■プロ野球選手へ
1954年、どうしてもプロ野球選手になりたくて、南海に契約金ゼロのテスト生で入団…テストは不合格だった。が、
キャンプイン前に、合格者の1人が入団を辞退したことと、鶴岡監督が「カベ(ブルペンキャッチャー)にでもしておけや…
」の一言で、入団が決まった。
当時の南海は、鶴岡監督のもと、毎年優勝争いを繰り広げていた。初年度の野村は、9試合に出て11打数無安打…
シーズー終了後、戦力外通告を受けた。
「もしここでクビになるようなら、生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く食い下がり、
「お前のようなやつは初めてだが、お前はダメだ…活躍は無理…今ならまだ人生やり直せる…俺の目は確かだ」と、
担当マネージャーに突き放されたが、あきらめなかった。
ところが、またも幸運なことに、秋季キャンプに入って、正捕手が交通事故、二番手捕手はトレード、
三番手捕手が怪我をして、捕手不足に陥り、残留することになった。
フリー百科事典「ウィキペディア」より
振り返えれば、中学卒業後就職していたら…野球部を退部していたら…南海への入団が不合格のまま終わっていたら…そして、
一年後の戦力外通告…と、何度も野球の道から外れそうになりながら、その都度、野村を野球人生へ引き戻していく、”強運”
の持ち主なのです。
689 【心と体の健康情報】
~幸せな人生を歩むために~
「野村克也の野球人生(2)」
監督就任2年目の1991年…愛弟子古田が大成長…首位打者に輝き、
ヤクルトは念願のAクラス入りを果たした。そして3年目…セ・リーグ優勝を果たしたのです。
1992年、開幕戦の相手は宿敵長嶋巨人。巨人のピッチャーは大エース斉藤雅樹。
野村が5番に抜擢したのは、広島を首になったばかりの小早川毅彦…ID野球…斉藤の配給を頭に、バッターボックスに立った。
広島時代は、斉藤投手にやられっぱなしだった。この試合、小早川は3打席連続ホームランの快挙をやってのけ、勝利した。野村は、
小早川選手を再生して、この年快進撃を続ける。
優勝争いを繰り広げていた、天王山の10月3日の中日戦…野村は、一世一代の賭けに出た。
荒木大輔を先発に起用した…エッ!誰もが耳を疑った。ヒジや腰を痛めて、過去4年間、ほとんどマウンドに立っていない。
「僕でいいんですか?」と大輔…その時野村監督は、辞表を胸にしていた。
荒木は甲子園の優勝投手…大事な試合になればなるほど、力を出すタイプと野村は読んだ…
荒木は7回を無失点で抑え、4年ぶりの白星…ヤクルトを勝利に導た。そして野村は賭けに勝った。
野村は語る…「適材適所」も大事。が、数字にばかり囚われていては勝てない。
投手の第一条件は「精神力」、次いで「コントロール」「駆け引き」。
荒木は一番目の「精神力」に長けている…監督の決断は正しかった。
そしてついに、悲願のセ・リーグ優勝、日本シリーズ優勝をやってのけ、日本一に輝いた。以降”
選手再生工場”の野村と言われるようになり、ヤクルトをAクラスに導いていく。
野村は言う…「野球は頭を使うスポーツだ。一球ごとに考える余裕と時間がある。
サッカーにはそんな余裕はない」
<人を育てること=自信を育てること>
優しくすると頭に乗り、厳しくすると落ち込む。燃えない選手、
ガッツのない選手をどう導けばいいのか?…どうしたら自信を持つようになるか? 低迷している選手に共通するのは、
「これ以上は無理」「これくらい出来れば満足です」といったマイナス思考…。
<人づくりの原点は”愛情”
>
愛情をかけてやらないと、育つものも育たない。伸び悩んでいる選手へのさりげない一言…これが効く。
「自分のことを見てくれている…評価してくれている」
上司の不用意で無神経な言葉が、人を傷つけている…慎まなければならない。
野村がヤクルトの監督になって9年間に、4度リーグ優勝し、3度日本シリーズ日本一になっている。
<野村の人生哲学>
躍進の裏にある野村の人生哲学…「財を残すか?仕事を残すか?人を残すか?…何を残すかによって、
人間としての価値が見えてくる」
ミーティングで、「人はなぜ生まれてくるか?」を問いかけ、自らの人生を見つめさせる…
そこから始めないと、本物の選手は育たない。
「人として生まれ、人として生きる、人として生かす。人はなぜ生まれてくるか?」
「生きるため、存在するために人は生きている」…そのために「どう生きるのか」を、
選手一人ひとりに考えさせる。
NHK「死に場所はグランド」から