■中村久子(1897~1968)
岐阜県高山市で長女として出生。3歳の時、2歳の時の凍傷がもとで脱疽を患う。
両手両足の切断を幾度も繰り返し、
3歳にしてだるまさんと言われる身障児になる。
7歳の時父と死別。10歳の時弟が他界。そんな中、祖母ゆきと、
母あやが彼女を支え育てた。
久子20歳の時、高山を離れ一人立ちする。見世物小屋で「だるま娘」
となって我が身をさらし、
生活の糧を得る…母と再婚した父が、久子を身売りしたのです。
見世物小屋で、両手・両足のない体をさらし、
裁縫や編物を器用にやって見せる毎日。
50歳の頃より始めた、執筆・講演・施設慰問活動は、
全国の身障者に計り知れない影響をもたらし、生きる力と希望を与えていった。
「無手無足」の自らの身体は、仏より賜ったもの…生かされていることへの喜びと、
尊さを語って歩いた。
65歳の時、厚生大臣賞を受賞。72歳、
波乱に満ちた生涯を終える。
695 【心と体の健康情報】
~幸せな人生を歩むために~
「幸福は、
汗みどろに生きる中から掴むもの」
人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」に、”中村久子”女史を語っているところがある。
中村久子女史は四歳の時、不幸にも脱疽(だっそ)にかかり、両手両足を失い、苦渋の”だるま”
さん人生を歩んでいく。
両手は手首から、両足は第二関節から先が無く、そういう体で結婚し、子をなし、主婦として、
母親として、家事労働をこなしながら、人々に生きることの尊さを教え、七十幾歳の人生を全うした女性です。
仏教に深く帰依し、自分の体を恨むどころか、たとえそういう体でも、人間に生まれたことを喜び、
「身はいやしくとも畜生に劣らんや、
家は貧しけれども、
餓鬼にはまさるべし」の、仏教言葉を”坐右の銘”にしてる。
禅僧・関 大徹が富山の光厳寺時代、中村久子女史を講演に招いたことがある。
風呂もお手洗いも一人で入られたし、衣服をたたむのも、持参の竹べらで、きちんと収めていたのには驚嘆した。
歯ブラシは両腕ではさんで、たんねんに磨く。顔は両腕で洗い、タオルは口と腕でしぼる。みんな、
血の出るような鍛錬のお陰である。この人のことを思うと、「人間の幸福とは何か」について、考え込んでしまう。
幸福は、自らが汗みどろになって掴み取るものではあるまいか。
中村久子さん41歳の時、ヘレンケラー女史に会う。
「私よりも更に厳しい生き方をし、人間業を超えた努力に生きる人がいる」と、
ヘレンケラーに感銘を与え、賞賛した。
中村久子女史が人生を全うできたのは、母親の厳しい躾があったからである。
いつまでも母親が世話をやくことは出来ない…
何れは一人で生きていかなければならない。
七歳の頃、一人で針に糸を通す訓練をさせられた…泣いても、いやがっても、
出来るようになるまでやらせられた。口で糸の端を細くしておいて、両腕に持ちかえ、針を口にくわえて通す。
糸の結び玉は、舌の先と唇とで糸の端をくるくるとまるめて、歯と唇で糸を押さえて、両腕で引く。
やれるようになるまで、何ヶ月も訓練を重ねたのです。
そうした努力のお陰で、日常生活に必要なほとんどのことを、一人で出来るようになった。はた目には、
そうした厳し過ぎるまでに見えるしつけが、一人で生きていくことへの自信と、根性を植えつけたのです。
「人の命とはつくづく不思議なもの。
確かなことは、自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず道がある。
人生に絶望なし。いかなる人生にも、決して絶望はないのだ」
幾度とない、想像を絶する苦難の人生を乗り越えて、自らの力で生き抜いてきた、
中村久子さんの言葉である。