■ 不景気風が吹く今…
不景気風が肌で感じられるようになり、先き行に対する不安がつのってきている。
企業の倒産件数も過去最大になった。
入りに見合う出…「商いが少ないい時は、出を抑え、無駄を省き、質素倹約に努めるのが商人」…小さい頃、父親が言っていた言葉です。
子供の頃の食事は粗末だった。白いご飯が食べられるようになったのは、戦後十年くらい後である。御飯のおかずにカレイの煮付け…
今ならステーキだろう。
身をきれいにほぐして食べ、皿に残った骨にお湯をかけ、そのスープをすする…母は、骨を捨てずにこんがり焼いて、炒りゴマを混ぜ、
ご飯のふりかけにした。
茶の間には裸電球が一つ…クーラーも暖房器も、テレビも自家用車もなかった。
中学を出るまで、うどん屋の暖簾をくぐった記憶がない。
贅沢な暮らしにどっぷり浸った今の暮らし…お金がないと、生きていくのが辛い世の中だ。貧しさを知る私たちの世代は、
貧しさに耐えていく自信がある…。
豊かなバブル期に育った世代には、辛く厳しい世の中になっていくことを、覚悟しなければならない。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 651】
~私の昭和~「大家族の幼年時代」
私は昭和16年生まれ。香林坊の小さな商店の、7人兄弟の四番目に生まれた。
私の父…シナ事変で兵隊に取られた。戦地から帰ったら、勤めていた会社「粟ヶ崎遊園(宝塚を模して作った)」が、
戦時閉鎖で無くなっていた。
父は、生活のために、麻紐・ロープの小商いを始めた。どの家庭にも必要で、ライバルのお店も少ない…商いになると考えたようです。
昭和21年…満州から引き揚げてきた叔父家族4人と、私の家族、合わせて13人が一つ屋根の下で暮らした。
父はしつけに厳しく、風邪を引かない体になるからと、冬でも薄着をさせられた。
*「おはようございます」「お休みなさい」を、きちんと手をついて言わされた。
*食事は、最初に父親が箸を取り、全員揃って「いただきます」と言うまで、食べられなかった。
*履物を揃え、脱いだ着物は枕元に畳んで置くよう躾けられた。
食事に好き嫌いをしたり不平を言うと、厳しく叱られた。
こぼしたご飯は拾って食べ、「お百姓さんに感謝して食べなさい、罰があたる」が、お婆ちゃんの口癖だった。人様に迷惑をかける行為には、
とりわけ厳しかった。
どの家も子沢山で貧しかった。私は、身を粉にして働く両親の姿を見て育った。
父母は365日一日も休まず、元旦の午後にはもう算盤をはじいて、帳付けをしていた。
食事中、どこから入ってくるのか、アラレがパラパラ落ちてきた。国道に面した二階の窓は障子張りで、朝、目が覚めると、
枕元に吹き込んだ雪が、積もっていた。
母は、毎朝5時に起きて6人分の弁当を作り、子ども達に持たせた。
給食が始まったのは、小学三年の昭和26年…コッペパンに脱脂粉乳、ほとんど具のない味噌汁…白いウジが何匹も浮いていた。
お婆ちゃんは、朝6時に店を開け、家の周り・隣近所を掃き清め、ジョロで水を撒いた。茶の間と店の間に覗き窓があり、食事中・
客が入って来ると、店に立つのは母だった…夜は、子ども達の着物をつくろい、夜遅くまで身を粉にして働いていた。
兄弟は分担して家事を手伝った。洗濯機も、冷蔵庫も、掃除機も無かった時代です。私は、毎朝かまどに薪をくべ、二升釜のご飯を炊いた。
「初めちょろちょろ、なかパッパ、赤子泣くともフタ取るな」…今も、ご飯を炊くのは上手いと思う。
炭を切ったり、お使いに行くのが私の役割…家族みんな助け合って暮らしを支えた。
寒いのは我慢出来た。しかし夏の夜…蚊帳の中は暑苦しく、眠れなかった。
母親の実家から届けられたスイカを、家の井戸で冷やし、家族みんなで切り分けて食べた…暑い夏には、最高のご馳走だった。
冷蔵庫が無かった時代です。小学五年の夏、夜食べた魚で、家族全員疫痢になった。夜中に医者がやって来た。ただ1人元気だっ私は、
氷を砕いて水枕に入れるなど、看病を手伝わされた。
中学三年、昭和32年まで、朝は、さつま芋が入った芋粥、夜は、麦3分のご飯を食べていた。おやつも芋…芋が、
育ち盛りで食欲旺盛な兄弟のお腹を満たしたのです。
当時は、どの家庭も似たようなもの…それぞれの家庭が…学校が…隣近所が…
小さな社会になって、助け合って暮らした…幸福だった。犯罪もなく、夜、家に鍵を掛ける習慣がなかった…60年前の私たちの暮らしです。