■四書の一冊「中庸」
曽子27歳のとき、孔子は73歳で亡くなりました。
孔子には、長男の"鯉(り)"はすでに亡く、"子思"という孫がいました。
10歳前後であったようです。
孔子は曽子に、子思のことを懇々と頼んで亡くなりました。
「子思の面倒をみてやってくれ、そして、彼を教えてやってもらいたい」
曽子は、孔子の教えを伝え残した人ですが、先生の言に違うことなく、
心を込めて、お孫さんを教育しました。
子思は立派に成長して、お爺さんの孔子の心がよく読み取れるようになりました。
孔子が生前、表面上説くことのなかった、心の内を体系化して、「中庸」を著した
のです。
子思亡き後、孔子の教えは"孟子"や"荀子"の思想に引き継がれていきます。
伊与田 覚「理念と経営/論語の対話」より
【心と体の健康情報 - 658】
~孔子の教え(21)~
「四書"中庸"とは」
モノゴトには、必ず「本(根本)」と「末(末梢)」があります。
立派な人間になろうと、「知識」や「技能」を身につけることは大切ですが、「道徳」「習慣」といった、人としての根っ子の部分…つまり
「人間学」をおろそかにしては、「人として成る」ことはありません。
四書の一冊で、中学のテキストである「中庸」は、「異なるものを結び、創造する」"調和"の学であり、"創造"の学です。
同質な考え方をする人ばかりでは、大きな力にはなりません。多くの異質の個性ある人物を集めて調和し、
そこに大きな働きを生じさせることが大切なのです。
ですから「中庸」は、人の上に立つ立場の人が学ぶ学問といえます。
大工も棟梁になれば、いつまでも、自分の腕を光らせているようではいけない。
自分の優れた腕を捨て、優れた腕を持った若者を育て、生かしていくのが、棟梁の大切な仕事になってくるのです。
先週末、三国志・赤壁の戦い「レッドクリフ・後編」を鑑賞した。
三国志の主役の1人"劉備"は、高い徳を具えた高潔な人柄に加え、「異なるものを結び、創造する」"調和と創造"の能力に優れていた…。
故に、張飛、関羽、趙雲といった異質の個性の強い武人や、諸葛孔明という、世に2人とない軍師を従えることができたのです。
対する魏の"曹操"をして、「我が軍に、あのような部下が1人でもいたなら…」と嘆かせる…そんなシーンが前編にあった。
孔子には三千人の門下生がいた。後継の弟子として大きな望みをかけていた"顔回"が、孔子70歳の時に、
40歳の若さで亡くなってしまった。
その時孔子…「天 予(われ)を喪
(ほろ)ぼせり」と、慟哭(どうこく)している。
四書の一つ「大学」は、孔子の弟子"曽子"が、孔子の教えを素直に受け継いで、孔子の思想を後世に残そうと、著した書物です。
「中庸」は、曽子の弟子で、孔子の孫にあたる"子思"が著したものです。
いい孫をもった孔子は幸せです。
伊与田 覚「理念と経営・論語の対話」より