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国盗りに成功した李成桂

■李朝時代の女性の地位
 
李朝鮮時代の女性は、一生を男性に奉仕する奴隷のごとく扱われ、人権は
無視された。
嫁いだ女性は、家系を継ぐ男児を産むことが最大の役割とされ、婚家から外へ
出ることは許されず、他の男性を見つめることも、話すことも固く禁じられた。
 
もし、妻の手が他の男に触れたりしたら、その男に非があっても、妻の腕を切断
され、婚家から追放された。言い分を聞くこともなく、死罪にされることもあった。
娘の不始末に、実家は名誉を守ろうと賜薬を与え、自殺を強要した。
 
夫が、妾を一つ屋根の下に住まわせても、嫉妬はならず、離縁されても生涯守
節を強いられた。夫に先立たれても自由の身にはなれず、一生を婚家に捧げ
ることを強要された。
男性は、科挙合格を目指し勉強したが、女性は、男に仕える道徳観を教え込ま
れる以外に、教育の機会が与えられることはなかった。
李朝時代の女性に人格はなく、夫が罪に問われると、子と共に囚われ、処刑さ
れた。韓国の時代劇にこのシーンが出てくると、哀れで正視できなくなる。
 
                       崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」
 
739 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 
「国盗りに成功した李成桂」
 
「龍の涙」「大王世宋」「イ・サン」など、李朝時代の韓流ドラマ…一度見たら止められなくなる。
ドラマをより深く楽しむには、韓国の時代背景・歴史を知っておくといい。
そこで休日、玉川図書館に出かけ、韓国歴史書を数冊借りて読んだ。
 
以下は、崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」から…李成桂が”李朝”創建に到る顛末を抜き出したものです。
元朝末期、「紅巾の乱(1351~66)」で知られる紅巾賊が、1359年と61年の二回”高麗”に攻め込んできた。
高麗軍は反撃して紅巾軍を壊滅、敗走させた。
この紅巾賊、その7年後の1368年、蒙古族の元朝を倒して、明朝を創建する。
 
紅巾賊が二度目に侵入してきた時、当時27歳の”李成桂”が、高麗軍の先鋒二千の兵を指揮して果敢に戦い、十万の紅巾軍を打ち破って、高麗の首都開京を奪還した。この軍功で李成桂は、その勇名を全国に轟かせた。
 
1388年高麗は、かっての韓国領・遼東半島を奪還しようと、中国が政変で混乱しているのに乗じて、出兵した。進軍の途中、李成桂は左軍の将軍チョ・ミンスと共謀して、にわかに高麗に反旗をひるがえし、回軍して首都へ戻った。(明智光秀の天王寺の変に似ている)
 
都に戻るや、李成桂は上官の将軍を逮捕・殺害、クーデターに成功した。権力を掌握すると、高麗朝32代の”?(う)王”に退位を強いて”昌王”を立てた。
まもなく昌王を廃位し、34代”恭譲王”に取り換える。
 
その後、共謀した左軍将軍を故郷へ配流し、忠臣たちを容赦なく殺してしまった。
(その顛末は、韓国ドラマ「龍の涙」で語られているが、ロシア革命のスターリンが浮かぶ)
1392年恭譲王を追放、自ら王位に就き、王氏一族を生きたまま海に葬り、みな殺しにして祖国高麗を滅亡させ…国を盗み取ることに成功したのです。
 
1393年、明国から「朝鮮」という国号を貰い…改称。かっての韓国領、遼東半島奪回の絶好の機会を失ったうえ、20世紀初頭、日本に併合されるまで、韓族は中国の属国になり下がり、萎縮の道を歩むことになった。
 
李朝を創建した李成桂は、国都を開京(現在の開城)から、漢陽(ソウル)に移し、同時に、旧高麗朝の官僚を大量に虐殺して粛清…没収した領地を、配下の功績者に分配した。
 
李朝創建を後押しした明を、宗主国と仰ぎ、それまでの国教”仏教”を廃して、中国に習い”儒教”を国教と定め、「崇儒排仏」を建国の理念とした…
民族の自立を放棄し、明に従属することで、李政権の安泰を図ったのです。
(国の安全保障をアメリカに委ね、米国52番目の州と揶揄される、現在の日本もそうかな?)
 

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