国家権力を握るには、国政選挙で最大政党になり、政党内では、
最大派閥の総領になることだ。派閥の大小は、総領の金力がモノを言う。
性懲りもなく、大物政治家の贈収賄事件が繰り返されるのは、そうした悪しき体質を断ちれないからだろう。
田中・竹下・金丸に仕え、自民党の古い体質をそのまま民主党に持ち込んだ小沢幹事長…民主党を牛耳る、押しも押されぬ存在である。
小沢さんが”馬”だ、「政治資金はすべて公開してきた…やましいことは一切ない」として、詳細を語ろうとしない姿は、誠実と言いがたい。
党内から…「鹿に見えますがねェ(本当に隠し事ないの?)」…疑問の声ひとつ上がらないのはなぜだろう。趙高の王宮ではあるまいし、
不思議を通り越して、不気味である。 読売新聞「編集手帳」
TVで某評論家が言った…「教祖を信者が取り囲む、オカルト集団のよう」
731 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「”馬鹿”の語源は?」
日頃何気なく使っている「馬鹿」
このバカという言葉…なぜ「馬・鹿」という漢字をあてるのか?
語源は梵語の「Mahallka(無知)」からきていると言うが…
司馬遷の「史記」に、皇帝をもしのぐ権勢を誇った、秦の高官”趙高”の逸話がある。
中国全土を統一した秦の始皇帝…地方巡幸の途中病に倒れた。
死期を悟った始皇帝は、辺境に追いやった息子の扶蘇(ふそ)を呼び戻し、世継にしようと手紙を書いた。
遂に崩御…皇帝の死で国が混乱に陥るのを恐れた、丞相の李斯(りし)は、
都へ帰還するまで、始皇帝の死を隠し通そうとした。
物言わぬ皇帝の御車に、毎日三度の食事を運び、死臭をごまかそうと、
大量の塩漬けの魚が、
随行の車に積み込まれた。
こうして都に戻り、ようやく始皇帝の死が公にされた。
ところが、皇帝の座を継いだのは”扶蘇”ではなく、”胡亥(こがい)”だった。
宦官の”趙高”が遺言書を握りつぶしたのです。それだけではなく、
嘘の「始皇帝の命」
を発して、扶蘇を殺してしまった。
さかのぼり、始皇帝に偽りの諫言をして、”扶蘇”を辺境へ追いやったのは趙高…
扶蘇が皇帝になったら、 自分の地位のみならず命も危うくなる…
と思っての策略です。
趙高の野心は留まるところを知らず…丞相の李斯をはじめ、
自分を脅かす者を片っ端から葬り去った。
そして、二世皇帝を操り人形に、政治の実権を握ったのです。
ある日、超高は自らの権力を試そうと、居並ぶ群臣の前に”鹿”を連れてきて、
「陛下、これは馬でございます」と偽わり、鹿を献上した。
陛下は笑って「これは鹿ではないか」と周りを見渡しすが、
居並ぶ重臣たちは趙高を恐れ、口々に
「馬です」…反対を唱える者がいなかった。
国家であれ、企業であれ、恐れおもねる者たちに囲まれる組織では、
黒も白で通ってしまう。
誤まりを強引に押し通す「鹿を指して馬と為す」
の慣用句は、上記故事から生まれたのです。
趙高の野心はついに、天子の位を手に入れようとして、皇帝”胡亥”を殺してしまう。
周囲に諌められ、仕方なく胡亥の兄”子嬰(しえい)”を皇帝に据えて、操ろうとした。
ここが運のつき…子嬰に殺されてしまう…「馬鹿な趙高」の一席です。