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2008年08月 アーカイブ

2008年08月01日

錯覚の愛情

■「経営は凧揚げと一緒やで」

松下幸之助翁は、「経営は凧揚げと一緒やで」と、経営を凧揚げに例えて話をした。

・「風」は    … 経済(景気の風・不景気の風)
・「凧」は    … 会社
・「凧の紙」は … 社員
・「凧の骨」は … 幹部社員
・「糸」は    … 経営理念
・「糸を引っ張っている人」は … 社長
・「凧に付けた足」は      … 研修
(一本より二本の方が、凧は安定する)

幸之助は付け加えて…
「風なんかなくても、凧は揚がるで…
高く揚げようと念じて、糸を持って走ったらええ…」

松下幸之助・伝習録から



【心と体の健康情報 - 589】
~子育て心理学~ 「錯覚の愛情」

今どきの若者…命の尊厳を知らず、自己中心的で社会性に欠け、礼儀作法も上下関係も無頓着…そんな若者が目立つ…育てたのは、 私たち親の世代です。だから、子どもの教育をあれこれ言う前に、親である私たちを再教育する必要があるようです。
「今週の倫理・551号/錯覚の愛情」は、そのことを考えさせてくれます。
私たちの多くは「愛情がすべてを救う」と信じてきましたし、それが家族の絆であるとも思ってきました。ところがここ数年、 愛情豊かに育てられた子どもたちが起こす問題は、これら常識に警鐘を鳴らし始めているのです。

例を挙げれば、「子どもが欲しがる物を買い与える」行為を、愛情だと思ってきた。その行為…果たして正しかったのでしょうか? 錯覚ではなかったのか?…私たちは、強く反省すべきではないでしょうか。
T社長は、1人息子S夫に、愛情をいっぱい注いで育てた。暇をみては遊んでやり、欲しがるものは何でも買い与えてきた。
S夫は明るく伸び伸びと成長し、成績はいつも上位でした。ところが高校二年生の頃から、学校の帰りが遅くなりはじめ、 遅刻や欠席が目立つようになった。
当然のごとく成績は落ち、学校から呼び出しを受けるようになった。

そこでT社長は、S夫と話し合ったが、結局「バイクを買ってくれたら早く帰る」と約束しただけで終った。が、 S夫の生活が改まったのは、せいぜい半月ぐらい…元の木阿弥どころか、バイクを通して、さらに悪化していったのです。
T社長は、体罰も辞さずの心境で、帰りを待った。ところがS夫の顔を見ると、〈家出されたらという〉不安が先にたち、 厳しい言葉は何も出てきませんでした。

倫理法人会のセミナーに参加した折り、講師に自分の不甲斐なさを相談した。
講師は、「息子への愛情の錯覚は、父親である貴方が、若い頃の父親への不満の裏返しです。貴方は 十五、六歳頃に、 お父さんを激しく恨んだことがあるはず…そのために、その年頃になった息子に、父親としての自分を示すことが出来ないのです」と、 指摘されました。

確かにT社長は、高校卒業後の進路について父と激しく衝突し、父の「今日限りで勘当だ」との声を背に、家出同然に上京した。 苦学を重ねて大学を卒業し、日夜懸命に働いて、お金を貯め、現在の会社を創り上げたのです。

やがて経営も順調となり、十数年ぶりに勘当が解かれ、父親に再会できたものの…胸の奥のしこりは、残ったままでした。

T社長は帰郷し、年老いた父の前に座り、恨んでいたことを詫びた。
父親は、「勘当せずには、息子の上京を受け入れることができなかったし、また、背水の陣で頑張ってほしいという願いもあった」と、 当時の心の内を語ってくれた。
母親からも、「父さんはね、毎日仏壇の前で、あんたの無事を祈っていたのよ」と聞き、やっと親の愛を自覚することができたのです。

早速T社長は、S夫に親としての毅然とした態度を示しました。以来S夫中心だった家庭が、夫婦中心へと変わっていった。 それからのS夫は、生活姿勢もすっかり改まり、無事に高校・大学を経て、父親の会社で元気に働くようになったのです。
私たちの子どもの頃、家庭が貧しかった故に、自らが親に求めて得られなかったことを、自分の子どもには、同じ思いをさせまいとし、 そうすることが愛情であると、錯覚していたようです。

"感謝のない優しさ"は、子どもへの「甘やかし」となり、"厳しさ"は「押しつけ」と、子ども達には映って見えるのです。
子どもに対する愛情は、親自ら「両親への恩」を、子どもに示すことによって、初めて伝わるものなのです。

2008年08月05日

金沢が空襲に遭わなかったわけ?

■昭和二十年、終戦直前の思い出

昭和二十年春、当時私は三歳。満州事変で出兵し、傷痍軍人になって帰郷した父は、病が癒え、香林坊の自宅で、ロープ・ 梱包材料の商いを始めていた。
店は畳敷き。手回しの機械をコロコロ回して、麻ヒモの玉を巻き直ししている父の姿を記憶している。
戦争の影はわが家にも及び始めた。隣家の軒先にはいつも、村田銃を担ぎ、キャハンを巻いた兵隊さんが、数人屯していた。 向かいのNさんの家は、空襲時延焼を防ぐためと、強制取り壊しに遭い、引っ越していった。

各家、防空壕を掘らされた。私の家は、店の造作を取り壊して床に穴を掘り、形ばかりの防空壕を作った。 掘っているところを覗いていた私…こんな小さな洞穴…爆弾が落ちたら、焼き芋みたいになってしまうだろう…と、子どもながらに思った。
6月、母は祖母・姉と兄、そして私を連れ、弟をおぶって、金沢山手の母親の実家の、農家の納屋の2階へ疎開した。
その頃、夜中に何度も空襲警報が鳴り、頭上をB29が飛んでいった。

暑い夏の夜更け、物凄い数の飛行機がやってきて、富山の空が真っ赤に燃え上がるのを 見た。ポコン・ ボコンと焼夷弾が落とされるたびに、医王山が炎に浮かび上がる…
60年経た今も、脳裏の奥深く…忘れることがない。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 590】
~歴史から学ぶ~
「金沢が空襲に遭わなかったわけ?」

我が故郷金沢…一発の焼夷弾も落とされず、一人の被災者も出さず、空襲に遭うことなく終戦を迎えた。
もし空襲されていたら、市の中心部にある私の家は、焼けて無くなっていただろう。
米軍の資料によれば、金沢は、爆撃対象から除外されていたという。
その理由を求めると、金沢は第九師団がある軍都でありながら、当時師団が台湾に駐留していたため、兵卒はもぬけの殻… 極めて戦略価値が低かった…という説。

米軍の機密文書によれば、石川県の爆撃目標は、国鉄松任工場と、七尾港の2ヶ所だけ。それに対し、富山県は、不二越本社工場、 日満アルミニウム富山工場など、
工場8ヶ所、港湾3ヶ所、水力発電所10ヶ所、変電所1ヶ所の計22ヶ所もあった。
工業県としての圧倒的な実力の差が、石川と富山の明暗を分けることになった。

昭和19年秋から終戦まで、全国で、米空軍の焼夷弾攻撃にさらされた都市は、58ヶ所にのぼる。福井市は、 20年7月19日に焦土と化し、次は金沢と、誰もが覚悟した。
ところが8月2日、B29の編隊は、金沢の上空を通り過ぎて、富山市に1万2千7百発の焼夷弾を雨アラレと投下した。 11万人が焼け出され、2,776人の死者が出た。
市の焼失面積は95%、焼失率全国一の焼け野原になった。
2005年8月12日・なんだかんだ89「富山大空襲」

金沢が空襲をまぬがれたのは、原爆投下の実験候補地として、無傷のまま残したかったから…と、 まことしやかに噂されたこともあった。
逆に米軍は、歴史的街並みを残す金沢や京都への爆撃をためらい、保護しようとした…との見方もあるが、それはかいかぶりというもの。
あの姫路城も焼夷弾にさらされたが、炎上しなかったことで知られている。
終戦がもう少し先に伸びていたら、金沢も無事では済まされなかったと思う。

昨年、アメリカの日系3世が制作した、ドキュメンタリー映画 「ヒロシマ・ナガサキ」の冒頭のシーン…東京渋谷の雑踏の中で、 若者達に「8月6日は何の日?」と質問をぶつけたが、誰一人答えられなかった。

近頃の若者は、原爆投下の日など意識になく、関心を持とうともしない。
原爆投下で、何十万人もの死者を出し、今も尚、後遺症に苦しむ人がいることを…「自分には関係ない」と、他国の出来事のように、無関心… 。

当然、歴史にも興味を示さない…平和ボケの日本人。
日本人であれば忘れてはならない大東亜戦争。
遠い昔の出来事として、忘れ去られてしまっている。
お盆を真近にした護国神社…国を守り、命を捧げ、死んでいった人達を追悼し、手を合わす人影はまばら…今の日本の姿を見たら、 浮かばれないことだろう。

2008年08月08日

「ありがとう」のことば

■心に残ることば
★NHK土曜ドラマ「マチベン」"安楽死を裁けますか?"から…

「誰かのための人生ではなく、自分のための人生でありたい」
「自分のための人生ではなく、誰かのお役に立つ人生でありたい」

さて、あなたの人生はどっち?
どちらの人生にも、その生き方には、深い意味があると思うのです…。

  • 私の母親…16歳で嫁ぎ、角隠しの下から、 初めて夫となる人の顔を見たという。
    夫が74歳で亡くなるまで…夫と姑に仕え、6人の子どもを育てあげ、したいことも我慢して、ひたすら家族の為に尽くし抜いた人生でした。
  • 広島県呉の、旧海軍仕官学校を訪れ、2700柱の特攻英霊の遺書・遺品を見て…今に生きる私たち… 国のために散っていった若者たちの念いを、無駄にしてはならないと思う。



【心と体の健康情報 - 591】
~幸せな人生を歩むために~「ありがとう」のことば

ありがとうは 人の心を動かす魔法の言葉
ありがとうは 人間の最大の喜びの表現
ありがとうは 慢心しがちな自分を、 謙虚な自分へと導いてくれる

我が社は来年3月、起業30周年を迎える。
共に歩んできた代理店の皆様と、7月から「30周年ありがとう」キャンペーンを実施している。
「ありがとう」…"感謝の心"が湧き出てくるこのことば…日本語で、最も美しいことばと言われている。

ありがとうで心に残るのは、亡き昭和天皇… 左手で帽子をちょこっと持ち上げ、頭を下げて「あ・り・が・と・う」…よく見うけられた光景です。

ありがとうを言う…その奥には、相手に対する感謝の心があります。
感謝の心は、謙虚な気持ちから生まれてきます。ですから「ありがとう」と「感謝」と「謙虚」はひとつにつながっていて、 ありがとうは、言った人の人柄をより高める働きがあります。

修養団の中山靖雄先生は、ありがとうの反対語は、「当たり前」と言っている。
「不満」ではなくて、「当たり前」が反対語になるのです。
豊かで、平和な時代を満喫して暮す私たち。欲しいものは、何でも当たり前に手に入る。
そして、知らず知らずのうちに、「感謝の心」を忘れてしまっている。

近頃の世相を見ると、今まで「当たり前」に思われていたことが、壊れ始めている。
今までのように、欲しいものが当たり前に、手に入らない時代になろうとしている。
そのことを不平に思い、人のせいにし、犯罪に走る者も出てくる。

贅沢な暮らしにどっぷり浸っていながら、尚不足に思う私たち。
これから先の世の中…年を追うごとに暮しにくくなるだろう。
入りに見合う質素な暮らしに、生活のスタンスを切り替えていかなければならないが、容易ではない。

アメリカでは、道を歩いていて肩がちょっと触れただけでも「エクスキューズミー」の声が返ってくる。とっさに応えようとするが… 「ユアー・ウェルカム」が、声にならない。
エレベーターに乗り合わせて、見ず知らずの人に「グッドモーニング」…笑顔の挨拶を交わすアメリカ人。
日本では、同様にエレベーターに乗り合わせても、見ず知らずの人と挨拶を交わすことは無い。エレべーター内の、 あの気まずい沈黙を無くすには、率先して「おはようございます」「こんにちわ」と、笑顔の声掛けをすることでしょう…。

いつも習慣的にありがとうを言っている子どもは、脳のある部分が発達して、 感性豊かな人間に成長するという。
反対に、日頃「死ね!」「きたない!」など、相手を罵倒する言葉を使っているイジメっ子は、脳の感性をつかさどる部分の発達が遅れる… と、学会で報告されている。
ありがとうと、声をかけた水の結晶が…こんなに美しく、 「ばかやろう」を投げかけた水の結晶が…こんなに乱れ醜いとは。"水の不思議"を知った時の驚きを思い起こす。
人体の70%が"水"。いつもありがとうと、感謝の心で接していると、あなたは…。

ありがとうの結晶とばかやろうの結晶

2008年08月12日

生ましめんかな…

■心に残ることば

「修身教授録」で知られる、教育者の故"森 信三"先生は、
人との出会いについて、次の言葉を残している。

「人間は一生のうち 逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬早過ぎず 一瞬遅すぎない時に…」

人生を振り返ると…
大きな岐路に指しかかった時、志を立て、何かに挑戦し始めた時、
なくてはならない人が現れてきて…手を差し伸べ、援助してくれる。
遅過ぎず、早過ぎず…
最も必要な時に、かけがえのない人との出逢いがあるのです。

その後、目的が叶えられると、「もう用はないでしょう」と言わんばかりに、
スゥ~と、その人は離れていく。
何度となく、そのような体験をした…"縁"とは不思議なものです。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 592】
~歴史から学ぶ~ 「生ましめんかな…」

東京の繁華街で…1945年の8月6日と9日、日本に何が起きたのか?
若者にマイクが向けられる。「何だろう?地震とか…」誰も答えられない。

今、原爆投下を知らない若者が4割を占め、日本がアメリカと戦争したことを
知らない中・高生が、増えてきているという。
一方で、悲惨な戦争体験、原爆体験を伝える語り部が、80歳を超え、老齢化していく。

栗原貞子さん(1913~2005)は、生涯を原爆の非人間性を告白し続けた
反核・反戦詩人として知られる。
1945年8月6日、32歳のとき爆心地から約4キロの自宅で被爆。
その夜広島市内に入り、惨状を目の当たりにする。

その時、広島貯金支局の地下室で、産気づいた被爆者を、重傷を負った産婆が立ち会い、赤ちゃんを誕生させた…という話しを聞いた。
その感動を、「生ましめんかな」という詩に書いて発表…大きな反響を呼んだ。

■「生ましめんかな」     反戦詩人 栗原貞子

こわれたビルディングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は、真っ暗な、ローソク一本ない地下室を埋めて、
いっぱいだった。
生臭い血の匂い、死臭、汗臭い人いきれ、うめき声…。
その中から、不思議な声が聞こえて来た。
「赤ちゃんが生まれる」と云うのだ。

この地獄のような地下室で、今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ一本ない暗がりの中で、どうしたらいいのだろう。
人々は、自分の痛みを忘れて、気づかった。

と、「私が産婆です。私が産ませましょう」と言ったのは、
さっきまでうめいていた重傷の女性。
かくて、暗がりの地獄の底で、新しい生命が誕生した。
かくて、暁を待たず、産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな…生ましめんかな…己が命捨つとも

赤ちゃんは女の子で、"和子"と名づけられた。誕生日は原爆投下の2日後。
現在、息子さんと広島市内で、食事と酒の店を営んでいて、もうすぐ63歳になる。
しかし子ども達には、一度も被爆体験を語らなかった。

暗がりの地下室で生まれた和子さんは、高校に上るまで、自分が詩のモデルであることを知らずにいた。胎内被爆した娘であることを、 世間に知られないようにとの、母親の気遣いだったのです…。

今は、母の詩が朗読されると、生まれ出る自分のことではなく、地獄のような夜の暗がりで、命がけで産んでくれた母の身になって、 また、赤ちゃんを取り上げた後、死んでいった産婆さんの身になって…聴くという。
何度聴いても涙が溢れてくる。
「地下室の産声」は、いつまでも言葉なき語り部であり続けるだろう。

2008年08月19日

間食のとり過ぎによる弊害

■「すすり込む」は、日本の食文化

食欲のない夏は"ざるソバ"に限る。
そのソバを美味しく食べるには、音を立ててすするに限る!
空気と一緒にすすり込んだとき、味と香りを堪能できるのです。

「噛む」「飲む」の中間程度に、ほどよく口の中で転がして、喉ごしを楽しむ…
これを「手繰(たぐ)る」という。「すすり込む」のは、日本人ならではの食文化なのです。
日本食には汁ものが多い。音を立ててすする食べ方をしても、食事マナーに反したりしない。ところが西欧では、大きな音を立てて食事をしたり、 ぶどう酒を一滴も残さず飲み干すのは、卑しい振る舞いに見られる。

西欧の食事マナーを知らない日本の団体観光客…パリの三ツ星レストランで、フランス料理を楽しんだ。最初に出されたスープ、 フォークを口に持ってきてつい、「ズズ~」「チュチュ~」とすすり込む。
地元の客のヒンシュクを買っては大変と、レストラン。
以後、日本のお客様は、一番奥まった別室か、片隅で召し上がっていただくことにした…。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 593】
~食と健康~ 「間食のとり過ぎによる弊害」

30年間吸い続けたタバコ…止めて6年になる。
それまで、止められなかったのは、ニコチンだけでなく、"喫煙習慣"がある。
喫煙の習慣が、禁煙を阻んできたのです。
朝起きて一服、食後に一服、仕事を一休みして一服…。習慣的に無意識にタバコに手が伸びる。 30年間続けてきた喫煙の習慣が、 禁煙を難しくしているのです。

タバコを止めると、口がむしょうに寂しくなる。食欲が増す。お腹が空いてくる。
禁煙のストレスから、つい煎餅や飴に手がでる…口に何かを入れていないと我慢できない…間食が肥満を助長する。

禁煙2年目に体重が9kg増えて、お腹がせり出してきた。
ダイエットに取り組み、半年かけて7kg減量した。
生活習慣病の最大の要因は肥満。
一日わずか30kcal余分に摂取しただけで、1年で1kg太る。5年で5kg肥えることになる。
わずかな摂り過ぎも、油断していると肥満になる。

間食がもたらす害は、エネルギーのとり過ぎからくる"肥満"だけではない。
一日の間食の"回数"が問題になってくる。
体内に入った栄養素を分解する時、"活性酸素"が大量に発生する。
朝、食べたものを消化し終わる頃に、間食が入ってくる。
昼食が消化し終わる頃に、また間食が入ってくる…。

私たちの身体は、血管を動脈硬化から守ってくれる細胞を持っている。
次々と発生する活性酸素に、細胞が四六時中痛めつけられ、障害を受け、しだいに機能が低下していく…動脈硬化が進行するのです。

食べることで活性酸素が生まれる。加えて、食生活の西欧化で、脂分の多い食べ物が、消化時間を長引かせる。 その間発生する活性酸素が、血管内壁を傷めつけるのです。
50歳を過ぎる頃から、老化が加速しだす。間食の時間や間食の量に気を配り、血圧・血糖値・コレステロール値をチェックして、 動脈硬化症を予防しなければならない。
食事の間隔は、5時間は空けるようにしたい。間食もできるだけ控えることです。
規則正しい食習慣が、老化促進の予防になるのです。

■ お菓子のカロリー

・ホットケーキ  759kcal ・チョコレート1枚 564kcal
・ポテトチップス1袋 555kcal ・えびせんべい1袋 481kcal
・大福もち2個 470kcal ・イチゴのショートケーキ 364kcal
・おかき1袋 342kcal

2008年08月26日

60歳からの健康法

■ゴルフ場の昼食は「カレー」がお薦め

21~22日の2日間、岐阜県荘川(白川郷から二つ目のインター)でゴルフを楽しんだ。
気温は20度…肌寒いくらい。高原の空気をいっぱい吸って、白球を追った。
夏…炎天下のゴルフは大変だ。ラウンドで溢れ出る汗、プレーが終わる頃には、体中の水分が抜け、喉はカラカラ、身体はクタクタ。
そこで、ゴルフ場の昼食には「カレー」がお薦め。その効果は多彩です。
カレーは消化が早く、その風味は食欲を増す。また、新陳代謝を促進する作用がある。
体を芯から温め、休憩中に体が冷えるのを防いで、後半のプレーで体がよく動きます。
カレーのスパイスには、漢方の生薬に近いものが多く含まれ、疲労回復に役立ちます。

汗びっしょり…昼食のテーブルに着くや、先ず生ビールで乾いた喉を潤し、生気を取り戻す。これが良くない… ビールには利尿作用があるのです。
水分を補給したつもりが、逆に体内の水分を排出する。脱水症状を起こし、粘膜が乾燥し、血液がどろどろになる。成人病を抱えている人は、 要注意である。
まめに水分補給して、プレーなければならない。


【心と体の健康情報 - 595】
「60歳からの健康法」

「いつまでも若々しく健康でありたい。」
60歳…還暦を迎える頃になると、残された人生の健康を考えるようになる。
毎朝ウオーキングするとか、タバコを止めるとか、ほとんどの人が、健康のために何かを熱心にやり始めます。

「まだ若い」と、つい過剰ペースになり、体調を壊してしまう…何時までも若くはありません。無理をしないことです。 年齢に見合った、無理のない生活を心掛ける…つまり60歳は、人生のギアを入れ替える時なのです。

以下、"丁 宗鐵"先生著「医者のいらない暮らしがしたい」から…
まず心がけたいのは、「病気にならない、病気を寄せつけない生活習慣づくり」。
過飲・過食を避け、早寝早起きの規則正しい生活を、習慣付ける。
趣味に、水泳・山歩きなど、適度な"運動"を取り入れるのもいいでしょう。

次に、健康管理に欠かせないのが"体重"。常に「体重を一定に保つ」ことです。
会食や付き合いが多く、気付いたらお腹が出て、体重が増えている。
増えた分、元に戻さなければなりません。
還暦を過ぎたら、肥満でなくても「1年に1kgを目安に、体重を減らしていく」…それくらいが丁度良いのです。

歳を重ねるに連れ、新陳代謝機能が弱まってくる。内蔵機能を、これからも長く、正常に維持するには、よけいな脂肪分を減らし、 内臓への負担を和らげなければなりません。
この際、注意しなければならないのが、急激なダイエット。皮下脂肪が血中に溶出し、血管の中に脂が溜まり、動脈硬化の原因、 コレステロール値を高めてしまいます。
何事も、ゆっくりがいいのです。

「病気になる前に、未然に病気を予防する」…そんな心配りが大切です。
自分では気付かないが、火事でいえば"ぼや"になっている状態です。
この段階で、ライフスタイルをきちんと整え、早めに手当てをすることで、大事に至るのを防ぐのです。

私は、毎年9月に定期健診。その時、癌や動脈瘤、痴呆症の早期発見を目的とした、
"ペット検診"を欠かさない。病は、自覚症状が出てからでは遅いのです。
病気になった後の治療費、周りへの迷惑を考えると、8万4千円は安いものです。

大切なのは、「今まで経験したことのない症状が出た」「ちょっと悪いところを抱えている…が、以前より症状が重くなったようだ」 「家族がおかしいと言う」「血圧・脈拍・排泄に何らかの変化が出てきた」など、体内からの信号を軽く見過さないことです。
ほうっておくと、取り返しのつかないことになります(どこかの民放のキャッチフレーズ)。
私は、変だと思ったら、すぐ病院で診てもらうようにしています。

過去の検診データが、病院に保管されている。 車検のように、日頃手入れを怠らず、部品の消耗・ 交換を出来るだけ少なくするよう努めます。
自分の健康状態をよく知り、いつでも相談に乗ってくれる"かかりつけの医者"を持っていると安心です。

2008年08月29日

落語・青菜

■ひょっとこ」「おかめ」の語源

「語源」を探って、「へェ~」と納得するのは、ことば遊びの楽しみの一つです。
今日は、「ひょっとこ、おかめ」の語源をたどってみます。

日本に古くからある「ひょっとこ」のお面。
醜男を代表する「ひょっとこ」は、「火男」からきたもので、火をおこすのに、口をつぼめて突き出し、息を吹きかけながら、 煙たいので片目を細めている顔つきを、お面にしたものです。

一方の「おかめ」。器量の悪い、下働きの女性のように見えますが、昔は、しもぶくれのした「おかめ顔」が美人だったのです。
熱田神宮の巫女であった「亀女」の顔が、こぼれんばかりの愛きょう顔をしていたため、人々がその顔をかたどったお面を作って親しんだ。
それが、現在に受け継がれているのです。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 596】
~ことば遊び~ 「落語・青菜」

落語には、殿様と職人、あるいは極端に気の短い男と、気の長い男というふうに、身分や性癖のまったく違った人物の、 ちぐはぐなやりとりと、間の抜けたやりとりで、笑わせる噺が多い。「青菜」もそうした噺の一つです…。

♪さるお屋敷で、旦那様が植木屋をねぎらい、
縁側で一休みするようにと勧めた。
「酒を飲むか」と尋ねると、『大好きだ』と答えたので、
「奥や、植木屋さんにな、ご酒を持ってきてあげてください」
と言って、肴に鯉のあらいを出して、雑談を始めた。

「ときに、植木屋さん、あなた、菜をおあがりかな」
と問うと、大好物だとのことなので、出してあげるようにと言う。
すると、「旦那様」と言って、奥様が打ち明けた。
「鞍馬から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官」
「では、義経にしておきなさい」
と答えてから植木屋に、まだ菜があると思っていたら、
食べてしまってもうないんだそうだと、謝った。

ところが植木屋が、鞍馬とか義経とかのやりとりを、
来客だと勘違いしたので、夫婦の間の隠し言葉だと打ち明けて、
来客の折り、言ったものがなければ、お客様に対して失礼にあたる。

そこで、「鞍馬から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官」
菜は食べてしまってないから、"菜を食ろう"というシャレで、
「その名を九郎判官」
そこで私が"よしとけ"と言うところを、「義経にしておけ」と、
こうしゃれたわけだ。

これを聞いた植木屋、さすがお屋敷は違うと、感心することしきり…。
自分も真似がしたくなった…。
長屋に戻ると早速、がさつな女房に「これこれしかじか」と、話して聞かせた。

「こういうことは、てめえにゃ言えめえ」 『言えるわよ、それくらいは』
「言えるなら言ってみろ」 『鯉のあらいを買ってごらんよ』
「あれッ、ちくしょうめ、人の急所を突いてきやがる」
と、言い合っているところに、大工の熊公がやって来たので、
女房を押入れに隠れさせて、早速、お屋敷の真似を始めた。

ところが酒は安物だし、鯉のあらいだと言って出したのが、鰯の塩焼き
という有様。
では、奥の手をと…「ときに、植木屋さん、あなた、菜をおあがりかな?」
『なに言ってんだ、植木屋はおめェじゃねえか…おらァ、大工だよ!』
「あなた、菜をおあがりか?」 『嫌れェだ!』

がきのころから菜は大嫌いだと言うのを、なんとかなだめて、
菜を食べさせることにし、ポンポンと手を叩いて命じると、
押入れから、汗びっしょりになった女房が出てきた。

『旦那様、鞍馬から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経…』
全部言われてしまった植木屋、
「えッ、義経?…う~ん、じゃあ、"弁慶"にしておけ」

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