■"徳の人"松下幸之助 伊与田 覚
昭和35~6年頃、松下幸之助がまだ社長の時期でしたが、私たちの会で講義をしていただいたことがあります。
じっと耳を傾けておりましたら、「大学」の教えを講説しているように感じ取れましたので、「いつ"大学"を勉強されましたか?」と尋ねたら、
「いや、私は小学校四年を出るか出ないかなので、そんな難しい本を読んだことがありません」と言われた。
その時私は、「この方は人から聞き、多くの書物を読んで知ったのではなく、天から直接聞いたのだ…」と直感しました。
幸之助翁は85歳の時、松下政経塾を創られました。
塾生たちは大学を卒業した優秀な人ばかりだけど、絶えず言われたことは、「掃除はしておるか」「素直な心になれ」という、簡単な言葉でした。
「掃除をする」ことと「素直な心になる」ことは共通しています。
汚れたものをきれいに掃き清め、拭き清めれば、おのずから本来の姿が表れてくる。それは「素直な心」にも繋がり、「明徳を明らかにする」
に通じているのです。
孔子の教えは、例えば禅宗のように、特別の行を行うのではなく、日常の生活を正しく積み重ねることで、 その境地に到達しようとするものです。
【心と体の健康情報 - 610】
~古典から学ぶ~ 孔子の教え(20)
「大学の道は 明徳を明らかにするに在り…」
物事には必ず「本(根本)」と「末(末梢)」があります。
もそうで、根・幹・枝・葉と分かれ、しかもそれは、種のとき既に因子として備わっています。根は「本」、幹・枝・葉は「末」になります。
根がしっかり地中に這っていないと、幹・枝・葉は育たないし、根が弱ければ枯れてしまいます。
「大学」に、「物に本末有り」がある。立派な人間になろうと、「知識」や「技能」 を身につけることは大切ですが、「道徳」「習慣」といった、人としての根っ子の部分…つまり「人間学」をおろそかにしては、 「人として成る」ことはありません。
ですから「立派な社会人」になるには、「道徳」「習慣」といった"徳性"を育てなければなりません。それに対し、
その時代を生きるために身に付けるものが、「知識」「技能」になるのです。
こうした「道徳」「習慣」「知識」「技能」は、生まれながらに備わっている"知能"の働きによって、生まれてから後に、
吸収していくものです。
その中にも「本」と「末」の働きがあります。道徳や習慣が「本」、知識や技能が「末」…道徳・習慣を学ぶことが「本学」で、
その学問を「人間学」と言います。
一方、知識・技能を学ぶことは「末学」になり、「末学」を習得するのに必要な学問を「時務学」
と言います。
論語は、「子曰わく 学びて時に之を習う 亦よろこばしからずや
朋(とも)遠方より来る有り…」から始まります。
「大学」は、「大学の道は 明徳を明らかにするに在り…」から始まります。
「大学」は「大人(たいじん)の学」と言い、自分が立派な人間になり、人にも良い影響を与える学問です。
「人間学」を学ぶ目的は、「明徳を明らかにする」ことにあります。
「明徳を明らかにする」には…我を取り去り、私を取り去り、欲を取り去る必要があります。これは、人間学の根底をなします。
ですから人間学は、自らの内面にある「我・私・欲」を"取り去る学問"で、知識・技能を習得する
「時務学」のように、積み重ねる学問ではありません。
伊与田 覚「理念と経営・論語の対話」より
※「大学」
「大学」は、孔子の弟子"曽参"の作とされ、南宋時代「論語」「中庸」「孟子」と
同列の"四書"の一つとして、四書を学ぶ最初に置いて、儒学入門の書とした。
「論語」と「大学」は、孔子の教えを的確に示す書物として重用されてきました。