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2009年10月 アーカイブ

2009年10月02日

落語「死神」

■演者によって異なる、落語「死神」のサゲ
 
古典落語で、よく高座の演目にかかる「死神」。グリム童話の「死神の名付け親」を
読んだ三遊亭園朝(1839~1900)が、落語のネタにしたとされている。
 
◎円生師匠の「アァ~蝋燭が消える」と、高座でひっくり返るサゲが一般的だが、
   正月など、縁起がからむ高座では、その直後にむっくり起き上がり、
 「おめでとうございます」と、蝋燭の継ぎ足しに成功して生残るサゲをやる。
 
[志の輔師匠のサゲ]
◎見事…新しい蝋燭に火が灯る。死神「こんなはずではなかった」と嘆く。
 男は喜びいさんで、新しい蝋燭を手に、洞穴の外に出てきた。
 と、死神「もう外は明るいから、明かりはいらないんじゃないの…」と言う。
 「アッそうだぁ」と、男は思わず「フッ!」と、蝋燭の火を消してしまった。
 その途端…男は死んでしまった。
[その他]
◎成功して喜色満面となったところで「ハァクション!」と”くしゃみ”…
 蝋燭は消え、噺家無言で倒れこむ。
◎継ぎ足した後に気が抜け、思わずため息が出て「ふぅ~」…火を消してしまう。
 
 
702 【吉村外喜雄のなんだかんだ】 
~ことば遊び~ 「落語・死神」
 
♪お金の算段が出来ず、女房に悪態をつかれて家を飛び出してきた。
女房に言われたとおり「死んじゃおうか」 と思い始めた矢先、死神が現れた… これも何かの縁、「金儲けの方法を教えてやる」と言う。
 
病人には必ず死神が付いている。死神が病人の足元にいれば助かる。
枕元に座っていたら、いくら手当てしても、 寿命だから助からない。
足元の死神は、これから教える呪文を唱えれば、 消えていなくなり、病人は助かる。
その呪文は「アジャラ・カモクレン・テケレッツノパア」
 
男は早速「いしゃ」の看板を出した。
と…まもなく、日本橋大店の番頭がやってきて、「病人を診てほしい」と言う。
旦那の様態がはかばかしくないので、易者に厄除け祈祷してもらったら、 こちらの方向で、 最初に出会った医者に診て貰うといい… と言う。
 
旦那の寝床に通され、見ると、足元に死神が座っている。
「しめた!」と、例の呪文を唱えると、 旦那の様態が急に良くなり、全快した。
店の者喜んで、数十両の礼金を差し出した。
 
味をしめた男、次から次と病人を診るが、幸い足元に死神が座っていたので、 してしまう。頭の方に座っていると 「寿命です」… と言って家を出ると、亡くなるので、 生き神様ではないかと、評判が立った。
 
お陰で、生活も豊かになり、裏長屋から表に引っ越した。
女を囲うようになって、女房・ 子どもを追い出してしまった。
女に「上方を見たい…」と言われ、家屋敷を処分して豪遊に出た。
しかし、金は使えば無くなる…金の切れ目が縁の切れ目…女は逃げ出し、一文無しになって江戸に戻った。
 
また医者をやれば、直ぐに金持ちになれると、たかをくくっていたが、 診る病人皆、枕元に死神が座っていて、 お金にならない。
困り果てた男は一計を案じた…枕元に座っている死神がうとうとしたすきに、 人の床を180度回転させて、 足元に死神を座らせようという魂胆である。
 
気の利いた若い者を4人四隅に置いて、男の合図で回転させた瞬間に、 呪文を唱えると、死神の驚いたのなんの…「あっ!」と言って消えてしまった。
喜んだ店の者は、千両という大金を差し出す。
それはそうだろう…もう寿命が無いのを、無理やり助けたのだから…
 
得意満面になって帰る男の前に、例の死神が現れた。
「良い所に連れて行くから、付いて来い」という。
暗がりの洞穴みたいな所へ入っていくと、一面、 蝋燭がビッシリト灯っている場所に出る。激しく燃えているものや、 今にも消えそうなものなど…様々である。
 
その中に、今にも消えそうな一本があった…聞くとそれが男の蝋燭だという。
「そんなはずはない」と食い下がったが、死神は… 「さっきの病人の寿命と、お前の寿命が入れ替わったのだ」と言う。
 
あわてた男…大金を差し出して、新しい蝋燭に変えて欲しいという…
死神…新しい蝋燭を手渡して、今にも消えそうな蝋燭の火をうまく移せば、 助かると言う。
男は、必死に火を移そうとする…失敗すれば命は無い…手がブルブル震える。 なかなか火がつかず、あせる男…消えるよ…消えるよ…とうとう火が消えて… 高座の上でバタン…死んでしまった…   フリー百科事典「ウィキペディア」

2009年10月08日

メタボリック・シンドローム(2)

変化する日本人の食文化
 
日本人の食文化において”肉”は、 七世紀に天武天皇が肉食禁止令を出して以来、つい最近の四十数年前まで一千三百年の長きに渡って、家庭の食卓に乗る、 一般食べものではなかった。
 
その間の穀物主体の食生活が、日本人の腸の長さを、 北欧ゲルマン民族の倍の長さにし、エラが張った四角顔の、ずん胴短足の日本人スタイルを作っていったのです。
江戸時代には、 まれに薬として鹿や猪を食べることがあった。
明治になって文明開化が、 牛鍋を庶民が好んで食べるようになった。
 
農水省によれば、1960年当時一人当たりの肉の消費量は、年間5Kgだったが、食生活の洋風化に伴い、 2002年度には28Kgと、6倍近くになった。
一方、日本人の食生活に欠かせない魚の消費量…石川県漁業協同組合によれば、10年前の60%に落ち込み、 食卓から小鯛やイワシなど、小骨の多い魚が敬遠されるようになった。
 
 
703 【心と体の健康情報】
~食と健康~「メタボリック・シンドローム(2)」
 
心臓病や脳梗塞を引き起こす生活習慣病の原因に、肥満がある。
その肥満度をチェックするのが「メタボ検診」。 腹囲の基準値は男性85センチ、女性90センチ。この基準を超えると、 高血圧や高血糖など、生活習慣病を引き起こす危険要因が増えてくる。
 
日本肥満学界のデーターを基に、肥満基準が定められて2年になる。
ところが、この基準に”異論”を唱える研究報告が相次ぎ、 専門家の間で見直し論議が起っている。厚生労働省は今年、 「心臓病や脳梗塞の予防には、メタボ検診よりも、高血圧検診の方が重要である」と公表している。
 
研究班が約2万3千人の男女を、11年間追跡したところ、「高血圧を治療すれば、45~48%発症を減らせるのに対し、 メタボを解消しても、20%弱しか改善できかった」との結果を報告している。
肥満をモノサシにした現在の基準では、「やせていて血圧が高めの人」が、 正常の部類に入れられ、脳卒中や心筋梗塞への対応が、不十分になってしまうのです。
 
私の場合、血圧、血糖値すべて正常なのに、 腹囲は88センチと基準を3センチオーバーしている。
なぜ取り立てて腹囲を問題にするのか?  なんだか不健康と診断さたようで…納得がいかない。 逆に、血圧などに異常があっても、腹囲が基準以下で、指導の対象にならない人が、男性で約20%、女性で15%もいるのです。
 
85センチはダメだが、84センチならいいというわけでもないだろう…。
厚生労働省では、全国3万3千人について、「高血糖・高血圧・脂肪過多と腹囲」 関係を調査…結果、 男性84センチ以上、 女性81センチ以上になると、上記3項目で2項目以上の異常を併せ持つ割合が”3倍”高くなった。
女性の基準を90センチから80センチに改める必要がある…と進言している。
 
国の保険医療制度はパンク寸前…「生活習慣病にかかる医療費は10兆円」と、 厚生労働省は推計している。これは、医療費総額の3分の1に当たり、 政府は2015年をめどに、 25%は削減したいと、躍起になっている。
                                                                 読売新聞 「メタボ基準異論百出」より

2009年10月09日

県民性「越中強盗・加賀乞食…」

■危険を察知する訓練
 
私の住む町に、JR、線路下を乗用車一台がやっとくぐり抜ける、 巾の狭い道ある。
車が通った後、歩行者が大急ぎくぐっていく。近道になるので通行量い。
 
新幹線工事が始まった…これを機に町は、トンネルの拡張を市申し入れ、了承された。
ところが一部の住民から「道路拡張反対」が出て、計画が宙にた。
「交通量が増えて、学童が交通事故に合う」というのが反対の理由。
 
賛成派は愚痴る…「反対しているお母さん方は、他所から来た人。
子どもが小学校に行っている間の問題でしょう…昔からこの町に住む者には、 『不便が解消する』喜んでいたのに…」。
町会長「いずれもごもっとも…」と、頭を抱える。
 
石につまずいて転ぶ子どもを見て、 「舗装しないで放置する役所に責任がある」と、本気で市に訴える親がいる…つまずかせた石が悪いのである。
舗装すれば転倒の危険は去る…が、子どもの不注意まで、改まるわけではない。
危険を自ら察知する訓練も大事である… 子ども達からそんな機会を奪っているこに、親は気づいていない。       北国新聞「時鐘」
 
○ユダヤの格言
「人は転ぶと    坂のせいにする。    坂がなければ  石のせいにする。
 石がなければ  靴のせいにする。  人はなかなか  自分のせいにはしたがらない」

 
 
704 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
県民性~ 「越中強盗・加賀乞食…
 
北陸三県の県民性の違いを言い当てる言葉に、 「越中強盗、 加賀乞食、越前師」 というのがある
 
生活に窮した時、加賀百万石・金沢の人は、 なすすべもく乞食になってしまう。
中富山人は、働いてでも…福井の人は、詐欺まがいの行為をしても… 生残ろうとする実際に強盗や詐欺を働くというのではなく、最後の後まであきずに、 しぶとく生きようとする県民性を例えたものです。
 
富山県人の商魂たくましさの一旦を語る逸話がある…
富山といえば「配置薬」。戦前、常備薬の産業化に成功し、中国や東南アジア、中南米へも輸出するよなった。
相争う中国の軍閥双方に常備薬を売り付け、 負けた方から集金できこと計算に入れて、しっかり利益をあげていたという…軍閥を手玉に取った話です。
 
一方の石川県人…「能登はかわいや土までも」と言われるように、 能登の人は純朴なことで知られる
金沢人は「おっとりしていて、お人良し」…直ぐ人にだされる。
昔、 ねずみ講北陸に入てきた時…或はトヨタ商事事件の時…加害側も被害一番かったのが石川県…。
 
新しいことに直ぐ飛びつき、 友人や知人が持ち込んでくる話を、何の疑問もなく信じ込み…ない。
富山は空襲、 福井は空襲に続いて大地震と、辛酸をなめた。
災害に見舞われなかった石川県人は、知らず…人を疑うことを知らない。
見栄っ張りでお金使いが荒く、派手好み。 家庭ゴミの量が” 日本一” というのも、 うなずける…。
 
ヤンキースの松井選手の故郷小松は、 表と裏の顔が違って見える。
同業者が足を引っり合い、 時折内部告発で悪事が表ざたになる…市場が狭ゆえでしょうか。
福井県に隣接する大聖寺は、十万石城下町のなごりでしょう…気質がて、朴でやさしい。
 
私が会社勤めをしていた頃、 県内あちこち営業に歩いた。
お客様と接、 そう思うのです。
いよいよ竣工お引渡しのとき、能登の人は、 問題箇条にして、誓約を入れたら、その場で残金全額支払ってくれます金沢の人は、意をもって問題ケ所を処理したら、支払ってくれます
 
ところが高岡の人… 指摘されたクレームを全て処理しても、 新たに問題ケ所をてきて、「何かしろ!」と言うそうこするうちに、 「納期が延した」「引越の段取りが狂った」と、 値引きを請求されたり、残金踏み倒されるという、苦い経験をしている。
 
子どもの頃、 父親がよく愚痴っていたものです…「高岡の商人は、 仕入れる時に散々値切っておきながら、払う時、更に端数を値ってくる。
それに対して金沢の商人は、支払いはきれいだ… 端数を値切るとはめったにい」と…。
 
富山市のある 東”よりも、 高岡の”呉西”の方が、 お金にシビアなようす。
金沢よりほんの少しだけ、 金銭感覚がシビアなのでしょうが、
山では苦労されました。 金沢へ転勤して、つくづく能登や金沢は仕事がやりすいとた。

2009年10月13日

禅問答…自分は何者か?

まとまって動ける集団の規模
 
心理学から見て、互いに気心が知れ、まとまって動ける集団の規模は、 洋の東西・古今を問わず”150人”が限度らしい。
軍隊も会社も、宗教的な組織ですら、機能を発揮するための集団の規模は、150人でほぼ一致するのです。
 
長年の積み重ねからか、軍隊の場合、 組織の最小単位とされる中隊の規模は、200年も前から150人で不変です。 情報伝達システムが様変わりした現代にいても、人数はそのまま。ここまでの人数が、 メンバーの相互信頼の臨界らしい。
            比較行動学 正高信男「考えないヒト」中公新書]
 
この数字を、ライオンズクラブや中小企業家同友会、 倫理法人会などの組織当てはてみると、当初金沢に一つだった支部が、その後の急速な会員増強で、会員数が15名を超えると、支部が二つ、三つと分割されていった歴史ある。
 
 
705 【心と体の健康情報】  
~幸せな人生を歩むために~
「禅問答…自分は何者か?」
 
ゴルフ練習場で、自分のスイングをビデオに撮って、 じっくり見る機会があった。映し出された映像を目にするまで、そこそこのスイングをしていると思っていただに…ショックだった。
 
人のスイングを見ていると、どこが問題か…問題箇所が一目で分かる。
「自分のことは、自分が一番知っている」と思っていても、人から見た自分が、 自分が思っている自分でなかったとしたら、どうだろう…自分が、自分でなくなってしまう。
 
以下、臨済宗妙心寺派禅僧・西村恵信「禅の心」から…
自分は何者か?」。そんなこと言われなくても、 自分のことは自分が番よくっている…と私たちは思っている。
しかし、人に背中を見せることができても、 自分では、自分の背中を見ることができない。その限りでは、他人は自分より、自分のことをよく知っていることになる。
 
禅の言葉に、「眼は眼を見ず」というのがある。
眼は何でも見ることができる。が、自分の眼そのものは、見ることが出来ない。
そこにこそ、眼の本質がある…つまり、自分のことが分らないからこそ、 真実の自分というものがそこにあるのです。
 
自分のことは自分が番知っている…と思っている自分は、実は、 自分が想して作り上げた幻想にすぎないのです。そこで、 「本当の自分とは何か?」、日々の修行の中で、究明していくのが”禅”である。
 
自己の本質をつかみたいが故に、厳しい禅修行に自らを委ねる。
「自分とはいったい何者か?」…納得いくまで追求する。
自己の本質をつかんだら、生涯離さないようにする…
これを「己事究明の行道」と言う。
 
座禅を繰り返すうちに、「これが自分か?あれが自分か?」と、自己をせんさくする。 今まで自分と思っていたものは、過去の経験の固まりにすぎないことに気づく。
そして今ここに!が、自分の人生…生きている自分の最先端であることが、 はっきりしてくる。明らかなのは…今ここに座っている、この身体だけ…ということが確かになってくる。
 
今を生きる自分が、ゴロンと座って座禅を組んでいる。
この事実、これがいわゆる「兀座(こつざ)」である。この塊りだけが、かけがえのない自分なのだと、 わかってくる。
そいつが、空気を吸ったり水を呑んだりして、二度と繰り返さない” 今の命”を保っている。座禅をしていると、この血の通う肉の塊りは、誰とも共有できない、 自分一人のものだということが、しみじみと感じられるようになる。
 
日頃私たちは、過去の経験の固まりにすぎない自分を大切にしながら、毎日を過ごしている… 「私は元気でおります…」と、手紙をポスティングした直後、交通事故に遭うかもしれない。
虚偽の私だけが送られていくことになる。
 
それはそれでいいのだが、やはり「本当の自分とは一体何?」と、 一度くらいはゆっくり考えてみる必要がある。そうでないと、一度しかないかけがえのない人生を、使い棄て・無為のままに過ごして、この世とおさらば…ということになってしまう。
 
そこで、昔の人は退歩就己ということを教えた。 中国に伝わることわざである。私たちは皆、自分のことを立ち止まって考えてみる暇(いとま)もなく、毎日を目まぐるしく過ごしている。
人生は長い、一度立ち止まって座禅などを組み、じっくり自分と向き合ってみてはどうか…という箴言 (しんげん)である。

2009年10月15日

体内時計

■時差ぼけ
 
1月…気温35度、 真夏のオーストラリアでスキューバーダイビングを楽しみ、 10時間後、成田に着いたら、そこは真冬で気温5度… 30度の気温差に加え、時差ボケ… この二つの環境変化に対応出来なければ、 海外旅行は楽しめません。
 
私は、時差ボケの経験がない…何故?  そのワケを考えたこともない…「時差ボケに強い体質だろう」 程度に思っていたのです。
先々月、モンゴルからの帰路、機内でたまたま「海外出張の達人」 の記事を読んで、 時差ボケに強い理由が分かった。
 
機内では「出来るだけ眠らずに起きている」… これが、差ボケ防止になるのです。
例えば、 アメリカからの帰路 ほとんどの人は機内で睡眠取ります。
が、 私は暇さえあれば本を読んでいる。 消灯後も映画を何本も見て、 2~3時間しか眠らない 機内で寝てばかりいるのは、時間がもったいないのです。
 
同日早朝成田着… 羽田経由で自宅へ…夜10時、バタンキューで”爆睡”… 翌日、時差ボケ知らずで、 さわやかに仕事に就くことが出来るのです。
 
706 【心と体の健康情報】
「体内時計」
 
毎朝5時起きが習慣の私…10月半ばともなれば、 外はまだ真っ暗 なのにッと目が覚める。 体の中に時計があり、夜の就寝時間関わなく、一定時刻になると自然に目が覚めるのです。
時計遺伝子と呼ばれる体内時計が、 体に指示を与えてるのです。
 
体内時計は、体内で24時間周期のリズムを刻んでいる。
そのリズムは、太陽の周期、 月の周期が大きく関わっていて、自分では気づかない、確かめるこのでない時計です。
夜、一定の時刻になると、急に眠気がさしてくるのも、 体内時計仕業です。
 
海外旅行に行った時など、現地の昼夜リズムと、 体内時計にコントロールされる睡眠覚醒リズムにズレが起きて、 時差ぼけが起こります。疲れているのに、なか眠れなかったり、 逆に昼間から眠くなって困ったりします。
 
体内時計は、すべての生物が所持している。大学で、 ネズミを使って実験したとろ、 窓のない、明るの変化のない所で飼っていても、体内時計の働きで、 24時間ごとに活動・ 休息を繰り返す。
 
ところが、脳の中の時計回路を破壊すると、24時間周期が消え、活動・休息が不規則になることが確かめられている。
 
この体内時計、以前は脳にだけあると思われていたが、最近になって、 肝臓肉、肺、心臓といった臓器にも、存在することが分かってきた。
 
急に空腹を感じて、お昼が近いことに気づくのは、脳の指令によるものではない。 毎日ほぼ決まった時刻に、 胃の筋肉や、消化管、肝臓を働かせなければならない。
食事の時刻少し前になると、内臓の体内時計が、 食物を受け入れる準備に入るう、 促すのです。
 
体内時計のリズムにも、ズレが生じてくる… そのズレの修正に大きな役割を果たすのが”光”…私たちは毎朝、太陽の光を浴びることで、体内時計がリセットされるのです。
 
毎朝の散歩は、リセットに必要な強い日光を、 一定時間浴びる役目を果たしてくれるのです。
夜勤の多い看護師さんや、 夜間勤務に携わる職業にガン発症率が高いのは、長年生活習慣からくる、 体内時計のズレが大きく関わっているのです。

2009年10月19日

禅の心・眼を閉じ”空”を感じる

■時 間
 
漢字の「忙」という字は、「心が亡い」という意味の字になり、これを縦に組んだら「忘」になる。 忙しくて、自分のことなどすっかり忘れてしまうということだろう。
 
米国の作家ウイリアム・フォークナーは、「時計が止まるとき、時間が生き返る」 ということを書いている。
時計というものは「時間」ではない。円盤の上に秒分の刻みを入れて、二本の針を回転させて、 時の経過を見えるようにしたものだ。
 
だから時計は「空間」であって、「時間」ではない。時間は決して繰り返えさない。
一秒一秒今ここに!を刻んでいく。にもかかわらず私たちは、時計に翻ろうされて、 うっかり”生きる”という時間、時間が生きていることを、忘れてしまっている。
                                                       西村恵信「禅の心」から
 
707 【心と体の健康情報】   
~幸せな人生を歩むために~
「禅の心・眼を閉じ”空”を感じる」
 
以下は、臨済宗妙心寺派禅僧・前花園大学学長・西村恵信「禅の心」から… その続きです。
戦後64年、私たちは眼に見えるモノ…月給袋を膨ますために働き、 大きな家に住み、高級車に乗り、豊かな生活用品に囲まれて暮すことを夢見てきた。
そういった、眼に見えるものに引きつけられ、欲望をかき立てられて生きてきたのです。
 
他人の地位や・財産・持ち物を自らの持ち物と比べ、より高い、 価値あるモノをよ持っていることが、豊かさへの証しになる。そのような豊かな暮らしを手に入れるには、人より賢くなければならないし、競争に打ち克なければならない。
 
そうした偏った考えが、いたずらに学暦偏重の社会を造り上げ、親は、子どもを叱咤してきた。人間を数値でランク付けする格差社会を、 造り出してきのです。
 
本来平等であるべき個人の尊厳性を忘れ、実に貧困で浅薄な「知能指数」や「学力の差」 という手法でもって、人間を評価してきたのです。
 
私たちは「眼に見える付加価値」に囲まれてモノを考え、良し悪しを判断し、 生してきた。
鏡に己を映して見るがいい…鏡に映る己の姿だけが、 果たして自のだろうか?  鏡に映る自分…こんなちつぽけな自分が、 自分というものの全てなのだろうか?
わずか数十年の人生、宇宙から見れば、一瞬のまばたきにも当たらない短い命。
 
眼に見える現象世界だけが世界ではなかろう。眼を閉じてみれば、 もう一つの世が瞼に浮かんでくる… 亡き父母の住む世界である。真澄の大空を眺めているうに、虚空はどこまでも果てしなく、無限に広がっている。
 
座禅を組み、静かに座っていると、日頃気づきもしない無限の世界が、 鮮やか見えてくるから…不思議だ。 生きているのは、自分だけではない。「みんなときている」という、ごく当たり前のことが、不思議に感じられる。
 
世界が大きく広がっていくのを感じる。それと共に、 自分の存在がだんだん小さくなっていくのが分る。自分というものは、実にちっぽけな存在でしかのだ。
 
ちっぽけどころではない…「自分というものなど、無いに等しい」…というとに気づく。 そのことに気づいた時、自分の心の中に潜む傲慢さが、 恥ずかしくなってくる…。
 
禅修行を繰り返す中で、よくよく自分を点検してみると、これはすべて、 周りのらのいただきモノばかりで出来上がっていることに気づく…しみじみと、き上がってくる…。
 
静かに瞼を閉じれば、我々の感覚では捉えられない、虚空世界が広がっていく。 しかも、この世のすべてが包み込まれ、「充実した空間」が広がっていく。 これを仏教では””と言い、 その”空”を感じとることが出来るようになってくる。
 
己は、空気や水や天地の恵みによって養われている。
共に暮す人たちの友情支えられ、伝えられてきた先祖の血を受継ぎ、 それを未来の世代へと受継いでく。
 
座禅修業を続けるうちに、私という存在は、 そうした尊いものであることを実感ようになる…”己を悟る”のてある。
 
※今日の「禅の心」…一度読んだくらいでは、語っている意味が全く理解出来ない。
  二度、三度、四度と読み重ねる内に、ようやくおぼろげながら、言わんとしていることが分かってくる。

2009年10月21日

県民性「東京人と大阪人…旅の楽しみ方」

■古都金沢をじっくり散策
先週、二組の友人夫婦が、 奈良と大坂から観光で来沢… 近江町市場ー金沢城ー武家屋敷と、 古都金沢を散策した。
 
普段はどこへ行くにも車に頼る私…観光目的で、 市内をゆっくり歩いて散策したことがない。 城下町を歩いて、今まで気付かなかっ金沢の景色が見えてくる
へェ~こんな所に、 こんな古風なお屋敷が… 街並みや庭の木々に、加賀百万石の歴史と伝統を感じる。
 
ミシュラン★★に選ばれた「武家屋敷跡・野村家」や、高峰譲吉邸跡を見学。
金沢城・二の丸・本丸跡をじっくり散策するのは初めて… 武家屋敷跡を歩くのも久しぶり。観光気分で金沢のスポットを見て歩いたが、新しい発見が多く、 楽しかった 灯台元暗しある。
 
私が子どもの頃通った幼稚園や小学校は、 武家屋敷に隣接している。
幼稚園は、60数年前の園舎の面影を残し、今も健在。
小学校はずいぶん前に廃校になり、 跡地には江戸時代の 薬問屋” が移築され、今は、武家屋敷の観光スポットになっている。
 
小学校が廃校になったのは、 市中心部のドーナツ化現象と少子化です
 
 
708 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~県民性~「東京人と大阪人…旅の楽しみ方」
 
東京人と大阪人の行動の違いを比べてみると、いろいろあるようです…。 そこで、旅の楽しみ方の違いを書き出してみました。
 
【定期観光バス】  「はとバス」と「京阪バス」双方に尋ねたら…
東京の女性は、ガイドが持つ旗の後ろに整然と並んで、説明に耳をかたむける… ”カルガモ親子”タイプです。
関西の女性は、自分の思うままに行動し、ガイドの説明が面白くなければ、 そっぽを向く。
関東人は集団で行儀がよく、真面目。
関西人は勝手きまま…よく言えば積極的。私は、関西タイプでしょうか。
 
昼食のコースの組み方も、東京「はとバス」の一日コースには、 帝国ホテルのバイキングや横浜中華街をはさむ。東京の女性は 「高くてもレベルの高い食事」に満足する。だから、値段も京都の「京阪バス」 より四千円ほど高い。
だが、京都でこの方式を採用すると、関西の女性から 「何でそんなモン食べなあかんの」と、総スカンを食う。
 
食事に関して私は、関東型と関西型をミックスしたタイプ。旅行先のホテルに一泊するとき、 ホテルでは夕食取らず、 ガイドマップを見たり、タクシーの運転手に聞いたりして、少々高くても、美味しくて地元の人たちに人気のある店を探索する… そんな店にめぐり合えた時の嬉しさときたら…旅の楽しさが倍増するのです
 
【ツアー旅行】  近畿ツーリストで…
大阪から深夜バスで夜を明かし、ディズニーランドで遊んで、 東京ドームでナイター…また深夜バスで大阪に帰り、会社に直行。 こんな企画が通るのは関西だけ。東京人には受けない。
京都で散策して、神戸で買い物…東京人は、 ゆったりとした旅を楽しむ。
 
【温 泉】  山中温泉「翠明」で…
関西女性の共通点は「食べ物にうるさい」こと。施設は二流でも、食べて飲んで、 おしゃべりが楽しめればいい。また、宿泊前にはいろいろ値切るが、 宴会が始まってからの追加料金は気にしない。納得すれば、 高くてもいいというのが関西の性…。
 
東京の女性は、「料金を値切るなんて論外」「設備は水準以上でないと納得しない」。 余分なサービスは要求しない。
関西の女性は、料理が悪かったら大変。夜は個室より雑魚寝を好み、 おしゃべりを楽しむ。
 
東京の女性は、旅館の料理に文句を言ったりしない。
自分の時間を大切にする。
関東は、芸者を呼んでのお座敷芸が盛ん。
関西でお座敷芸といえば、祇園ぐらい。手軽な「コンパニオン文化」が主流だ。
 
【運転マナー】
信号待ちの時、東京の人は、信号が青に変わるのを確認してから発進する。
大阪の人は、横の信号機が青から黄色に変わるのを見て、 正面の信号がまだ赤でも…もう動き出す。
大阪では、信号が青から黄色に変わっても車が突っ込んでくるので、 注意しなければならない。とにかく、大阪の人はセッカチである。
 
歩行者もそう…京都の四条通りを歩いていて、 路地から四条通りへ出る信号が青でも、車が来なければ、どんどん渡っていく。
東京人は、走ってくる車がいなくても、おとなしく立ち止まって、 信号が青になのを待っている。
 
さて、あなたは関東タイプ? それとも関西タイプ? 
私は関西タイプである…但し、エスカレーターの立ち位置は関東です。            (No510 なんだかんだ「右側通行、左側通行」)

2009年10月26日

人は何で評価するのか?

 ■心に残ることば「できる」

○ ロマン・ロラン
「英雄とは 自分のできることをした人だ。
  ところが凡人は そのできることをしないで、
  できもしないことを  望んでばかりいる   」                            
 
○ 松下幸之助
「でけへんでは  でけへんやないか!
  人を育てるときに一番大事なんは 
  でけへんという気持ちの人間を 
  できるという気持ちに変えることなんや。
  不可能と思う心をなくしてあげなんだら、
  人は絶対に成長せぇへんで」     
                                                     
○ 土光敏夫
「苦しければ苦しいで 貧乏なら貧乏で 
 辛抱しながら どうやって生きていくかが  大事なんだ」   
 
 
709 【心と体の健康情報】
~幸せな人生を歩むために~ 
「人は何で評価するのか?」
 
「土曜ドラマ・チャレンジド」第2週を見て…
チャレンジド…英語でchallenged「障害者」 をさします。
「神から、チャレンジという使命を与えられた人…障害者」という意になります。 人は誰しも1人では生きていけません。
障害を持つものも、そうでないものも、
 誰もが誰かを必要とし、 必要とされている
 
病で全盲になった現職教師が、教師への夢を捨てきれずに復職。
生徒たちや同僚教師たちの中で起きる様々な困難を、持ち前のひたむきな姿勢と、 たゆみない努力で、前例のない盲目の先生として教壇に立ち、成長していく感動のドラマです。
 
盲目の先生は、生徒たちに人を愛することの大切さを教え、 生徒たちとの心の交を通して、 現代の教育のあり方を問いかける… 教育とは何かを、考えさせてくれるドラマです。        NHKホームページより
 
以下、「土曜ドラマ・チャレンジド・第2週」から…
♪2年3組の担任になったが、補佐をしてくれる副担任との折り合いが悪く、 思よう授業が進められずに、 む日々…。
ある日、副担任がテストの採点を引き受け、答案用紙を自宅へ持ち帰ることになった。帰り道 通行人とぶつかり、自転車が横転…弾みで、数枚の答案用紙が、 ひらひら川の中に…
 
副担任「25枚しかありません。私…生徒の答案用紙、川に流し
     てしまいました。
     でも、点数だけは名簿に付けてあります。
     だから、大丈夫です…成績を付けるのに問題はありま
     せん」
盲目の『問題ない! それ、本気で言っているのですか…
先生  あなたにとって成績とは、テストの点数のことなんです
     か…
     あなたにとって、授業中の生徒とは、一体何なんです
     か? 
     答案用紙に書かれた、自信ありげな文字や、ためらった
     あとの消しゴムの跡を、一体どんな思いで見てたんです
     か?
     生徒との無言のコミュニケーション…
     私は、答案用紙を見ているだけで、違う風景が自然と
     い出されます。
     私は、そういうことが楽しくて、この仕事をやってまし
     た。
     それなのに、テストは点数だなんて…落とした場所に連
     れて行ってください』
 
「でも…もう」            『いいから! 連れてってください』
「この川なんですけれど…」 『諦めるのはまだ早い!』
川下を、副担任の先生と懸命に探す盲目の先生…川に入り、 何とか4枚拾い上た。
帰路、自宅に付き添った副担任…
先生の奥さんから「何のために先生にった?」と問われ、 人を育てることの喜びを知って、 先生になったことを思た。
盲目の先生から、先生のあるべき姿を教えられ、今までの教育が間違っていたこづくです。
                                       
※メルマガ707号「禅の心」より
 …人間を数値でランク付けする格差社会を、造り出してきたのです。
 本来平等であるべき個人の尊厳性を忘れ、実に貧困で浅薄な「知能指数」や
 「学力の差」という手法でもって、人間を評価してきたのです。

2009年10月29日

落語「紀州」

■世間の声
 
欲しい物がある時「みんな持っている」と言い、「みんな言っている」と言って、要求を通そうとする。いったい「みんな」とは、 何人のことを言うのだろう?
アメリカの心理学者の調査では”3人”だった。
島国日本…世間がどう思っているか…やたらと世間体が気になる国民のようです。
 
♪兄弟が二人で、馬を引いて歩いていた。
「なんで二人で引いているの? 1人は馬の背に乗っていけば良いではないか」
通りがかりの人に、そう言われて、兄が子馬に乗った…
 
それを見た、次に通りかかった人…
「兄が馬の背に乗って、年下の弟に馬を引かせるなんて…なんと偉そうに…
兄貴風を吹かせて、みっともない」
ならばと、弟を馬に乗せて、兄が馬を引いて歩いていたら…
「何だね、年長者に馬を引かせるなんて…」と避難する声が耳に入る…
 
ならばと、二人そろって子馬の背に乗って歩いていたら…今度は…
「小さな馬の背に二人も乗って…動物虐待だ」と言う声が聞こえてきた…
思案のすえ、二人で子馬をかついていった。
                           春風亭小朝「紀州」の枕から
 
 
710 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~ことば遊び~ 「落語・紀州」
 
♪お昼時…都電に乗っている男が、ふと、時計に目をやった。
「もう12時か…」        …アナウンスが『腹空く~♪』(原宿)
「何をたべようかな?」     …アナウンスが『マグロ~♪』(目黒)
「刺身か…喉が渇いたな~」 …アナウンスが『お茶と水~♪』
                                                                          (御茶ノ水)
「お茶は…濃いめがいいな」 …アナウンスが『渋めや~♪』
                                                                              (渋谷)
「やっぱりビールがいい」   …アナウンスが『エビス~♪』
「肴は秋刀魚がいいな」   …アナウンスが『目黒~目黒~♪』
                                                                                   
春風亭小朝の得意ネタ「紀州」…短い噺を”場持ち”させるために、 枕に上記の「聞き違い」 小噺や、馬と兄弟の「うわさネタ」を加えて、 一席の落語にしている。
 
♪7代将軍・徳川家継が幼くして急死し、次代の将軍を決めなければならなくなった。 その候補に上ったのは、尾州候・徳川継友と、紀州候・徳川吉宗の二人。
二人の勢力が均衡していて、とうとう幕閣の評定で、次代を決めることになった。
 
さて、その最終日・大評定の朝…尾州候が駕籠で登城する途中、遠くから鍛冶屋が槌を打つ音が聞こえてきた…「トンテンカン、トンテンカン」
尾州候の耳には、その音が「テンカトル、天下取る」と聞こえる…
「これは瑞兆である」と、大喜びの尾州候。
 
大評定の席では、少しでも貫禄を出そうと、こんなことを言ってみる。
「余は徳薄く、将軍の任ではない…」
すぐ飛びついてはあまりに露骨なので、一度辞退してみせ、周りから無理やり薦められる形で、 嫌々ながら引き受ける…というセコイ算段だ。
 
ところが、ライバルの紀州候…質問されると「余は徳薄くして…」と、 全く同じことを言う。
いかがなっているのか? と尾州候が首を傾けた…その時!
「しかしながら…かほどまでに乞われて固辞するのは、御三家の身として、 責任上心苦しい。しからば天下万民のため…」
 
自分が言うつもりだつたセリフを、そっくりそのまま使われてしまい、 あえなくその場で「次期将軍は紀州候…」と決まってしまった。
意気消沈の尾州候…帰りに同じ所を通りかかると、また鍛冶屋の槌の音が聞こえてきた…「テンカトル、天下取る」
 
なるほど紀州の奴、あそこで一度引き受けておいて、後になって「やはり将軍職は尾州様に…私の分ではない」と、余に引き受けさせようとする算段だな…
そう思い、ほくそ笑む尾州候。
 
まだ鍛冶屋は「テンカト~ル、テンカト~ル」と打っている。
と、テンテンテンと打ち上げて、真っ赤に焼けた鉄を水に入れると…
「キ、シュ~ウ!」
 
※原作者は、江戸時代の大名、肥前の国・平戸藩・9代藩主”松浦静山”
  徳川幕府の一大事、「次代の将軍選びの顛末」をギャグにしてしまった…
  このギャグが公になって、幕府のお咎めはなかったのでしょうか? 驚きです。

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