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蒙古来襲が7年早かったら?

■「むごい」という言葉の語源
 
蒙古は他国へ侵略する時、まず国王に書簡を送り、国王自らの入朝をうながす。
世子を人質に要求し、馬二千頭など貢物の供出を強要。戸籍の調査、軍役の
負担などを要求してくる。要求に従えば、蒙古の属国として臣下の礼をとらせ、
更に過大な要求を突きつけてくる。
 
要求を拒否したら、軍事力でもって侵略・殺戮…力でもって屈服させる。
侵略の際、無抵抗で降伏すれば、貢物を献納させて生命を許す。
頑強に抵抗するようなら、徹底的に破壊して、住民を一人残らず殺戮する。
 
あまりの残虐性から、”蒙古”がなまって”ムゴコ”…「むごい」という言葉が
生まれた。
城市を攻める時、付近の住民を徴用して、攻城のための土木作業に使役し、
捕虜を最前線に押し立てて、逃げようとする者は容赦なく殺戮した。
攻城には投石機を使い、投げ槍・火矢を打ち込み、撞壁車(ドウへキシャ)で、
障壁を衝き砕いて突入した…
 
16世紀、オスマントルコが、東ローマ帝国の都、コンスタンテノーブルを攻略
する時も、同様の攻め方をしたが、当時ヨーロッパで開発された大砲が城壁
を破壊…守兵に精神的ダメージを与え、攻城に威力を発揮した。
 
737 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「蒙古来襲が7年早かったら?」
 
第5代世祖フビライ汗は、第2代太宗オゴタイ汗から、30年間に及んだ高麗侵攻を成功させ、1275年南宋を滅ぼすとともに、蒙古に屈服した高麗を、属国として巧みに懐柔…蒙古の野望達成に、高麗を最大限利用した。
 
二度の元寇の時も、日本遠征のための兵力と艦船の供出、食糧などの補給基地、東征の前進基地設置などの任務を、高麗に命じた。
 
1271年”元”が創建。第一次日本遠征(文永の役)は3年後の74年、元・高麗連合軍4万、戦艦9百隻をもって、南宋攻撃と同時並行で行われた…が失敗。
その後計画を変更し、高麗軍と共に南宋攻撃に全力を投入…南宋を滅亡させた。
 
第二次日本遠征(弘安の役)は、1281年東路軍(元・高麗軍)及び、江南軍(蛮軍・元に降伏した南宋の兵)の計14万2千名、戦艦4千4百隻をもって行われた。
元にとって…元寇は、世界制覇の通過点にすぎない…が、日本とっては、国家の存亡に係わる一大事となった。
 
当時、高麗軍の一部が、モンゴル侵略に徹底抗戦を唱え、王族の一人を王に推し立て、開京(ソウル)沖の江華島に篭って、モンゴルと高麗軍を相手に戦った。
モンゴルは、1266年日本遠征を企てるも、朝鮮海峡の制海権が、抵抗軍側に握られていて、動けなかった。
 
モンゴル・高麗連合軍は、抵抗軍を鎮圧し、日本遠征の弊害を取り除くのに7年を要した…日本遠征延期を余儀なくされたのです。
更にモンゴルは、日本遠征に準備した軍隊を、抵抗軍の鎮圧に差し向けたことで、多くの兵員、艦船を失い、膨大な損失をこうむった。
 
もしも、一回目の東征が7年前、当初の計画通り滞りなく行われ、更に神風が吹かなかったら…準備不足の日本は、圧倒的戦力に制圧され、婦女や働き盛りの男は、奴隷として中国に連れ去られ、寺社仏閣は焼き払われ、住民は服従を強いられて、虐げられた歴史を刻んだことだろう。
 
日本の歴史に、大きな屈辱・汚点を残したかもしれない元寇。
朝鮮で、モンゴル軍が足止めを食ったことで、日本に迎撃する時間的余裕が生まれ、救われたのです。
 

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