人間よりも、家族を大切にし、社会の交わりを第一に考える「和」の精神を、 何より大切にする民族でした。
 
学校教育の現場では、お役立ちになることの大切さや、 人間愛の重要性を教えているでしょうが…
ひたすら学力を高めて、良い高校良い大学に入ることのみを目的に、勉強させていないだろうか。
 
近年、日本の学童の学力が後退しているとはいえ、日本の教育・ 学力は世界のトップクラスです。
より良い人間を育て、社会に送り出すことを育の主眼にすべきでしょう… 苦しんでいる人、自分より弱い人間、貧しい人を助け人間を育て、友愛の精神を育んでいきたいものです。
 
子どもの頃、父は「お米一粒でも粗末にしてはならない」 と厳しく教えた。 母は、 「おはようございます」「おやすみなさい」の挨拶、 脱いだ着物を畳むことど、身の回りへの気配りを教えた。
 
教育を学校任せにするのではなく、 家庭内での躾けが大切なことを忘れてはなない。フランシスコ・ザビエルやペルーが見た日本人…正直で、礼節を尊び、 質素倹約に努め、よく働き、勉学に励む…今こそ、 本来の日本人をとり戻すときが来たです。
                  カソリック教会大司教/ヨゼフ・ピタウ「教育と信仰」
 

2010年04月07日

チュニジア紀行(4)

 

日本には馴染みの薄いチュニジア。
アルジェリアとリビアに挟まれた北ア
フリカの小国です。
人口一千万人、国土は日本の43%
地中海に面した沿岸部は、ヨットク
ラブやゴルフ場、五つ星のホテルが
連なり、ヨーロッパの保養地として
にぎわいを見せている。
ダイバーには絶好のポイントもあり、
次に訪れるときは、チェニスの街を
自転車で散策し、ダイビングやゴル
フも楽しみたいものです。
  
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【吉村外喜雄のなんだかんだ - 753】
チュニジア紀行(4)「チュニジアン・ブルー」

チュニジアの街並みは、白亜の壁に青い扉・青い窓に彩られていて美しい。
9日目は、首都チュニスの郊外、岬の高台に、美しいたたずまいを見せる町、 シティブ・サイドを散策した… 西欧風の美しい街並みが、丘の上へと続く。

チュニジア1 チュニジア2 チュニジア3
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道沿いには、白と青に彩られた外壁のしゃれたカフェが、 アラブの雰囲気を漂わせる。 ショップの店先には、陶器や香水瓶が並び、 店内で土産物を物色するのが楽しい。
名産の手造りの鳥かごや、工芸品を手に取りながら、石畳の坂道を歩く…。

チュニジア4 チュニジア4 チュニジア6
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2010年04月08日

安岡正篤・海老の話

■「蟹変の哲学」
 
21歳の春、16歳の時患った病が再発…隔離病棟に入れられ、
面会謝絶…見舞い来る人もなく、毎日おとなしく寝ているだけ…
有り余る時間…本を読み、ラジオを聞き、囲碁や手相を学んだ。
 
暇を持て余し、手当たり次第に何でも読んだ…経営書や心理学の
本も読んだ。
その一冊に「蟹変の哲学」というのがあった。”蟹変”とは、カニが
脱皮して成長していくさまをいう。脱皮を重ねるたびに大きく成長
していく。
人生の土台をつくるには大切な青年期…いつ癒えるともしれない
長期療養生活。生きる方向・人生の目標を見失いかけていた…
そんな頃に出会ったのが「蟹変の哲学」です。
 
病が癒え、同年代より7年遅れで社会人に…以後、蟹変の哲学は
私の心の支えに…私の座右の銘になり、行動規範になった。
 
 
754  【心と体の健康情報】  
~幸せな人生~ 「安岡正篤・海老の話」
 
以下、小野晋也著「日本人の使命」からの抜粋です。
 
人間としての深い生き方・考え方というものを、追い求めればこそ、常にそこに”脱皮” が生まれる。脱皮といえば、安岡正篤先生がよく例に取り上げた 「海老の話」がある
結婚式などのお祝いの席に出ると、そこには必ずといっていいほど、 海老が並べられている。安岡先生は不思議に思い、何人かの人に聞いてみた。
 
一説は「海老というのは高級な食材であり、 日頃たやすく食べられるものではないから、お祝いの席で出されるようになった」と答える人。
次に「海老というのは、煮るとクルッと腰が曲がる。 つまり腰が曲がるまで長く添い遂げてほしい…そんな願いと、お祝いの心がこもった料理」というのが一説。
 
だが先生…どうも納得がいかない。
ある時、日本海側のある漁村を旅したとき、 そこの漁師がこんな話をした。
「海老というのは、毎年時期が来ると必ず脱皮して、新しい殻をまとうんですよ」。それで、ハッと分かったのだそうです。 つまり、人間が成長し続ける一つの前提は「常に新鮮であること」
そして、その天地自然の理に従って生きていこうとするならば、 常に自ら脱皮し続けことが大事」なのだ… ということです。
 
殻というものは、外から見ればわが身を守るために役立つものであるけれども、 中の方から見ると、体の成長の邪魔をする。
だから、成長するにつれて、よりきな殻にしていかなければ、大きくなれないのです。それが「脱皮」 という作業のです。
 
人生というのは、自分の固まった殻の中に、いつまでも身を置くのではなくて、 殻を破りながら成長していくことを、いつも心がけていればこそ、 人間は健やかに生きられるのです。
 
■安岡正篤先生のことば
 あるがままの己に満足するか、  或いは己により高い要求を架せずにおれぬか… そこに”凡と非凡”との区別がある。非凡な人間ほど己に満で、 より高いものを求めずにおれぬものだからである
 
 
※安岡正篤(やすおか まさひろ)
東洋政治哲学・人間学の権威。陽明学者として政財界、陸海軍関係者に広く知られ、東洋思想の研究と、後進の育成に従事。 国民各層から財界リーダーまで、啓発・教化につとめ、歴代の首相から諮問を受く。昭和五十八年逝去。

2010年04月09日

落語・寝床

■「全日本落語選手権大会」
 
昨年9月東京で「全日本学生落語選手権大会」が開催された。
全国の大学・落語研究会から193名が出場し、8名が予選を
通過して決勝に進出…大学落語日本一を競った。
 
審査委員長は、上方落語協会会長・桂三枝師匠。審査の結果、
創作落語「動物園」を演じた、大阪大学の銀杏亭魚折(ぎんな
んてい うおーり)・青山知弘さんが、頂点の最優秀賞に輝いた。
:
惜しくも賞を逃した7人の演目は、今日紹介する「寝床」の他、
「長短」「飴屋問答」「初天神」「だくだく(ブログ645)」など…
 
創作落語にチャレンジしたのは二人…その一人は、トルコの
留学生で、日本語の難しい駄じゃれを連発しての大熱演だった。
決勝進出8名のうち二人は女性で、8名何れも、プロとして高座
に上ってもおかしくない、実力の持ち主ばかりでした。
 
 
 
755 「吉村外喜雄のなんだかんだ」 
~ことば遊び~ 「落語・寝床」
 
取引先の温泉一泊招待会で、宴会の後二次会会場へ…
ところが、マイクを離さないおじさんがいて、 下手なカラオケに無理やり付き合わされる羽目に…興ざす。
 
♪ある大家の旦那もそんな類の一人で、直ぐ他人に”義太夫”を語りたがる… あまりにも下手なので、誰も聞きに来ない。
だったら、ご馳走を用意してご機嫌をとろうと、 いろいろ準備してから、店の者を長屋に呼びに行かせたが…
 
ちょうちん屋は開業式の注文がどっさり入って、手が離せない…金物屋は、 寄りい…小間物屋は、おかみさんが臨月… 豆腐屋は、ガンモドキと厚揚げを120も作ていて大忙し…鳶の頭は、翌朝早く成田に行かなければならない…
 
以前には、旦那の義太夫で失神した人や、 他所へ引っ越してしまった人もいたというから…必死で断ってくる。
「で…早い話…誰がくるんだ」 
『その~誰というのは来ないんで…』
長屋の者がダメなら仕方がない…
店の者に聞かせようと言い出す旦那。
ところが、店の者もそれぞれ二日酔い、脚気、胃ケイレン、神経痛、眼病と、 仮病を使って、出て来ようとしない。
 
いくら察しの悪い旦那でも、さすがに気がついた。
「わかった! 義太夫が聞きたくないから、みんなで逃げてるんだ。 そんなら義太夫はやめだ…その代わり、長屋一軒残らず追い出し、店の者は全員クビだ」 と言って不貞寝してしまった。
追い出されるとなると穏やかではない。店の者が長屋をもう一回りして、 店子を連きた。
 
『ええ…旦那、長屋の皆さんが義太夫を聞きたいと、集まっていらっしゃいますが…』
なだめたり、すかしたりしているうち、だんだん機嫌が直り、しまいには…
「それほど聞きたいなら…みっちり語ろう」
と、すっかりヤル気に…まるで子どもだ。
 
長屋の連中…仕方なく、料理や酒を慰めにして我慢している…旦那は大熱演。
しばらくすると、客席が静かになった…感じ入って聞いているのかと見ると、 どいつこいつも、酒が回って寝ている。
 
またもやカンカンに怒りだす旦那。
ところが…おや、このさなかに、一人だけ泣いている奴がいるな…
「おお定吉か…お前は見込みがあるぞ…義太夫のどこが悲しかったんだ?」
旦那が尋ねると定吉、今しがた、旦那が義太夫を語っていた床を指差して、
『あそこでございます』 「あそこ? あそこの何が悲しいのだ?」 
 
『あそこは…私の寝床なんでございます』

2010年04月16日

自ら作ってしまう”限界”

■渡邉美樹「目的のある人生」                                                                                    夢でなくてもいいのですが、 何か”大いなるもの”、あるいは” 自分の                                                                       手が届きそうもないもの” を求めて、一生懸命努力を重ねていくことは、                                                                      人間にとってとても大切なことだと思います。                                                                                                     

その努力のプロセスのなかで、人間として磨かれ、 成長していくことが                                                                      できる。  あるいは、沢山の人から「あなたがいてくれてよかった、 あり                                                                      がとう」 と感謝される…そこに、人間に生まれてきた目的があり、 幸せが                                                                     あるのではないでしょうか。

夢を持って、懸命に努力してたどり着くゴールを持つことは、 人間として                                                                     素晴らしいことです。 努力する人と努力しない人との差は、 夢を持って                                                                      いるかいないかの違いではないでしょうか。

私は、いつも”夢を二つ”持つようにしています。                                                                                     一つは、 今自分が向かっている夢です。そして、夢を成し遂げて「ああ、                                                                      よくやった」 という達成感をビジュアル化する。もう一つは、 達成した瞬                                                                               間に、 次の夢に向かって新たにスタートする自分です。 

                    「理念と経営1月号・巻頭対談」 より                                 

 

756  【心と体の健康情報】                                                                ~幸せな人生~ 「自ら作ってしまう”限界”」                                                                 

「あなたの病気には治療法はありません」…そう宣告されたらあなたは何を思い、どうするでしょうか?                                                                                                            東大法学部に入学して一ヶ月。 弁護士になる夢に向かって走り出した、内藤佐和子さん25歳を待っていたのは、” 多発性硬化症”という、1万人に1人の難病でした。                                                                   神経を覆う被膜が傷つき、 神経がむき出しになる…身体のどこで、いつ発症するか予測のできない難病に侵されたのです。

”笑点”のメンバーの1人だった、落語家の林家こん平さんが闘っているのもこの病気だ。内藤さんは、 医師から法律家への道を断念するようにと忠告された。                                                                     病気を憎んだ時期もあった。 それでも、持ち前の前向きな性格は変わらなかった。

様々な学生団体の活動に参加した。ビジネスプランコンテストに優勝して、100万円の賞金を獲得した。 自らの体験を著して出版…2008年”出版甲子園”に入賞。                                                                   昨年十月には 「難病大学生」を著し、出版している。

手足がしびれ、視野が狭くなる症状が何度か起きた。対症療法のステロイド点滴を10回くらい受けた。 朝目覚めると、体が動かないかもしれないという恐怖心がつきまとう。 それでも「難病になる前より充実した人生を送っている…と断言できる」 と自書に書いている。

最近になって、インターネットの検索サービス会社を立ち上げた… 収益の八割を難病の研究に寄付するという。医療技術の進歩を待って病気を治し、「弁護士になりたい」という夢を捨てていない。「限界の壁は、 自らつくってしまうものである」ことを教えられた。                                                                                       中日新聞『中日春秋」                                                                                                                                                                                                               

                ***************************************

二十代の初め、いつ治るとも知れない病に掛かり、 無期懲役刑の囚人のような闘病生活を体験した。その数年後に、アメリカで新薬が開発された… お陰でみるみる回復…自宅療養の後、 28歳の時社会復帰した。                                                                                 

アメリカで新薬が開発されなかったら…開発が十年遅れていたら、30歳まで生きられたかどうか?                                                                                                   難病を患い、 死と向き合う体験があったからこそ…その後の人生…人の何倍も幸福で、 何事があってもプラス思考で受け止められるようになった… 病のお蔭で真の幸福を知ったのです 「人間万事塞翁が馬」です。

2010年04月19日

彦三の大火

■記憶に残る金沢の大火
 
昭和三十年代…中学生の頃、大きな火災が頻発した。狭い路地に木造家屋
が密集する金沢にあって、いずれの火災も無風が幸いして大火を免れた。
 
○昭和2?年…兼六公園下、北陸鉄道車庫より出火。火柱と真っ黒な太い煙
          の柱が、天に向かって真っ直ぐ昇っていったのを記憶している。
○昭和31年4月…材木町小学校全焼…市内全域から立ち昇る煙が見えた。
○昭和32年5月…金沢城内・金沢大学薬学部から出火…32研究室を焼失。
 
○昭和3?年…夜半、香林坊の映画館(現、東急ホテル)から出火、全焼。
          火の粉がパラパラ、私の家の屋根に降りかかって、怖かった。 
○昭和37年7月…夜8時頃、横安江町・金沢東別院全焼…放火だった。
  物凄い火柱が真っ直ぐ天に向かい、熱波が消化活動を妨げ、燃えるに任せた。
  別院真向かいの祖母の実家の大屋根に上って、物凄い光景を見た私…
  火の粉が降りかかり、熱波で顔がチリチリしたことを記憶している。
  
30年代は、香林坊・片町・横安江商店街の全盛期。私の生れた香林坊も、
数年の間に4度も火災に見舞われた。(屋根裏伝いに12軒焼け、一人焼死)
その後、再開発近代化計画が急速に進み、アーケードビル街に生まれ変わった。
 

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 757】
「彦三の大火」

昭和2年4月21日未明、金沢市横安江町商店街の雑貨店から出た火事は、 南西強い風にあおられ、一気に勢いを増し、密集した木造家屋を次々とのみ込んだ。 くすぶった一つの火鉢が発端だった。
千人がかりでやっと消し止めたが、南北300メートル、 東西550メートの範囲え広がり、 全焼733棟、半焼15棟、 三千人が被した。
 
「彦三の大火」として、今に伝えられている。
あれから約八十年、当時を知る人はいなくなった。
「そりや怖かったよ。兄貴と二人、泣きながら震えとったがや」
福岡さん(89)が、7歳の頃のかすかな記憶をたどる。

古物商だつた父親は、火元近くの親戚宅を助けに走った。
福岡さんの自宅は被害を免れたが、火の手はすぐ近くまで迫っていた。

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当時は「木皮(こば)ぶきの屋根が多かった。大人たちが屋根に上り、雨アラレのようにんでくる火の粉を消そうと、 懸命に水をかけていた」
大火の時、奇跡的に助かった家がある。 当時コンニャク店を営んでいた敷波さんは、隣の松立寺など三方が火に囲まれ焼失する中、土蔵も住居も無事だった。
敷波さんの家は商売柄、水の神”竜神”様を自宅のほこらに祭っていた。
 
「その時、竜神さんが家の中を走っているのが見えた」と…
今は故人の敷浪のお爺ちゃん… 「竜神さんが守ってくれた」…と、大火の後も、 竜神の参拝を欠かさなたという。
北国新聞「通りものがたり」より
 
私の祖母の実家は、横安江商店街・東別院の真向かいで、出火元からわずか100メートルしか離れていなかったにもかかわらず、 延焼を免れた。今もドッシリとしたたたずまいを残している
火元のTさんは、その後香林坊の私の家の引っ越してた。表だって後指を指す人はいなかっが、 いつ頃、 誰から聞いたのか? 私も知ようになった。
 
昭和37年、国道拡張に伴う再開発で、私の父はTさん・ Iさんと4階建店舗付を新築。Tさんは一階店舗で傘店を営んでいた。
昨年、 筑後約50年の古びたビルは、 北国新聞社に売却さ 取りされ、新しいビルに生まれ変わることになった。
                               

2010年04月22日

日本人の食生活と病気

■「補完代替医療」に取り組む金沢大学
 
今、医学会は、従来の「対症療法」一辺倒の考え方から、より副作用の
少ない「生薬」や「漢方」を併用した「予防医学」に注目している。
金沢大学では、全国の大学に先がけて、古くから伝えられてきた生薬
やアガリクスなどの、天然素材の研究に取り組んでいる。
 
◇金沢大学大学院”鈴木信孝”教授(日本補完代替医療学会理事長)
 アメリカでは、天然素材の疾病予防への応用・研究に、多額の国家
  予算が充てられている。長い時間をかけて、信頼性と安全性を厳し
  くチェックし、予防剤の開発に取り組んでいます。
 
◇金沢大学大学院”大野 智”教授
 私はもともと消火器外科医で、ガン患者と接する機会が多く、患者の
  9割近くが医師に相談なく、サプリメントやはり治療を行っているのを
  見てきました。
 2002年、金沢大学に日本で初めて”補完代替医療”の研究講座が
  開設されたのを機会に、効果についての実態調査を行っています。
  
758  【心と体の健康情報】 
~食と健康~  「日本人の食生活と病気
 
今から五十年くらい前の日本には、「成人病」という言葉はなかった。
今は、小学校の学童検診に糖尿病の検査があるご時世。
肥満児の増加で、脳血障害、 肝臓病など、本来大人の病気のはずのものが、 子供たちにも見らるよになったのです。
 
50年前、こうした病は「老人病」だった。それが 「成人病」と言われるなり、今では「生活習慣病」 と名前を変えざるを得なくなったのです。
日本人の食生活が、この50年の間に「和」から「洋」に大きく変化したことが、 その原因です。
「ご飯は残してもいい、 オカズしっかり食べなさい」と、飽食の時代に育った子供たち…毎日牛乳を飲むことを奨励されて育った世代だ。
 
国連の調査では、牛乳の消費量の多い国は、結腸ガンや直腸ガン、 乳ガンや肺ガンの死亡率が高いと警告している。
以前は、アメリカも牛乳を奨励していた。現在では、週2~3回が適当と指導している。
 
牛乳の例にあるように、日本での間違った考え方が、 医学が飛躍的に進歩していく中にあって、アトピーアレルギー患者を増大させ、 動脈硬化に絡む心臓病、害、癌などの生活習慣病の増加を招いているのです。
 
食生活を改善するには、ご飯を中心とした「5:2:1」 の食生活に改めるのが理想と言われている。
全体を”8”としたら65%の”5”は「穀物」を食べる… 出来れば未精物がいい。 ”2”の25%は「野菜や海草」、 そして”1”は「魚貝類」 を摂る。これは今から25年も前、 アメリカの「マクバガン報告」に書かれている文章です。
 
1960年代のアメリカ…国民1人当たりの医療費は、世界一だった。
平均寿命は世界26位…このままではアメリカは破滅する…と、上院の栄養問題特別委員会は、 世界から学者を集めて、 食事と健康の調査をした。そして1977年、5千ページに及ぶ膨大な調査結果、 「マクバガン報告」を発表したのです。
 
「癌や心臓病の増加は、誤まった食生活による」と発表。
「肉・卵・乳製品・砂糖」などの摂取を控え、「穀物を中心とした食事」に改めるよう提案している。 そして報告書は、 味噌豆腐などの日本食を高く評価しているのです。
 
現在のアメリカ…マクバガン報告が功を奏して、食生活の改善が進み、 生活習慣病が減少傾向にあるという
 
一方の日本…共働きによる専業主婦の減少などで、手のかかる和食が嫌われ、 食卓はハンバガー、 クリームシチュー、オムレツ、鳥のから揚げなど、 一昔前のアメリカのような、 タンパク、 高脂肪食事が中心になり、 生活習慣病の根源である、 肥満・メタボが国民的話題になっている。
その結果、ガン・糖尿病・肝臓障害・高血圧に悩む人が右肩上がりに増えているのです
 
日本が世界一の長寿国を維持しているのは、70歳代以上の世代の、 和食を中心とした、 いたって質素な食生活によるもので、 平均寿命を飛躍的に押し上げていとを忘れてはならない。

2010年04月26日

藩政期・金沢城下の大火

■自衛隊F104ジェット戦闘機、金沢市街に墜落
 
沖縄・普天間基地住民が抱き続ける恐れ…それと同じ恐ろしいことが、
今から40年前、金沢南部の静かな市街地を突然襲ったのです。
 
昭和44年2月8日、航空自衛隊小松基地のF104ジェット戦闘機が、
金沢市泉町の住宅密集地に墜落…静かな住宅街が、爆風と大音響
に包まれた。
「黒鉛と猛火に包まれて燃え上がる民家。ガラスや戸障子が破れ、
屋根瓦が降って来た」…当時の中日新聞夕刊は、現場の様子を
生々しく伝える。
住民4人が死亡、22人が重軽傷を負い、186戸の住宅が破壊された。
落雷が原因だが、同型機の墜落事故は、それまでに14件も発生して
いた…一部の隊員は「空飛ぶ棺桶」と呼んでいた。
                           中日新聞「記者コラム」
 
759 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「藩政期・金沢城下の大火」
 
藩政期の金沢城下の火災件数は69件…500戸以上焼失は19件もあった。 城下に数多くれる用水は、繰り返される大火から城下を守るために、造られたものです。
 
○慶長7年(1602)10月30日…落雷で、金沢城の天守閣と
 本丸焼失。
 以後300年間、天守閣が再建されることはなかった。
○元和6年(1620)…金沢城・本丸屋形焼失。
 
○寛永8年(1631)4月14日、朝から南西の風が強く、
 何となく不穏な空気に満ちていたが、巳の刻頃、 法船寺の
 民家から出火。寺に燃え移り、風にあおられて、 河原町から
 犀川、片町、香林坊、そして城内へ…市中心部を焼き払い、
 金屋町で止まった。城内の大きな建物は、翌朝まで燃え続
 けた。
 焼失一万戸、原因は放火だった。この後藩は防火のため、
 辰巳用水を造った。
 
○寛永12年(1635)5月9日、河原町より出火。
 片町、香林坊、南町、堤町、尾張町と、 中心部を総なめに
 して、新町、寺町から田井口へ押し回し、浅野川の下屋敷は
 ことごとく焼失、一万戸に達した。 
 
○延宝4年(1676)2月19日、木新保から出火…
 古道町に飛火。六枚町、 安江町にかけて1300余戸焼失。
 
○元禄3年(1690)2月24日辰巳刻、田井村より出火…
 313戸焼失。
 3月16日、竪町より出火…900戸焼失。
 翌3月17日辰刻、左近橋の医師宅より出火。
 北の町端、大樋まで6,639焼失。
 翌18日ようやく鎮火…56の橋が焼け落ちた。
            
○享保18年(1733)4月26日昼9つ、伝馬町より出火…
 河原町、大工町、十三間町など795戸焼失。
 三日後の4月29日寺町から出火…
 野町、遊郭のある石坂、千日町など537戸焼失。
 
○宝暦9年(1759)4月10日午後4時、泉野の寺から出火…
 寺町・野町・野田の寺院を総なめにして、 犀川以北に飛び火。
 片町、竪町、新竪、 柿木台の侍屋敷から金沢城へ延焼。
 石引から材木町を抜け、尾張町、彦三、 博労町を焼き、
 浅野川をへて森下町から森本、金屋町、高道町へと総なめ
 にした。
 城内は本丸、二の丸、三の丸、大手門、坂下門などことごとく
 焼失。10,508戸、橋29、番所27、木戸61、 焼死者26》…
 空前の大火になった。
 
○天保6年(1835)3月11日、彦三から出火…
 横安江町、中島町、堀川笠市町、乙丸にかけて2,939戸、
 寺院6棟が焼失した。
 
寛政11年(1799)には、大地震に見舞われ、享保16年
(1731)、天文元年(1736)、安政2年 (1855)にも、
大火に見舞われている。
その都度”加賀鳶”が勇ましく活躍した…が、延焼を防ぐのが精一杯だった。
前号の748戸全半焼した「彦三の大火」は…昭和2年4月21日。 藩政期の大火の多くも、 2月~5月の間に発生していて、 4月が最も多かった。
今年の四月は寒暖が激しく、異常気象が続いたが、 金沢の四月はフエーン現象が発生して、突風がひんぱんに起きる… 過去の大火発生の時期合致するのです。

2010年04月28日

拍手の文化

■ 無垢な”気”

T氏が帰宅のため、電車に乗った時のことです。
車内は…皆疲れきった表情で、よどんだ空気が漂っていました。
次の駅で、赤ちゃんを抱いた母親が乗ってきました。

年配の婦人が腰を浮かせ席を譲ると、母親が「すみません」と言って
腰掛けました。その時、婦人が赤ちゃんを覗き込んで「いくちゅですか」
と尋ねた。その際、婦人の見せた穏やかな表情に、乗客はなごんだ。
笑顔で話しかけられた赤ちゃん…次に新聞を読んでいた男性のコート
に手を伸ばしました。母親が再び「すみません」と謝ると、今度は男性
が赤ちゃんに、ニッコリ微笑み返しました。

 停滞した車内の空気は、一瞬にして和やかなものに変わりました。
赤ちゃんの無垢な”気”が、疲れた大人たちの心を緩ませたのです。

                                                    職場の教養


【心と体の健康情報 - 760】
~食と健康~ 「拍手の文化」

オペラやクラシック・コンサートを鑑賞する際、 出演者が登場した時や演奏終了直後に拍手をするのは、観客の大切なマナーです。
さらに、すべての演奏が終了した時には、観客総立ちになり、 会場割れんばかの盛大な拍手をして、 感動・感謝の心を指揮者や演奏者に伝えます。
 
コンサート終了と同時に、観客はアンコールを求めて、かなり長時間拍手をします。 すると幕間から、退出した指揮者がおもむろに現れ、深々とお辞儀をして、 サービスに1曲演奏して、観衆の期待に応えたりします。
 
なんども幕間に退いたり、現れたり…その間、席を立って帰る者はなく、 延々と拍手は続く…手が痛くなり、だゆくなってくる…5~6回入退出が続き、 ようやく観客が納得?…終宴と相成る… こんなにもったいぶらなくてもいいのに…と思うですが。
 
先週金曜日、東京・帝国劇場ミュージカル「レベッカ」のS席買求め、妻と2人で観賞した。
 
「誰がレベッカを殺したのか?」大荘園に渦巻くゴシップ・サスペンスです。
アルフレッド・ヒチコック監督の名作として知られる…
 
恋愛サスペンスがミュージカルになった…好評との噂が、都会から離れた私の耳に…
 
いよいよ大楕円…レベッカの死の真相が明らかになって、興奮冷めやらぬ中…終演…
鳴り止まぬ拍手…繰り返されるカーテンコール。

※クリックすると拡大表示されます。
 
芝居観劇の醍醐味…舞台俳優と観客席がしだいに一つなって、余韻が感動にって広がいく。今回のミュージカルは勿論、終了後のカーコールも最高に素晴らしかた。
 
明治以前の日本…拍手は主に、神社を参拝する際に叩かれるものでした。 手のひらを合わせて鳴らすことで、神様に感謝の心を表現し、 願いをかなえてもらうたに、神様を呼び起こす行為と捉えられてきた。
 
江戸時代、能楽や歌舞伎などを観賞するとき、音を立てることは作法に反した。 今日のような、拍手をする習慣はなかった。
明治以降、西洋の人が日本の劇場で、観劇後のマナーとして拍手をしているの
に倣い、 しだいに日本人も拍手をするようになり、習わしになっていったのです。
 
感動や感謝の気持ちを、相手に伝える手段として、 また相手への心配りとして、心を込めて拍手をするのは大変大切な行為です。
職場の教養

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