■森 信三「修身教授録・第十四講/真実の生活」
から
「人間は、地位や名誉を求めたがる。
一段でも上の地位に登ろうとして励むことは、向上心の現れであり、
悪いことではない。
しかし、登れば登るほど貪欲になり、更に上を目指そうとする。
このような生き方が、果たして人間の真実の生き方であるか?
深く考えてみなければならない。
上に登ることばかり考えず、どこか一箇所にとどまって、生涯をかけて、
一つの坑道を切り開くこともまた、生きがいのある人生の道であり、
人生の選択だと思うのです。
そして、そのような天職にめぐり合ったことが、本当の幸せを手に
するようになる…」
※人生を振り返ると、成功への階段をまっしぐらに登り、周囲から十分な評価を獲るまで成功を手にしながら、そこに留まらず、
更に貧欲に上をめざして、組織が肥大化。逆風に見舞われた時、対応できずに急降下…立ち直れずにいる、友人・知人のいかに多いことか…
721 【心と体の健康情報】
~幸せな人生~ 「与える幸せ」
私の友人に、おじん駄じゃれを連発して、
周囲を笑いに包み込む愉快な社長さんがいます。その社長さんの口癖は、「わしが好きなのは…貰う・頂く。
嫌いなのは…与える・差し上げるだよ、ワッハッハ」。
御歳66歳の「もったいない世代」 である。自分の持ち物を大変大切にし、 モノを粗末にしない。
子どもの頃を振り返ると、茶の間は裸電球が一個ぶら下がっているだけで、
何もなかった。
その後、電化製品を買い揃え、
自家用車、土地、家…と、
欲しいものを一つひとつ買い揃えていった。
欲しいものが手に入るたびに、幸福を実感する…我が人生、その連続だった。
このように、「得る幸せ」があるその一方で、「与える幸せ」
があることを忘れてはならない。
自分は何を人に与え、何でお役に立っているのか?
何のお役にも立てず、与えるものもなく、
人にやっかいをかけるだけの人生だったら…
この世に生まれてきた価値はないだろう…。
児童文学作家、シェル・シルヴァスタインの著書に、「おおきな木」
という絵本があります。
主人公は、りんごの木と少年。二人は大の仲良しで、少年は毎日、
木登りやかくれんぼをして遊び、とても幸せでした。
やがて少年は青年に成長し、木登りよりも買い物がしたい、
お金が欲しいと言い出します。
木は言った…「こまったねぇ、私はお金がない…あるのは葉っぱとりんごだけ」
りんごの木は、自分のりんごの実を青年に与え、
町で売ってお金にするよう薦めます。
少年が成長するにつれ、欲しいものが次々生まれてきます。
家が欲しいと言えば、木は自分の枝を与え、
旅をしたいと言えば、幹を切り落として、船をつくるように言います。
少年は、自分が何か欲するときだけ、りんごの木を訪ねるのです。
それでもりんごの木は、自らのすべてを与えます。
幹まで切り倒され、丸裸になったりんごの木は、それでもハッピーでした。
長い年月が経ち、老人となった少年がりんごの木を訪れます。
欲しい物もなくなり、疲れ果てた彼が、
人生の最後に欲したものは何か?
それは、座って休む静かな場所でした。
実も葉も、枝も幹も失ったりんごの木でしたが、最後に残った切り株を、
老人の休む場として与えたのです。
ラストシーンは、老人が切り株に座っている絵…。
そして次のことばで、物語は締めくくられます…
「りんごの木は、それで嬉しかった」
この物語の最大のポイントは、りんごの木が、
与え続けることにハッピーであることです…それが、悲劇的感情を伴う”犠牲”の行為とは異なっている、
という点にある。
”得る幸福”にばかり囚われて、人生を歩いてきた私たち…
すべての満足を手に入れ、
欲しい物がなくなった今の時代、” 与える幸せ”
を知って初めて、本当の幸福を手にするのです。
今週の倫理539号「与える幸せ」