■「心身脱落/正法眼蔵」
「心身脱落」…この言葉は、道元禅師が留学僧として、宋の天童山・如浄禅師のもとで修行…悟りの境地に至り、「心身脱落した」と、
如浄禅師に答えたことからきている。
「心身脱落」の、脱落の”脱”は「一切の束縛から離脱したこと」
”落”は「重荷を下ろして軽々となった感じのこと」
つまり、一切のしがらみから脱して、心身共にさっぱりした境地を言い、一切を放下し、何の執着もない、
自由無碍の精神状態にあることをいう。
道元の言う”悟りの境地”とは…単に「心の煩悩」だけ悟るのではなく、「身体の煩悩」と合わせて”解脱”しなければならない…
としている。
「仏道をならうことは、自己をならうことなり。
自己をならうことは、
自己を忘れることなり」
674 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「曹洞宗”永平寺”の開祖/道元の歩いた道」
福井県といえば永平寺。誰が、いつ、何の目的で福井県の片田舎に建立したのか…そうした身近なことを、意外と知らないのです。
曹洞宗を開いて”永平寺の開祖”となった道元禅師…道元は、1200年に生まれ、1253年に没した。道元の一生は、激しく燃える求道の人生…学ぶためには命も惜しくないと、
一途に自らが信じる仏の道に一生をささげたのです。
三才で父親、八才で母親と死別した…道元、
初めて世の無常を感じたときです。
十三才で比叡山に入る。公円のもとで「得度」「受戒」して”仏法房道元”と称する。
当時の叡山は、時の権力と結託し、欲世での名声や利欲をむさぼる、
堕落した状態にあった。
失望した道元は、二年後山を下り、
正法を求めて建仁寺で修行。24才の時、
真の仏道を説く師を求めて、中国に渡る。道を探し求めて諸山遊歴の末、
26歳のとき天童山の如浄禅師に出会い、
28才で帰国するまで、
如浄禅師のもとで、 修行に励んでいる。
道元が天童寺で、如浄禅師に学んだ一番のことは、”心身脱落”
をしたことです。
帰国後、一度は建任寺に入るが、叡山の迫害を逃れて深草に隠棲…執筆に専念。
1233年、深草に興聖寺を開創する。その時道元の人柄に引かれて、九州から日本に禅の様式を伝えた棟梁が、
一党を連れて駆けつけている。
三年後に僧堂を建てて、禅の修行場を整備し、教団の拡大を図ったが、
道元を嫌う比叡山の圧力で、興聖寺は破壊され、道元は京都を追われてしまった。
命からがら逃れて、弟子たちと落ち着いた先が、
福井県越前…禅師43歳の時です。
吉峰寺を建て、翌年大仏寺を建て、
道元47才のとき”永平寺”と改名。
故郷の京都に帰ったのは、死の直前だった。
道元が説いた教えは、名誉や地位といった大欲を捨て、
ただひたすら坐禅する「只菅打座」。お経も上げず、
死者の霊を慰めることもなく、
ただひたすら坐禅修行を行い、”悟りの道”を求道し続けるのです。
月刊致知「道元の歩いてきた道」より