■時 間
漢字の「忙」という字は、「心が亡い」という意味の字になり、これを縦に組んだら「忘」になる。
忙しくて、自分のことなどすっかり忘れてしまうということだろう。
米国の作家ウイリアム・フォークナーは、「時計が止まるとき、時間が生き返る」
ということを書いている。
時計というものは「時間」ではない。円盤の上に秒分の刻みを入れて、二本の針を回転させて、
時の経過を見えるようにしたものだ。
だから時計は「空間」であって、「時間」ではない。時間は決して繰り返えさない。
一秒一秒今ここに!を刻んでいく。にもかかわらず私たちは、時計に翻ろうされて、
うっかり”生きる”という時間、時間が生きていることを、忘れてしまっている。
西村恵信「禅の心」から
707 【心と体の健康情報】
~幸せな人生を歩むために~
「禅の心・眼を閉じ”空”を感じる」
以下は、臨済宗妙心寺派禅僧・前花園大学学長・西村恵信「禅の心」から…
その続きです。
戦後64年、私たちは眼に見えるモノ…月給袋を膨ますために働き、
大きな家に住み、高級車に乗り、豊かな生活用品に囲まれて暮すことを夢見てきた。
そういった、眼に見えるものに引きつけられ、欲望をかき立てられて生きてきたのです。
他人の地位や・財産・持ち物を自らの持ち物と比べ、より高い、
価値あるモノをより多く持っていることが、豊かさへの証しになる。そのような豊かな暮らしを手に入れるには、人より賢くなければならないし、競争に打ち克たなければならない。
そうした偏った考えが、いたずらに学暦偏重の社会を造り上げ、親は、子どもを叱咤してきた。人間を数値でランク付けする格差社会を、
造り出してきたのです。
本来平等であるべき個人の尊厳性を忘れ、実に貧困で浅薄な「知能指数」や「学力の差」
という手法でもって、人間を評価してきたのです。
私たちは「眼に見える付加価値」に囲まれてモノを考え、良し悪しを判断し、
生活してきた。
鏡に己を映して見るがいい…鏡に映る己の姿だけが、
果たして自分なのだろうか?
鏡に映る自分…こんなちつぽけな自分が、
自分というものの全てなのだろうか?
わずか数十年の人生、宇宙から見れば、一瞬のまばたきにも当たらない短い命。
眼に見える現象世界だけが世界ではなかろう。眼を閉じてみれば、
もう一つの世界が瞼に浮かんでくる…
亡き父母の住む世界である。真澄の大空を眺めているように、虚空はどこまでも果てしなく、無限に広がっている。
座禅を組み、静かに座っていると、日頃気づきもしない無限の世界が、
鮮やかに見えてくるから…不思議だ。
生きているのは、自分だけではない。「みんなと一緒に生きている」という、ごく当たり前のことが、不思議に感じられる。
世界が大きく広がっていくのを感じる。それと共に、
自分の存在がだんだん小さくなっていくのが分る。自分というものは、実にちっぽけな存在でしかないのだ。
ちっぽけどころではない…「自分というものなど、無いに等しい」…ということに気づく。
そのことに気づいた時、自分の心の中に潜む傲慢さが、
恥ずかしくなってくる…。
禅修行を繰り返す中で、よくよく自分を点検してみると、これはすべて、
周りの世界からのいただきモノばかりで出来上がっていることに気づく…しみじみと、感謝の心が湧き上がってくる…。
静かに瞼を閉じれば、我々の感覚では捉えられない、虚空世界が広がっていく。
しかも、この世のすべてが包み込まれ、「充実した空間」が広がっていく。
これを仏教では”空”と言い、
その”空”を感じとることが出来るようになってくる。
己は、空気や水や天地の恵みによって養われている。
共に暮す人たちの友情に支えられ、伝えられてきた先祖の血を受継ぎ、
それを未来の世代へと受継いでいく。
座禅修業を続けるうちに、私という存在は、
そうした尊いものであることを実感するようになる…”己を悟る”のてある。
※今日の「禅の心」…一度読んだくらいでは、語っている意味が全く理解出来ない。
二度、三度、四度と読み重ねる内に、ようやくおぼろげながら、言わんとしていることが分かってくる。