■"わだち"を同じにする
「今 天下 車 轍(わだち)を同じくし 書 文を同じくし 行 倫を同じくす」
(中 庸)
「今、天下は車のわだちの幅は同じ、書物の文字は同じ、人々の行いの規範も
同じになっている」
始皇帝が天下統一するに際し、全国同じ文字にし、法律を定め、
車のわだち幅を同じにした。
それまでの戦国の世は、国によってわだちの巾はまちまちだった。
他国から攻め込まれた時、わだちの巾が違えば、片方の車輪が傾いて、
転覆してしまいます。侵攻を妨げ、防衛に役立ったのです。
わだちの巾が違えば、商人は国境で荷物を別の車に積み替えねばなりません。
国は、通行税を徴収して、財政を潤わすことができます。
ローマ帝国が、軍用道路の整備に力を注いだように、天下を治めるには、兵隊や物資を、目的地に速やかに運ばなければなりません。
そのためには、わだちの巾を統一する必要があったのです。
【心と体の健康情報 - 599】
~古典から学ぶ~ 「中庸に学ぶ」
江戸時代、町人や農民の子は、寺子屋で「習字手習い」と「論語」を学んだ。
武士の子は、藩校で「四書(論語・大学・中庸・孟子)」を学んだ。
<藩校のテキスト>
小学は『小学』が、中学は『中庸』が、大学は『大学』という教科書で学んだ。
「小学」というのは小人の学です。
人としてわきまえておくべき基本的なことを学ぶ学問です。
「中庸」は、異質のものを結んで、
新しいものをつくる調和の学問であり、
創造・造化の学です。孔子の孫"子思"(前483?~402?)の作といわれています。
「大学」は、大人(たいじん)の学です…「修己治人の学」です。
「人
一たびにして 之を能(よ)くすれば 己(おのれ)之を百たびす。
人 十たびにして 之を能(よ)くすれば 己(おのれ)之を千たびす」
[中 庸]
「人が一度で身に付けることを、自分は百たびやって身に付ける。
人が十たびするのであれば、自分は千たびやって、これを身に付ける」
という意味ですが、「中庸」では"善"を行い、"徳"を身に付けたいがための言葉である。
例えば、人が一冊の本を一度で読みこなすなら、自分はその本を十回読むようにする。
そうすれば、相手がどんなに優れていても、その人に劣ることはなくなるであろう…そのように教えているのです。
また、単に人との競争うんぬんではなく、自らの研鑽のために…やるからには通り一遍に済ますのではなく、"とことんやる"。 そこで、おのずから道が開けてくると、教えているのです。何事も、ヤルと決めたことは、明らかに結果が出るまで、 やり通さなければなりません。
子どもの頃、私は"運動音痴"でした。これが劣等感になり、引っ込み思案な性格になった。そこで、人が三日で覚えることを、 その何倍も…身体が覚えるまで根気よくやり続ける…そうすることで、人並みになろうとした…。
ゴルフがその良い例…5年前、道具と靴一式買い揃え、上手くなろうと練習を始めた…最近になって、
ようやく100を切るところまで来た。
パターの練習は始めたばかり。飛距離を出すスイングルーティーンは、まだよく分からない。寄せを身に付けるのもこれから…
一つひとつ課題を設けて、繰り返し練習していけば、何れ人並のスコアを出せるようになるだろう…。