■心に残ることば
「修身教授録」で知られる、教育者の故"森 信三"先生は、
人との出会いについて、次の言葉を残している。
「人間は一生のうち 逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬早過ぎず 一瞬遅すぎない時に…」
人生を振り返ると…
大きな岐路に指しかかった時、志を立て、何かに挑戦し始めた時、
なくてはならない人が現れてきて…手を差し伸べ、援助してくれる。
遅過ぎず、早過ぎず…
最も必要な時に、かけがえのない人との出逢いがあるのです。
その後、目的が叶えられると、「もう用はないでしょう」と言わんばかりに、
スゥ~と、その人は離れていく。
何度となく、そのような体験をした…"縁"とは不思議なものです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 592】
~歴史から学ぶ~ 「生ましめんかな…」
東京の繁華街で…1945年の8月6日と9日、日本に何が起きたのか?
若者にマイクが向けられる。「何だろう?地震とか…」誰も答えられない。
今、原爆投下を知らない若者が4割を占め、日本がアメリカと戦争したことを
知らない中・高生が、増えてきているという。
一方で、悲惨な戦争体験、原爆体験を伝える語り部が、80歳を超え、老齢化していく。
栗原貞子さん(1913~2005)は、生涯を原爆の非人間性を告白し続けた
反核・反戦詩人として知られる。
1945年8月6日、32歳のとき爆心地から約4キロの自宅で被爆。
その夜広島市内に入り、惨状を目の当たりにする。
その時、広島貯金支局の地下室で、産気づいた被爆者を、重傷を負った産婆が立ち会い、赤ちゃんを誕生させた…という話しを聞いた。
その感動を、「生ましめんかな」という詩に書いて発表…大きな反響を呼んだ。
■「生ましめんかな」 反戦詩人 栗原貞子
こわれたビルディングの地下室の夜であった。 この地獄のような地下室で、今、若い女が産気づいているのだ。 と、「私が産婆です。私が産ませましょう」と言ったのは、 |
赤ちゃんは女の子で、"和子"と名づけられた。誕生日は原爆投下の2日後。
現在、息子さんと広島市内で、食事と酒の店を営んでいて、もうすぐ63歳になる。
しかし子ども達には、一度も被爆体験を語らなかった。
暗がりの地下室で生まれた和子さんは、高校に上るまで、自分が詩のモデルであることを知らずにいた。胎内被爆した娘であることを、 世間に知られないようにとの、母親の気遣いだったのです…。
今は、母の詩が朗読されると、生まれ出る自分のことではなく、地獄のような夜の暗がりで、命がけで産んでくれた母の身になって、
また、赤ちゃんを取り上げた後、死んでいった産婆さんの身になって…聴くという。
何度聴いても涙が溢れてくる。
「地下室の産声」は、いつまでも言葉なき語り部であり続けるだろう。