■近江商人の「陰徳」
百姓の身分から大豪商になり、「陰徳」に励んだ近江商人”松居遊見”
遊見は、誰よりも早く起き、粗食、粗末な家、木綿の着物と…質素な生活をし、
陰徳を積むことを何よりの喜びとした。
そうして、無駄をはぶいて蓄え、貧民に米や物品を与えて救済…社会に還元した。
ある日、千両箱を背負った手代と、箱根峠にさしかかった。
夜もふけ、うっそうと繁る森の中…二人の山賊に出会った。遊見はひるまず、
「すまぬが、この荷物、ふもとまで運んではくれまいか?駄賃は弾む…」
引き受けた山賊、背負ったとたん「これは千両箱」に違いないと、直感した。
案の定、1人は途中で逃げた。追おうとする手代を、遊見は引きとめ…言った。
「どうせ、賭博か女に入れ揚げて、無駄遣いしてしまうだろう…
そして、働くことを知らぬまま、一生を台無しにすることだろう」
残った山賊、それを聞いて驚嘆した。五個の千両箱を、荘の邸宅まで運んだ。
遊見は、この山賊の律儀さを見込んで、商道を学ばせたところ、よく精進して、
大坂店を委せられるまでになった。
泉秀樹「近江商人に学ぶ」から
684 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「近江商人の三方よし」
衆議院が解散された。小選挙区制になって15年…ようやく、
2大政党が政策を競い合い、国民が政権政党を選択できる、
歴史に残る選挙になった。
反面、地元や一部組織の利益を代表する政治家ばかりが目につき、
真に国家の将来を憂い、
活動する政治家がいなくなったように思える。
江戸から昭和初期にかけて、近江商人の次男・三男は、
十歳のごろに丁稚奉公に出された。
奉公先で寺子屋に通いながら働き、行儀見習いをした…
映画「てんびんの詩」が思い浮ぶ。元服後の十六歳のころ、手代に昇進。番頭の指図で出納・
記帳を覚え、お得意様周りをして、
一通りの商いを覚え、一人前になっていく。
三十過ぎるころ番頭になり、奉公人の指導・監督にあたり、
店の経営を委されるようになる。やがて別家して屋号を分与され、独立する。
事業が成功すると、家業の繁栄を願って、”家訓”を定めて隠居する…そんなパターンが多かった。
近江商人の家訓は、「倹約・堪忍・堅実・
勤勉・正直・知足・寛容」を旨とし、中でも、
人知れず社会に貢献し、報恩の気持ちをあらわす「陰徳の精神」は、家訓の中に繰り返し登場する。
公共に貢献しない商人は、近江商人と呼ばない…そんな風潮があったのです。
その近江を代表するものに、「三方よしの精神」がある。
「売り手によし」「買い手によし」「世間様によし」…
「他国で行商するからには、我が事のみに走らず、其の国の人を大切にして、私利を貪ること勿れ」
この言葉を家訓にした中村治兵衛は、”麻布”を信州に行商し、帰りに麻原料を仕入れて製品化し、また、
それを行商して歩いた。
滋賀県を本拠地に、天秤棒を担いで他国に出かけ、商品を売り歩く近江商人。
行く先々で大切にされることが、商いには不可欠だった。豪商になったとしても、
「1人勝ち」は禁物だったのです。
呉服商として成功した塚本喜左衛門家の家訓には、
「積善の家に必ず余慶あり」とある。これも
「1人勝ち」に対する戒めである。
「おごれる者は久しからず」
のことばを座右の銘にした松居遊見は、百姓の身分から大豪商になった…
「陰徳善事」に励んだ商人です。
畿内・尾州・遠州から仕入れた繰綿、麻を、信州・上州・江戸へ持ち下り、生糸・
綿布、紅花などを信州・奥羽から仕入れて、京阪・丹後・近江に売って商った。
江戸時代、商人の行動範囲は藩内に限られていた。しかし近江商人は、
行商をして全国各地を巡っていた。幕藩体制を乱す存在にもかかわらず、
藩から締め出しを食うことはなかった。各藩の名産品を他藩へ運び、
広げていったのが近江商人で…各藩から、歓迎される存在だったのです。
行商先の土地での経済貢献こそが、「世間によし」であり、
近江商人が各藩で行商を許される、最大の理由になったのです。
藤野四郎兵衛は、蝦夷の産物を全国に流通させ、急成長。松前藩から、
名字帯刀を許され、藩の御用商人になった。
四郎兵衛が納める運上金は、松前藩の出納総額の四分の一を占める至ったというから、四郎兵衛は、名実ともに大商人だったのです。
1836年の天保の大飢饉では、豪壮な屋敷を普請して窮民に仕事を与え、
窮民を飢饉から救済しようとしている。 これも「陰徳」
「世間によし」の、近江の商人魂の表れである。 泉秀樹
「近江商人に学ぶ」
最近の世相を見ると、私腹を肥やし悪事を働く商人は後を絶たず、役人は保身のために国民を欺き、
政治家は、己の政治生命に汲々として、
国家の将来を患うこと少なく、ひたすら”自利”
に走るのみで、
陰徳の精神がうかがえない…
ああ~嘆かわしい。