■まとまって動ける集団の規模
心理学から見て、互いに気心が知れ、まとまって動ける集団の規模は、
洋の東西・古今を問わず”150人”が限度らしい。
軍隊も会社も、宗教的な組織ですら、機能を発揮するための集団の規模は、150人でほぼ一致するのです。
長年の積み重ねからか、軍隊の場合、
組織の最小単位とされる中隊の規模は、200年も前から150人で不変です。
情報伝達システムが様変わりした現代においても、人数はそのまま。ここまでの人数が、
メンバーの相互信頼の臨界らしい。
[比較行動学 正高信男「考えないヒト」中公新書]
この数字を、ライオンズクラブや中小企業家同友会、
倫理法人会などの組織に当てはめてみると、当初金沢に一つだった支部が、その後の急速な会員増強で、会員数が150名を超えると、支部が二つ、三つと分割されていった歴史がある。
705 【心と体の健康情報】
~幸せな人生を歩むために~
「禅問答…自分は何者か?」
ゴルフ練習場で、自分のスイングをビデオに撮って、
じっくり見る機会があった。映し出された映像を目にするまで、そこそこのスイングをしていると思っていただに…ショックだった。
人のスイングを見ていると、どこが問題か…問題箇所が一目で分かる。
「自分のことは、自分が一番知っている」と思っていても、人から見た自分が、
自分が思っている自分でなかったとしたら、どうだろう…自分が、自分でなくなってしまう。
以下、臨済宗妙心寺派禅僧・西村恵信「禅の心」から…
「自分は何者か?」。そんなこと言われなくても、
自分のことは自分が一番よく知っている…と私たちは思っている。
しかし、人に背中を見せることができても、
自分では、自分の背中を見ることができない。その限りでは、他人は自分より、自分のことをよく知っていることになる。
禅の言葉に、「眼は眼を見ず」というのがある。
眼は何でも見ることができる。が、自分の眼そのものは、見ることが出来ない。
そこにこそ、眼の本質がある…つまり、自分のことが分らないからこそ、
真実の自分というものがそこにあるのです。
自分のことは自分が一番知っている…と思っている自分は、実は、
自分が想像して作り上げた幻想にすぎないのです。そこで、
「本当の自分とは何か?」、日々の修行の中で、究明していくのが”禅”である。
自己の本質をつかみたいが故に、厳しい禅修行に自らを委ねる。
「自分とはいったい何者か?」…納得いくまで追求する。
自己の本質をつかんだら、生涯離さないようにする…
これを「己事究明の行道」と言う。
座禅を繰り返すうちに、「これが自分か?あれが自分か?」と、自己をせんさくする。
今まで自分と思っていたものは、過去の経験の固まりにすぎないことに気づく。
そして今ここに!が、自分の人生…生きている自分の最先端であることが、
はっきりしてくる。明らかなのは…今ここに座っている、この身体だけ…ということが確かになってくる。
今を生きる自分が、ゴロンと座って座禅を組んでいる。
この事実、これがいわゆる「兀座(こつざ)」である。この塊りだけが、かけがえのない自分なのだと、
わかってくる。
そいつが、空気を吸ったり水を呑んだりして、二度と繰り返さない”
今の命”を保っている。座禅をしていると、この血の通う肉の塊りは、誰とも共有できない、
自分一人のものだということが、しみじみと感じられるようになる。
日頃私たちは、過去の経験の固まりにすぎない自分を大切にしながら、毎日を過ごしている…
「私は元気でおります…」と、手紙をポスティングした直後、交通事故に遭うかもしれない。
虚偽の私だけが送られていくことになる。
それはそれでいいのだが、やはり「本当の自分とは一体何?」と、
一度くらいはゆっくり考えてみる必要がある。そうでないと、一度しかないかけがえのない人生を、使い棄て・無為のままに過ごして、この世とおさらば…ということになってしまう。
そこで、昔の人は退歩就己ということを教えた。
中国に伝わることわざである。私たちは皆、自分のことを立ち止まって考えてみる暇(いとま)もなく、毎日を目まぐるしく過ごしている。
人生は長い、一度立ち止まって座禅などを組み、じっくり自分と向き合ってみてはどうか…という箴言
(しんげん)である。