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2009年12月 アーカイブ

2009年12月03日

指体操の効用

■「健康法に王道なし」                         
 
長寿の教育学者として知られ、今も現役で活躍する昇地三郎さん…
御年103歳。100歳の時、「各国の大学に招かれて、世界一周講演旅行に出かけます」と、講演終了後に、 聴講生の私たちに話されましたが、昨年も、そして今年も、世界一周講演に行かれたとのこと。
 
100歳を超えて尚、お元気なのは…「その秘訣は毎日の習慣にある」と言う。
三歳の頃、母親に躾けられた習慣に「食事を一口30回かむこと」があり、現在も続けている。
その他「棒を使った五分間体操」、背筋を曲げないために「硬いマットに寝る」、「寒水摩擦」は欠かさず、「新聞を四紙全て見る」 …を習慣にしている。
 
「健康法に王道はありません。体に良い平凡な生活習慣を、コツコツ続けることです」と語る昇地さん。 100歳を過ぎて益々お元気なお姿に、驚嘆するばかりです。長寿の秘訣は、「日々の、良き習慣の蓄積」 にあることを教えられました。
 
719  【心と体の健康情報】
「指体操の効用」
 
毎朝5時起床。洗顔のあと、最初に「ヨーガ」をやる。
吸って・吐いて~、首を上げて止めて、下げて止めて~、左右にゆっくりねじり、 そしてグリグリ。肩甲骨を開いて、閉じて、 背骨を伸ばし、縮めて、吸って・吐~、屈伸してひねり、太もも・くるぶし、体中の筋を伸ばす…そして、 全身の力を抜き、瞑想 朝の10分のヨーガが、身体にエネルギーを注ぎ込んでいく。
 
加齢とともに、細かい動作が苦手になり、持久力も衰えてくる。運動機の衰えを意識する歳になった。 そんな自分を、「もう年だから…」と悟ったりしてはなりせん。 筋力は、70歳を過ぎても、鍛えればアップするし、運動機能も、毎日続けると身に付いてくる。 テレビを見て、何もしないでいると、どんどん衰ていく
 
何か一つ、楽しくやれることを見つける。毎日コツコツ機能アッブに精を出す… で出来なかったことが、 出来るようになるから楽しい。
4年前、上手くなりたいと、道具から靴まで一式買い揃え、始めたゴルフ… ようやく100が切れるところまできた… 続けていれば、 ある程度は上達するものです
ところで、もっと簡単に誰でも出来ることがあります… 毎日少しづつ、一ケ月続ける。 考えなくても勝手に体が動き、三ケ月も続けると、 一生忘れない特技?になる。
 
■[2~3日で覚える簡単な” 指体操”
 ・左手と右手を前に、「1人ジャンケン」をします。
 (1)左手グーの時、右手パー (2)左手チョキの時、 右手グー
 (3)左手パーの時、右手チョキ
 
右手が勝ち、左手が負けます。(1)~(3)を繰り返し練習します。
2~3日で覚えられます。 体が覚えると、頭で考えなくても、 勝手に手が動いてくれます。
 
■[ちょっと努力しないと覚えられない” 指体操”]  
 両手を開きます。(1)左手の親指を折る。
  次に(2)左手人差し指と、 右手親指を同時に折る
  次に(3)左・中指、右・人差し 指を折る
  というふうに、(4)順に一つずつずらしながら、 ゆっくり折っていく。
  すると、左はグウ、右は小指だけ開いた、グウの形になる
  続けて(5)左手小指を開き、右手fはグウ
  (ここの切り替えが難しい。繰り返し練習しないと、後が続かない)
 
  続いて(6)左手薬指を開き、右手小指を開く
  順に(7)左右の指を開いていくと、
 (8)左手・パー、右手・親指だけが閉じた形になる
  続けて(9)左手親指折る、右手パー
  (ここの切り替えが難しい。繰り返し練習しないと、続けられない)
  (10)左手人差し指折る、右手親指折る
 
このように、左右変則折りを繰り返します。慣れるまで声を出して繰り返します。私は、車を運転して、信号待ちの時に練習しました。 繰り返していると、だんだん出来るようになり、 早く出来るようになります。この動作を休み無く続けられた、体が覚えたのです。
 
会社で、新しい目標にチャレンジしようとする人に、やって見せます。根気よくやり続ければ、 いつかは必ずなし遂げるであろうことを、 理解させるために…

2009年12月08日

日本人の習性、強みと弱点

■NHK「坂の上の雲」プロローグ
 
まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。
”小さな”といえば、明治初年の日本ほど、小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材とえば、三百年の間、読書階級であった、旧士族しかなかった。
 
明治維新によって、日本人は初めて国家というものを持った。
誰もが国民になった。不慣れながら”国民”になった日本人たちは、日本史上最初の体験者として、その新鮮さに高揚した。
 
この痛々しいばかりの高揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層の、どういう家の子でも、 ある一定の資格を取るための記憶力と、根気さえあれば、博士にも官吏にも、軍人にも教師にもなりえた。
 
この時代の明るさは、こういう「楽天主義」から来ている。
今から思えば、実に滑稽なことに、 米と絹の他に主要産業の無いこの国家の連は、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした…陸軍も同様である。
財政の成り立つはずがない。ともかくも、近代国家を創り上げようというのは、 もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民たちの、 少年のような希望であった。
 
 
720 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「日本人の習性、強みと弱点」
 
フランシスコ・ザビエルもダーウインも、ペルーも、 西洋人は初めて異文明に接した時、本国に詳細な報告書を書き送った…
その報告書から、面白いことがわかった。
 
西洋人に初めて出会った時、民族によって興味を示す物事が違ってくるのです。
朝鮮人は”書物”、琉球人は”地球儀”、日本人は滑稽なほど”武器”に興味を示し、 アイヌ人は無欲で、何も欲しがらなかった。
朝鮮は”儒教”で文人の国。琉球は海人の国。アイヌ人は穏やかな猟人である。 その中で、日本人の”兵備”への関心は突出していて、武人の国といえる。
 
1811年、明治維新の半世紀も前に日本にやってきた、 ロシア海軍士官ゴロウニンは…
「日本人は聡明で抜け目がない。模倣上手で忍耐強く勤勉だ。君主が偉大であれば、多年を要せず全東洋に君臨する国家になるだろう。 短期間のうちに、ヨーパ列強の海軍と比肩できるに違いない。日本人は、西洋に伍する”海軍” をすぐに造ってしまうだろう」 と予言している。
 
このゴロウニンの予言は、日露戦争で現実になった。
日本海軍がロシアのバルチック艦隊を全滅させ、 海の藻屑にしてしまったのです。明治の日本人の強みは、「世の中は変わる。 人智と文明は進歩する」と信じ、「過去にとらわれず、自らを変える」ことに、ちゅうちょしなかったことです。
 
秋山真之は日露戦争の前、海軍学校で戦術の講義をした。
教壇に立って…
「ナポレオンは、一戦術の有効期限を10年とした。 日本海軍の戦術は2年をえない…飛行機と潜水艦の時代になり、これから海軍は無用の古物になり、 いずれ空軍万能の時代がくる。
戦場は、軍艦対軍艦の平面の戦いではなく立体的になる。
今から教える過去に学ぶ平面戦術は、役に立たなくなるだろう」
 
この教えを、昭和海軍の上層部が学習し、守っていたら、 戦艦大和や武蔵をするという愚は起こさなかっただろうし、歴史は違ったものになっていただろう。
 
英国人女性イザベラ・バードは、明治初年に日本各地を旅行して、 公共事業の無駄 が多いことに驚いている。そして言った 「日本行政の弱点の縮図がここにある。 公共のお金が、給料の安い役人によって、食い尽くされている…」
 
100年後の今、鳩山政権は「官僚主導と無駄の排除」をスローガンに、 改革に躍起になっているが、 日本の行政の本質は何も変わっていないことを、歴史が教えている
江戸時代に形成された、 お上に従順な日本人の習性は、 今も変らない。
 
                           日本史家/磯田道史「古今をちこち」より

2009年12月09日

与える幸せ

森 信三「修身教授録・第十四講/真実の生活 から
 
「人間は、地位や名誉を求めたがる。
一段でも上の地位に登ろうとして励むことは、向上心の現れであり、
悪いことではない。
しかし、登れば登るほど貪欲になり、更に上を目指そうとする。
このような生き方が、果たして人間の真実の生き方であるか?
深く考えてみなければならない。
 
上に登ることばかり考えず、どこか一箇所にとどまって、生涯をかけて、
一つの坑道を切り開くこともまた、生きがいのある人生の道であり、
人生の選択だと思うのです。
そして、そのような天職にめぐり合ったことが、本当の幸せを手に
するようになる…」
 
※人生を振り返ると、成功への階段をまっしぐらに登り、周囲から十分な評価を獲るまで成功を手にしながら、そこに留まらず、 更に貧欲に上をめざして、組織が肥大化。逆風に見舞われた時、対応できずに急降下…立ち直れずにいる、友人・知人のいかに多いことか…
 
 
721  【心と体の健康情報】
~幸せな人生~ 「与える幸せ」
 
私の友人に、おじん駄じゃれを連発して、 周囲を笑いに包み込む愉快な社長さがいます。その社長さんの口癖は、「わしが好きなのは…貰う・頂く。 嫌いなの…与える・差し上げるだよ、ワッハッハ」。 御歳66歳の「もったいない世代」 である。自分の持ち物を大変大切にし、 モノ粗末にしない。
 
子どもの頃を振り返ると、茶の間は裸電球が一個ぶら下がっているだけで、 何もった。
その後、電化製品を買い揃え、 自家用車地、家…と、 欲しいものを一つひとつ買い揃えていった。 欲しいものが手に入るたびに、幸福を実感する…我が人生、その連続だった。
このように、「得る幸せ」があるその一方で、「与える幸せ」 があることを忘れてはない。
 
自分は何を人に与え、何でお役に立っているのか?  何のお役にも立てずものもなく、 人にやっかいをかけるだけの人生だったら… この世に生まれてき値はないだろう…。
 
児童文学作家、シェル・シルヴァスタインの著書に、「おおきな木」 という絵本があります。
主人公は、りんごの木と少年。二人は大の仲良しで、少年は毎日、 木登りやかくれんぼをして遊び、とても幸せでした。
やがて少年は青年に成長し、木登りよりも買い物がしたい、 お金が欲しいと言い出します。
 
木は言った…「こまったねぇ、私はお金がない…あるのは葉っぱとりんごだけ」
りんごの木は、自分のりんごの実を青年に与え、 町で売ってお金にするよう薦めます。
 
少年が成長するにつれ、欲しいものが次々生まれてきます。
家が欲しいと言えば、木は自分の枝を与え、 旅をしたいと言えば、幹を切り落として、船をつくるよう言います。
少年は、自分が何か欲するときだけ、りんごの木を訪ねるのです。
それでもりんごの木は、自らのすべてを与えます。 幹まで切り倒され、丸裸になったりんごの木は、それでもハッピーでした。
 
長い年月が経ち、老人となった少年がりんごの木を訪れます。
欲しい物もなくなり、疲れ果てた彼が、 人生の最後に欲したものは何か? 
それは、座って休む静かな場所でした。
 
実も葉も、枝も幹も失ったりんごの木でしたが、最後に残った切り株を、 老人の休む場として与えたのです。
ラストシーンは、老人が切り株に座っている絵…。
そして次のことばで、物語は締めくくられます…
「りんごの木は、それで嬉しかった」
 
この物語の最大のポイントは、りんごの木が、 与え続けることにハッピーであるとです…それが、悲劇的感情を伴う”犠牲”の行為とは異なっている、 というにある
”得る幸福”にばかり囚われて、人生を歩いてきた私たち…
すべての満足を手に入れ、 欲しい物がなくなった今の時代、” 与える幸せ” を知って初めて、本当の幸福をにするです。
                               今週の倫理539号「与える幸せ」

2009年12月15日

韓国病を患う韓国

■韓国病
 
今、朝鮮は”韓国病”に蝕まれている。政界・官界の汚職は絶えず、政争の勝者は権力を一極に集中させようとし、 甘い果実を独り占めしようとする。
21世紀の今日も尚、専制独裁がまかり通る北朝鮮に、それが最も顕著に現れている。
 
(1)虚言・欺まんがはびこり、相互信頼が失われ、詐欺的行為が広まった。
 
(2)権力者は、空理空論・美辞麗句をもてあそび、生殺与奪やりたい放題、
  一切の責任を負わなかった。
(3)人前でへつらい、裏で悪し様に言い、恥を知ろうとしない。
 
(4)卑屈で、物事に怖気恐れ、他人の思惑ばかり気にして、決断能力に欠ける。
 
(5)一族の繁栄を最優先し、反社会的利己主義にのみ動かされ、
     公益には無関心。
   地位を利用して蓄財に励み、民衆は搾取の対象でしかない。
               
                          崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」
 
 
722 【吉村外喜雄のなんだかんだ】 
~歴史から学ぶ~ 「韓国病を患う韓国」
 
弥生時代中期(紀元前100年頃)から、飛鳥時代の前期(紀元600年頃) の700年間…高句麗、百済、新羅の三国が朝鮮半島を治めていた。
 
高句麗は、大国中国の軍隊と三十数回戦い、一度も負けなかった強国です。
百済は、世界最先端の文化と芸術を誇る国でした。当時、中国から見た韓国は、「誠実で礼を尊ぶ紳士の国」 と記録されている。
 
朝鮮半島の覇権を企んだ新羅は、密かに敵国”唐”の軍を引き入れ、 内部から不打ちによって、高句麗と百済を滅亡させた。
仁・義・礼・勇が充溢した独立自尊、高徳の民は、民族内部の裏切りによって、 敵国中国の”属領”になり下がったのです…
国家統一を実現した新羅は、唐に国を売りした見返りに、 唐の庇護を受け、 唐を後ろ盾にして、国家の安寧を図っのです。
 
唐の元号に従い、それまで二字だった姓を一字姓に改めただけでなく、服装まで風に改め、韓民族の民族自立の誇りを捨て去るという、 あやまちを侵したのです
 
それから二百数十年…936年、新羅を滅ぼした高麗は、 民族の誇りを復興させた。しかし13世末、 ”季将軍”による、国史上二度目の臣下の裏切りによって、盗みとられ… 高麗は滅亡した。
そうして創建した”李朝”は、20世紀初頭まで500年間、 中国の属領としてんじたのです。
(BS放映中の韓国ドラマ「龍の涙」で、その顛末が詳細に演じられている)
 
李朝は、明を天子の国と仰ぎ、中国の政治文化、王室制度すべて模倣。以後500年間、王家の親子、兄弟、親族の間で、 凄惨きわまりない権力抗争がり返えされた。
 
李朝初代王、李成桂には8人の息子がいた。王位を子に譲って隠居したが、 息子たちは、王位をめぐって血みどろの抗争を繰り広げ、殺しあった。 政争に明け暮れ、 中傷謀略、 不正腐がはびこり、 際限ないまでに苦しめ、 残虐をほしいまに、 搾取しです。
李朝500年の間に、16人の王子と数十人の王族が、つまらない投書・ 諫言って処刑され、粛清された。
 
国を憂う多くの知識人・学者たちも投獄され、殺された…
人材を失った朝鮮は、衰退よぎなれたのです。
何世紀も続く李朝の悪政は、 韓族の自尊を抹殺し、 容易に癒されない 「韓国病」を国民えつけてしまったのです。
 
一方の徳川幕府を開いた家康…9人の男子に恵まれたが、子たちは良く従い、 協力しあい、家康が大御所になった後の二代将軍を、よく支えた。
徳川300年の間に、兄弟一族が権力闘争で殺し合ったことは、 もなかった 徳川一族は、 ことらに”和”を重んじ、 法を守ったのです。
 
韓流ブームに乗って、「チャングムの誓い」「大王世宋」が高視聴率を上げ、 現在「イ・サン」「龍の涙」が放映されている
何れも、季朝時代の権力抗争を題材にした歴史物語です
「韓国病」がまん延する王宮…ドキドキ・ハラハラ… 陰謀・権力抗争が繰りる。 
                            崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」より

2009年12月17日

孔子の教え(25)「千里の道も一歩から」

■孔子の教え「仁」
 
○物のやりとりには”4通り”ある
 ・取ったうえにも取る                (take & take)    
 ・先に取ってから与える            (take & give)
 ・先に与えてから取る               (give & take)   
 ・与えた上に更に与えて報いを求めない (give & give)
 
人との交わりにおいて、与えるのは難しく、取る方は楽です。
孔子は、難しい与える方を先にして、楽な取る方を後にした…
すなわち、 先難後獲」 が人間らしい在り方で、その心を「」と
言っているのです。
生きていくための最も大切な”息”は、吐く方が先である。
金銭出納帖も、”出”が先になっている。
                              伊与田 覚「論語のはなし」
 
 
723 【心と体の健康情報】 
~古典から学ぶ~  
孔子の教え(25)「千里の道も一歩から」
 
君子の道は、たとえば遠きに行くに、必ず近きよりするが如く、 たとえば高きに登るに、必ず低きよりするが如し」  
                                                                    (中庸・第十五章)
「君子の道は、たとえば遠い所に行くのに、必ず近い所から始めるように、 即ち千里の道も、一歩から歩き始める。また高い山に登るのに、 必ず低い所から登り始めるようなものだ」
 
「中庸」の中にあるこの言葉…「千里の道も一歩から」と、 日頃私たちが口にして葉と同じです。
論語は、孔子が残した言葉を、弟子たちが”語録”としてまとめたもので、 「中庸」は、孔子の孫である”子思” が、 おじいさんの思想を、理論的・体系的に著しものです。
その孔子、論語の中で、同じようなことを言っている。
 
子曰く、 速やかならんと欲することなかれ。
 小利を見ることなかれ。
 速やかならなと欲すれば、則ち達せず。
 小利を見れば、 則ち大事成らず
                                             (子路第十三)
「先師が言われました。速やかに成果を上げようと思ってはいけない。 目先の利に囚われないようにしなさい。 無理に速くしようと思えば、目標には到達できない。
目先の利に囚われると、大きなことは完成しないよ」 
 
遠きを計る者は富み、 近くを計る者は貧す
これは、二宮尊徳翁の言葉です。
 
松下幸之助は、「『近くを計る者』とは、『私心で経営する者』のことだ」言っている。
私心、つまり”私利私欲”に囚われた経営者のことで、 そん経営者は必ず失敗る…「私的欲望に打ち勝つ経営者であってこそ、 事業は隆る繁栄・ 発展をもたす」と…。
                         「理念と経営・伊与田 覚・論語の対話」より

2009年12月21日

李氏朝鮮時代の身分制度

昨夜のNHK・ BS2の韓国王朝ドラマ「イ・サン」…王宮に仕える奴婢が身分をわきまえず、 密かに絵を描いていることが表沙汰になり、宮中は大騒動。
いくら才能があっても、王母が配下に製作を命じた掛け軸の絵を、奴婢の分際が描くなど…言語道断。 厳しい身分制度に縛られた、中世朝鮮を垣間見た…
 
■人口比率に見る、中世・朝鮮の身分階級
                            1690年                   1858年 
○両班        7.6%        48.6%
○常民       51.0%        20.2%
○奴婢(奴隷)   41.2%        31.3%  
 
朝鮮・李朝(1392~1910)の500年は、日本の士農工商よりはるかに厳しい、身分制度に縛られた国だった。
人口の8%弱の支配層の”両班”が、170年後には6倍に増え、人口の半数を占めるまでになったのは、 金銭を払ってでも官職を手に入れたいという、切ない庶民の姿があった。
 
 
724 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「李氏朝鮮時代の身分制度」
 
「チャングムの誓い」や「大王世宋」、そして、BS2で放映中の「イ・サン」「龍の涙」 を見るとき、是非知っておきたいのが、 李氏朝鮮時代の身分制度。当時の朝鮮は、世界で最も身分差別の厳しい社会だったのです。
 
中国の政治システムを丸ごと踏襲した李朝…”小中華”の中心はソウルにあり、 遠く離れた民は軽んじられた。
官吏は朝鮮中央部からしか選ばれず、半島の南端は、 流刑の地だったこともあって、公然と地方差別を受けた。
 
6世紀初頭、新羅に滅ぼされた半島南端”百済” の民は、1998金大中大統領がるまで、 ずっと差別されてきた。その沖合いにある済州島は、 流人の島だった。
 
李朝3代の時、身分・階級に従って、着ている服の色が定められ、守らない投獄た。韓国の歴史ドラマを見ると、 着衣で階級の上下が判別できるのです。
 
身分は、大きく「良民」と「賤民」に分けられる。
■「良民」は自由な民で、納税、国役の義務を負い、
   三階級に分類される。
○両班(ヤンバン)   …貴族的高級官僚で、文班(文官)と
   武班(武官)がある
○中人(チュンイン)  … 科挙の試験に合格した下級役人、
   技術官、医者など
○常民(=良人・ヤンイン)…農民が大多数を占め、商人、 職人
 
■「賤民」は奴隷。大多数は”奴婢(ヌヒ)” 
   最も差別されたのは”白丁”…職業、居住地、衣服にいたるまで、厳しい制限と強い差別を受けた。
 
高級官僚、大百姓、金持ち商人は、奴婢を財産にし、権威の象徴として多数の奴婢を養い、下働きに使った。 奴隷ゆえに、売買・贈与・相続の対象にされた。
支配階級の両班は、生まれつき血縁というだけで、能力・才能とは無縁に、地位と名誉を手に入れ、 役人に登用され、国政に携わった。
 
”常民”の百姓は両班から差別され、”奴婢”は常民の百姓・町民から差別された。
婢(女の奴隷)は、日韓併合当時まだ一人30円で、売買されていた。
婢は主人の所有物で、夫は持てず、生まれた子も主人の所有物になり、転売された。 奴婢の子孫は代々、奴隷の身分のままに置かれたのです。
 
今日の韓国の繁栄は、在日韓国人が大きくかかわっている…が、本国に帰ると 「ハンチョッパリ」(豚の足の半分日本人奴)と蔑まれる。
  
TVドラマでは、犯罪を侵した常民が奴婢の身分に落とされ、放牧の牛のように、 胸に焼印を押されるシーンがあった。また、戦いに敗れた敵の捕虜を奴婢にして、財産にすることも行われた。
 
明治初期、日本政府は韓国に開国を迫ったが、無視された背景に、こうした朝鮮社会の門閥や、 封建身分制度があった。
身分制度は国政を腐敗させ、不平等社会を生み、国力衰退の主因になった。
朝鮮の社会改革が、日本の明治維新のごとくいかなかったのは、 伝統的身分制度が邪魔をしたのです。
 
奴婢制度は、1894年日韓併合当時、日本の強力な後押しを受け、「甲午改革」で 「四民平等」を宣言して、廃止されるまで続いた。
しかし、韓国社会は直ぐには受け入れず、現在も尚、階級差別・地域差別の意識が根強く残り、 偏見は収まっていない。「賤民」の家系というだけで、結婚・就職の障害になっているのです。
 
日本人にも、潜在意識の中に、朝鮮人を見下し差別する意識があり、 朝鮮人への優越意識が存在するのは否めない…中学の時、クラスに韓国系の女子生徒がいたが、「朝鮮、朝鮮とパカにするな」 と囃し立てられ、いじめられ、可哀想に思ったものです。
 
その頃まで、犀川の上流・大桑と、下流の現・高岡中学近辺の二ヶ所の川原に、 乞食同然の朝鮮人が掘っ立て小屋を建て、身を縮めるようにして暮らしていた…
私たちは「朝鮮部落」と蔑んでいた。   
                   「徒然なるままにエッSAY!」より

2009年12月28日

孔子の教え(26) 「論語に親しむ」

■”品性”が具わった日本人
 
私は 世界をいろいろ航海してきたが、欧州においてさえ、
 日本人のように落ち着いた華麗さと、威厳を持った国民に
 出会ったことがない
この、耳がこそばゆくなるような褒め言葉を、自伝に書いたのは
誰あろう、1854年に日本と和親条約を結んだペリー提督でした。
 
当時、日本の政府高官や武士は、おしなべて清貧で、威厳と
品性を身につけていた。その背景に、藩校や寺子屋で「論語」
を学ぶ、世界一高い識学率があった。
 
君子は義にさとり 小人は利にさとる」と論語にあるように、
「人の上に立つ者は、利益を追い求めるべきではない」
が、武士階級のモラルとして定着していた日本。
 
当時の日本人は、「論語」や「儒教」に描かれる理想の人物像…
人間として”徳”を具えることが、求められたのです。
これが、ぺリーが絶賛する日本人感になった。
 
何かにつけ賄賂を求め、私腹を肥やす…同じ時代、そんな汚染
にまみれた韓国。同様に権力を手にした日本の士族階級…
贅沢を慎み、清貧な暮らしを貫くことを美徳とした。
 
                     守屋淳「論語に帰ろう」より       
  
 
 
725 【心と体の健康情報】 
~古典から学ぶ~  
孔子の教え(26) 「論語に親しむ
 
日頃私たちは、中国古典とは極めて縁遠い存在にある。何かきっかけと、
学ぶ気にはならない。 私が論語に興味を持ったのは、8年前の2001
「仕事と人生」 の編者、川人正臣氏との出会いがきっかけです。
 
当時、川人さんの家では、毎朝家族全員 「仮名論語」の”素読”を行っていた。
「ヘェ~、こんな家庭があるんだ… どんな家庭だろう? どんな子育てをしている
んだろう?」と、すごく興味を持った。
る祭日、 大坂の帰りに奈良県の自宅を訪ねた。それがご縁となって、
親しいただき、論語に興味を持つようになった。
 
最初の頃は、読んでも意味が分からず、戸惑うだけ…普通ならここで、難しい                                                                                                                                  かと、 興味が失せるだろう…そこで、 書店で解説書を求めて読ん
数年後、論語のバイブル「仮名論語」の著者”伊与田 覚”先生が、 京都で                                                                                                                                      「論塾」 ことを耳にした
受講料は交通費・宿泊費込みで、年間約100円になる。
それでも、こんなチャンスはないと、申し込んだ。
 
月一回出かけ、 3年間論語を学んだ。 論語を学ぶうちに、「ビビッ」と
心に響く個所が随所に出てくる… しだいに語への興味が深まってくる。
良い語句に出くわすと、解説を開き語句意味を深めて楽しむようになった
 
学ぶ内に、論語だけでなく、四書の「大学」や 「孟子」にも興味が湧いてくる
中国古典の奥深さを知り 「論語読みの論語知らず」と言われる意味や、
怖さをうにった以下は、 論語で特に心引かれる語句です。
 
(あした)に道を聞かば 夕(ゆうべ)に死すとも可なり」 
                             (里仁第四)
吾が道は 一以って之を貫く」 (里仁第四)
身自ら厚くして 薄く人を責むれば 則ち怨みに遠ざかる
                            (衛霊公第十五)
(自分に厳しくして、人を責めることがなければ、人に怨まれることはない)
 
2年目と三年目、その年の論語塾が終了する時、レポートの提出が求められた。
それが「私が選んだ論語の一句」 として、一冊の本にまとめられ、 受講生全員に
配られた。
以下、受講生が選んだ「論語の一句」で、 特に多かったものを取り上げます。
 
学びて時に之を習う 亦説(またよろこ) ばしからずや
 朋(とも)遠方より来る有り 亦楽しからずや…」 (学而第一)
仮名論語…最初の1ページ、1行目書き出しの言葉です。
 
吾十有五にして学に志し 三十にして立ち 四十にして惑わず 
 五十にして天命を知り 六十にして耳従い 
 七十にして心の欲する所に従えども  矩(のり) をこえず(為政第二)
 
徳は弧(こ) ならず 必ず隣有り」(里仁第四)
(報いを求めず、陰徳を積んでいる者は、決して一人ぼっちではない。
  必ず思わぬところに、これを知る者がいるものだ)
 
君子は義にさとり 小人は利にさとる」(里仁第四)
 
(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る 以って師と為るべし」   (為政第二)
(古いことを尋ねて、そこから新しいことを知る者は、人の指導者になれる)

韓国病と日本

■李氏朝鮮時代の仏教弾圧
 
14世紀、李氏朝鮮代の国教は「儒教」…仏教は徹底的に弾圧された。
僧侶はソウルに入ることを禁じられ、身分を、賎民階級に落とされた。
全国1万の寺院は240を残すのみとし、所有地と奴婢は没収され、
寺は破壊された。(奴婢家畜同様、売買の対象にされる奴隷)
 
李朝第4代には、7つあった宗派は、禅教の2宗派に統合され、
残された240の寺は、18寺院を残して全て破壊された。
以降、仏教勢力は衰退の一途をたどり、20世紀初頭の李朝末期
まで、強い迫害を受けた。
 
◎儒教”仁”を根本に据える政治・道徳を説いた、孔子を祖とする
      中国の儒学の教え。
 
 
726 【吉村外喜雄のなんだかんだ】 
~歴史から学ぶ~ 「韓国病と日本」
 
近世に至るまで、韓族が凄惨な政争に明け暮れ、 「韓国病」に侵されるようになったのは、陸続きの中国を無視して、国家を維持することが難しかったことによる。
一方日本は、幸運なことに、中国とは海によって隔てられ、 中国の政治・社会のおぞい影響を蒙らずに済んだ。
海に隔てられたお陰で、 韓国とはるかに公正で優しい、独自会を築くことができたのです。
 
日本の室町から明治初頭まで、約500年続いた韓国の”李王朝”… 中国に習い、中央集国家を目指した。当時、中央から地方へ派遣された役人は、 自分の懐を肥やすことばで、民衆を収奪の対象にしか考えなかった。
その結果、経済は疲弊し、資本が積されることはなかった。
 
一方の日本…鎌倉から江戸時代、武家が国を治めた… 国は実質的に独立た諸藩に別れ、各藩は藩力をつけようと、自藩の経営に励み、 農地を開墾し、業の振興に努めた
更に、「論語」 の君子像を理想として叩き込、”徳”を尊び、何ごとにも控えめに振舞う、 日本人の規範が出来上がっていったのです
 
労働を神聖なものとし、武士階級は質実剛健を旨とし、質素倹約に努めた。 中国や韓国社会を特徴づける党派・派閥争いも、宦官も、奴隷制度もなく、 社会が賄賂で汚染されることもなかった。
 
江戸中期になると、絢爛たる町人文化が開花…町人は、 支配階級の士族よりも豊か活を営み、自由な文化を創出した。街には、大きな商店が軒を連ね、 商業・交発に行われた。
歌舞伎を例に挙げても、非支配階級の町人が、 このような豪華な舞台芸術を育んだことは、世界に例を見ない。
 
ところが李氏朝鮮は、厳しい身分制度で国民を差別し、支配階級は、 庶民・農民からの収奪に明け暮れた。ために、 日本のように庶民文化がかに育つ素地が生まれず、経済はがなく、商業が発達することもなった。
政府官僚と癒着した一部商人に、市場の利権を握られ、庶民は、 担ぎ売りの行商か、ヤミ市での商いで生計を立てた
 
李王朝は、庶民が集うことを警戒する余り、心のよりどころになる仏教を、織の巣窟になと排斥… 全国の寺院は取り壊されてしまった
庶民の心を癒す祭りや、宗教的行事を認めなかったのです
 
現代韓国に、由緒ある寺院や、伝統的庶民のお祭りがないのは、 そうした歴史背景があるのです
     崔 基鎬「韓国堕落の2000年史」、守屋 淳「論語に帰ろう」

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