■「威興差使(ハムフンチャサ)」
李朝を創建した李成桂、息子たちの醜い争いに嫌気をさし、威興に隠居してしまった。
抗争の末に太宗となった五男の芳遠(バンウォン)は、親孝行を国民に印象付けるため、父を都に戻そうとし、幾度も”差使(勅使)”
使わしたが、太祖は固く拒んだ。
使わされた差使は皆、太祖に殺されてしてしまった…五男・太宗への憎悪の念が、それほどに強かったのです。
それ以降韓国では、「家出して再び戻らない人」を指して、「威興差使」と言うようになった。この言葉、
今日でも日常用語に使われているのです。
李朝には、庶民の請願や上訴を受ける役所がある。解決困難な時は、王城の外に設置した内楼に太鼓が掛けてあって、
訴訟を訴える者がこの太鼓を鳴らすと、国王が直々その訴えを聞き、事を処理した…過去に汚点を抱える太宗の発案で設けられたのです。
後世の史家は、その事をもって名君と記しているが、兄弟を虐殺した史実には口をつぐんだままである。
崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」
741 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「李氏朝鮮五百年・3代太宗まで」
韓国の歴史…血で血を洗うし烈な権力抗争を繰り返し、権力の座を手に入れると、
暴虐の限りを尽くし、
法は権力者によって好き勝手に用いられた。
権力の座を奪い合う韓国の歴史は、凄惨を極めた。
民衆は搾取の対象でしかなく、 韓国の歴史を知れば知るほど、
おぞましい過去が浮かび上がってくるのです。
国盗りに成功した李成桂…中国の醜く腐敗した政治文化を模倣して、
国造りをしたため、創建当初から、血で血を洗う骨肉の争いを繰り返すことになった。
李氏朝鮮は、現在の北朝鮮に驚くほど似ている。
旧ソ連や中国の社会主義権力者は、美しい建て前で権力を正当化してきた…その陰に隠れて、
一族一派が私利私欲に走り、勝手放題をやった。
現在の北朝鮮は、そのような体質を受継いだ、最もおぞましい国だろう。
鎖国・攘夷政策を徹底…多くの民衆が飢餓に苦しみ、 国境を越える危険を冒して食糧を求める。
逮捕されれば、大衆の前で処刑され、李朝時代の身分制度はそのまま、民衆に人権はなく、居住・
転居の自由も、旅行を楽しむ自由もない。
社会主義の衣をまとった李氏朝鮮そのものなのです。
李朝を創建した李成桂には八人の王子がいた。最初、忠臣たちに諮って、
七番目の子バンボンを世継に決めたが、
舌も乾かぬうちに、末子のバンソクを世子に改めた…この決定を巡って、王子たちの間でし烈な内紛が生じたのです。
不満が爆発した五番目の子バンウォンは、偽りのデマを流して、
政権の中枢にいた建国の功労者たちを一挙に殺害。世子のバンソクを勝手に廃位・殺害してしまう。
太祖が、後継者に決めた最愛の末子を、その家族と共に実兄が惨殺したのです。
太祖・成桂は、こうした事態に嫌気をさし、
1398年王位を二番目の子バンクアに譲って、故郷に隠居してしまった。
バンクアは”定宗”と号し、二代目の王に即位した。
不満やるかたないバンウォンは、またも策略を講じ、定宗や他の王子をしりぞけて”太宗”と号し、
李朝三代王に即位した。
李成桂の長男”バンウ”は、兄弟の醜い権力抗争を逃れ、世俗を捨て、
山寺に隠匿。七番目のバンボンも殺害されたため、残る四人の王子達は、誰一人王位を求めようとしなくなった。
今の北朝鮮も又、不可解なことだらけ…1994年の金日成の急死は、
金正日による暗殺説が今もって消えず、金正日の後継者も、当初は長男”正男”氏だったが、後継争いに敗れ、現在国外にいる。次いで、次男”正哲”氏が候補に上ったが、現在三男”正雲”氏が有力視されている。
3代にわたる世襲を正当化するための下地づくりに忙しいようです。
韓国歴史大河ドラマ「大王世宗」は、三代目”太宗”と、その世子”世宗”を巡るドラマだが、
王位と権力の座を巡る陰謀策略が、視聴者を引き付けて離さない。
崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」