■和 解
6月15日車を運転中、ラジオからびっくりニュースが飛び込んできた。
高野山・真言宗の総本山金剛峯寺で執り行われた「宗主降誕会」に、比叡山・天台宗総本山延暦寺の座主が、
金剛峯寺の座主と並んで参列したのです。
高野山と比叡山は、開山以来1200年、日本仏教界の聖地として、宗教界最高の地位を分け合ってきた。
高野山を開山したのは弘法大師・空海。比叡山は最澄(さいちょう767~822)。
二人は共に中国に留学し、仏法修行。帰国後、二人の教えの違いから、以後1200年間一度も和することがなかった…
その両者が、硬い握手を交わして和解し、今後の交流を誓い合ったのです。
キリスト教にも、過去によく似た話があります。
1982年、ローマ教皇ヨハネス・パウルス2世がイギリスを訪問。
反目しあっていたバチカンと英国国教会が、450年ぶりに和解している。
676 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
~歴史から学ぶ~
「曹洞宗開祖・道元の歩いた道(2)」
道元禅師の作法は厳格。食事も掃除も、
日常生活のすべてが作法にのっとり、とりわけ坐禅は、ただひたすら坐り瞑想することが、悟りそのものであるとしている。その一方で道元は、
「欲心」を否定していなかった。
「広く追求せざるを名付けて小欲と為す。
多欲の人は多く利を求むるが故に、苦悩また多し」
とあるように、”多欲”は身を滅ぼすけれども、”少ない欲”はあってもいいと言っている。
人間、欲があるから生きていける。自分なりの欲をコントロールして、
「小欲知足」の生き方ができれば、争いや戦争がなくなり、
世の中が平和になると、説いているのです。
更に道元は説く…「受取するに限りを以ってするを称じて知足という」
と…。
受取ったもので満足すること。現在の境遇、
受取ったもので、満足できないような者は、
「天堂に処すといえども、
また意にかなわず」
つまり、どんな素晴らしい御殿に住んだとしても、
満足することはない…と言うのです。
他と比べるから貧になるのであって、比べたりしなければ、
不足に思うこともなく、
貧にはならない…このように説いている。
道元は晩年、ひそかに故郷の京都に戻り、亡くなっている。
亡くなる直前、
「是のところは即ち是れ道場」という言葉を残している。
とても苦しい死の床にあるとき、「ここが道場なのだ」
と言って、病を受け入れる。
どんなに苦しい病にあっても、「いずれ死ねば治る」と悟りきるのが禅である。
道元は、自らを高め続け、真理を求めようと、求道の生き方を貫いて、
徹底した。
「無常迅速 生死事大」
時の流れは速い…うかうかしていると、人生は終わってしまう。
だから一所懸命勉強して、修行して、自分の生きる意味、死ぬ意味を考えなさい。
つまり、人生の真理を求めなさいと言っているのです。
これがまさに人生の目的だったのでしょう…
その真理に出会う方法として、道元はひたすら”坐禅”を説くのです。
真理を求道していくと、
「我は何のために生きているか?」というところに行き着く。
真理に出会うことができると、心は穏やかになり、何の葛藤もなくなる。
そうやってこの世を終えることができれば、
それ以上の幸福はない…と。
どんなにお金を稼いでも、心理に出会うこと以上の幸福を、
手にすることはないのです。
「人生は短い、しかし道は深い」…道元は”仏道”を学ぶことで、生涯を貫き通した。
時間を惜しみ、与えられた人生を、命を、仏道一途に、
それ以外のことには目もくれず、激しい気迫で、自らの信じる道を歩み通したのです。
この気迫を…この生き方を…今に生きる私たちに教えてくれるのです。
月刊致知「道元の歩いてきた道」より