■「戦陣訓」
昭和16年1月、陸軍省・東条英機陸相が、軍人に公布した行動規範。
特に、「本訓其の2-第8 名を惜しむ」の項は、戦後、軍国主義の悪の代名詞の
ように言われた。
『恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚
(りょしゅう)の辱
(はずかしめ)を受けず、
死して罪禍(ざいか)の汚名を残すことなかれ』
「戦陣訓」は全将兵に、死を覚悟して戦地に向かうべし…と説いた。
欧米では、戦いに敗れ捕虜になることは、何ら恥ずかしいことではなかった。
しかし、日本国軍人は、降伏して、生きて捕虜になることは、最大の恥辱であるとされ、
「非国民」としてさげすまれた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 219】
~歴史から学ぶ~ 「横井庄一さん、グアムで28年間」
昭和47年(1972)私は31歳。この年の正月、グアムへ観光に出かける日本人が急増した。
グアムへ訪れた観光客の7割が日本人です。
この年以降、お正月になると大勢の日本人が、海外旅行に出かけるようになった。
1月27日、日本人観光客がにぎわうグアム島で、日本人生き残り兵隊、横井庄一さんが見つかったという、
ビッグニュースが飛び込んできた。
この時の報道を思い起こし、振り返ってみることにします…。
横井庄一さんは、名古屋の仕立て職人。26歳の時満州に出征。
昭和19年、グアム島に配属された後、米軍の猛攻撃を受け、部隊は全滅。
生残った横井さん、命からがらジャングルに逃げ込み、洞穴に隠れて生活した。
発見される恐怖におびえながら、毎日乏しい食料で、どうにか生き永らえた。
過酷な生活は28年にも及ぶ。横井さんが、地元の猟師に発見された時には、
57歳になっていた。
発見直後の記者会見で、車椅子の横井さん、集まった記者達を見渡し、両手がブルブル震えていた。前に居並ぶ人たち…
長髪でパーマにサングラスといういでたち…とても日本人には見えなかったのです。
記者会見の後、隣の部屋で「バン!」と処刑されるのでは…と、本気でおののいていた。
28年ぶりに帰国した横井さん、この年最も有名な人物になっていた。
2月2日羽田到着。その時の帰国第一声は、あまりにも有名です。
「グアム島敗戦の状況を、つぶさにみなさんに知っていただきたいと思い、恥ずかしながら…帰ってまいりました」
これは、グアムで亡くなった戦友と、上官に向かって言った言葉です。
もう一つは「生きながらえて帰ってきて、ごめんなさい!」
更には上官や天皇に、「おめおめ生きながらえて帰ってきた自分が、恥ずかしい…」
そんな複雑な心境だったのです。
病院で2ケ月間静養…故郷名古屋に戻ってきた。
市民が日の丸の旗を振って大勢出向かえ、まるでお祭りのような騒ぎ…。
横井さんが最初に向かったのは、母親が眠る横井家の墓地。
ここで彼は、母親によって建てられた、自分自身の墓があることを知った。
Q.ジャングルで何を食べていたのか?
A.<動物系> 毒ガマガエル、野ネズミ、鹿、カタツムリ、川エビ、山猫、ウナギ、
子牛、
野ブタ etc
<植物系> パンの実、ヤシの実、ソテツの実、タケノコ、パパイヤ、
山芋etc
Q.何で出てこなかったのか?
A.戦陣訓「生きて虜囚の恥ずかしめを受けるなかれ」の、軍人心得を叩き込まれていた。
ジャングルから出て捕虜になるのは、軍人最大の恥辱なのです。
日本中が、「28年間ご苦労様でした」と、横井さんを温かく迎え入れた。
島では、見つからないように夜暗くなってから行動した。
語りかける相手もなく、電気も水道もない孤独な生活に…28年間も…よくぞ耐えられたものです。
横井庄一さん、発見された9ケ月後の11月、美保子さんとお見合い結婚した。
その11日前、フイリピン・ルバング島で、生き残り日本兵二人と、地元警察が銃撃戦。
一人が殺され、生き残った一人は、ジャングルに逃げ込んだ…そんなニュースが飛び込んできた。小野田少尉である。
日本から、直ちに捜索隊が派遣された。
晩年は、講演活動の傍ら、陶芸に打ち込んだ。何度も個展を開くほどの腕前だったという。
平成9年、82歳で亡くなった。新しく作られた墓の脇に、寄り添うように、小さな慰霊碑が立てられた…「グアム島・小動物の碑」である。
横井さんの人柄が忍ばれる。…