■昭和三十年代の出来事・流行歌
S30 映画「ローマの休日」で、ヘップバーンカットが流行
山手線ラッシュアワー…押し屋が登場
「月がとっても青いから」「この世の花」
S31 ホッピング流行 「鉄腕アトム」「鉄人28号」
「愛ちゃんはお嫁に」「哀愁列車」
S32 裕次郎「俺は待ってるぜ」人気で、リーゼント流行
「有楽町で逢いましょう」「東京だよおっ母さん」
S33 フラフープ大流行 東京タワー完成 ベビーブームですし詰め学級
「お~い中村君」「だから言ったじゃないの」「からたち日記」
S35 池田勇人首相…「所得倍増」「私はウソは申しません」
国民総バカンス
S36~37 植木等の「わかっちゃいるけどやめられない」「ハイそれま~でぇよ」
「巨人・大鵬・卵焼き」 TV普及1千万台突破
S38 東名高速道路開通
S39 東京オリンピック「ウルトラC」、「シェー」、東海道新幹線開通
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 672】
~私の昭和~ 「昭和三十年代(14~23歳)」
昭和三十年代は青春真っ只中…三十年代初めの頃の日本は、戦後の貧しさがまだ続いていた。昭和30年… 戦前から十数年続いた我が家の朝食"芋粥"が、ようやく麦入りの白いご飯になった。
三十年代半ばになると、復興期を乗り切った日本が、経済的に大きく発展し、様々な可能性を広げていった。
暮らしを豊かにする魅力的商品が次々発売され、平和を肌で感ずるようになった。
当時、神社のお祭りは人で溢れるほどにぎわったが、どこのお祭でも、片足義足の傷痍軍人が鳥居の下で松葉杖をつき、
首から募金箱を下げて立っていた。
徐々に生活にゆとりが出て、食だけでなく、衣類・日用品・電化製品などが買い揃えられ、暮らしにゆとりが感じられるようになった。
昭和31年、その年高校を卒業する兄は、父親に「商人に学問は不要…学費は出せない」と言われ、大学を断念…
某大手銀行金沢支店に就職した(学歴がないことが、その後の出世を妨げた)。 4年後…私の時は大学受験OKだった。
上部にローラー絞り器が付いた洗濯機、扇風機、電気コタツ、掃除機…次々買い揃えていった。電器釜は、
毎朝薪でご飯を炊く手間が省け、洗濯機は家事にゆとりをもたらした。
大家族の我が家…家事一切を切り盛りする母には、どんなに有りがたかったか…。
更に、トランジスタラジオ、レコードプレーヤー、カメラ、ミシンなど…家の中が豊かになっていった。手回しのエンピツ削り器が出回り、
安価なソノシート(簡易レコード盤)で、当時流行したラテン・ミュージックを楽しんだのも、この頃。
"神武以来"と言われる好景気が続き、消費を刺激…
政府は昭和31年、「もはや戦後ではない」を宣言…家電メーカーや、自動車の大衆化が成長を支えた。大村昆のダイハツ・
ミゼットのTVコマーシャルが、印象に残っている。
機会さえあれば、誰もが豊かになれる…誰もが夢が描ける…そんな時代になったのです。昭和33年、長島選手が巨人入団。翌年王選手入団…
巨人軍ON全盛期の幕開けです…同年、インスタント・チキンラーメン発売…35円だった。
昭和32年、MRO放送がテレビ普及のため、私の家の隣にショールームを開設。
ウインドウに、テレビが横に3台、縦に3段・ズラッと並べられ、受信映像をデモンストレーションした。相撲は大鵬、
プロレスは力道山が大活躍…中継を見ようと、ショールームの前は人垣ができた…。
昭和31年当時…公務員の月給は1万7千円。観音開きの扉が付いたテレビが48万円…庶民には高嶺の花だった。
14インチTVが家庭に普及したのは、昭和34年、皇太子・美智子さんの結婚…ミッチーブーム以降…
東京オリンピック直前の昭和37~38年に、急速に普及した。
そして我が家にもテレビがやってきた…茶の間に据えられ、どん帳がまくられる。
映画館のように、茶の間を暗くして映された映像…やたらとまぶしかった。