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2008年04月 アーカイブ

2008年04月01日

江戸小噺・鯛の塩焼き

■ビックコミック・時事川柳

   「ガソリンが 高騰したら 減った事故」
   「AVを 見るには不向きな 大画面」
   「歩道橋 一日誰も 渡ってない」

<テーマ"明日">
   「さて明日は 誰がテレビで 謝るか」
   「ブロイラー 野に放したら 明日地鶏」
   「父さんは 明日明日詐欺の 常習犯」

■2008年・サラリーマン川柳・入選作から

   「箸つけた オレを見てから 食べる妻」
   「張り替えは 昔障子で 今日付」
   「安い値の ガソリン探し 遠出する」
   「官僚が 言えなくなった 趣味ゴルフ」


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 218】
~ことば遊び~ 「江戸小噺・鯛の塩焼き」

3/16、米男子ゴルフツアーがスタートした。
そのしょっぱな、タイガー・ウッズが最終18番で、8メートルのバーディパットをねじ込み、劇的な勝利を手にした。
早朝、テレビで観戦していた私…その瞬間、我がごとのように「やった~」

大相撲春場所は朝青龍が優勝し、ホッと一息。
サッカー、選抜、プロ野球開幕と、新聞のスポーツ覧は満開です。
兼六園の桜もほころび始めたようで…

今日の江戸小噺は「鯛の塩焼き」。桜花爛漫、春酣の頃のお話でございます。

♪お殿様が、お側付きの三太夫をお側に、お昼を召し上がっていらっしゃいます。
お昼ったって、我々下々のように、沢庵にお茶漬っていうわけにはいきません。

いくらご倹約中のお屋敷とはいえ、お殿様のお膳には、必ず鯛の塩焼きがついています。
もっとも鯛のお頭といっても、毎回付いてくるのですから、もう…お殿様も飽きあきなさって、お箸をお付けになることは…まずない。
ま、お飾りてェところでございましょうな。

ところがその日、どういう風の吹き回しか、殿様がこの鯛に一箸お付けになった。
「うむ、美味である。代わりをもて!」
『はッ』とお答えしたが、三太夫さん困りましたな…。
いつも召し上がらないから、お代わりの鯛のご用意がない。

『恐れながら、お庭をご覧遊ばせ。池畔の桜が見事に咲き揃いましてございます』
「おお、満開であるな」
と、お殿様が桜をご覧になっている間に、皿の上の鯛をクルッとひっくり返した…。
『お代わりをお持ちいたしました』
「む、大義である」…と、お殿様、また一箸お付けになった。
「美味である。代わりをもて!」

さすがの三太夫も、今度こそ、やりようがない。
またひっくり返せば、先ほどのお箸の跡が出てしまいますからな…。
『は、は~』と、平伏したまま固まっておりますと…お殿様
「これ、いかがいたした!? もう一度桜を見ようか?」

提供「風亭弥次郎」

2008年04月04日

孔子の教え(16) 友を選ぶ

■孔子の継承者"曽子"

孔子の門下生は三千人。弟子の中で※六芸に通ずる有能の士は七十余人。
最も心を通じた高弟は"顔回"…孔子70歳の時に、31歳の若さで早世した。
「天、予を喪ぼせり」と、孔子を悲嘆の極みに至らしめた。

然し、天は見捨てなかった。
孔子が亡くなるなる前年の72歳の時、26歳の青年、"曽子"という、 新たな継承者に恵まれたのです。
その曽子が、生涯変わらず続けたことに、「三省」がある。
(No.329「孔子の教え (14)吾日に吾が身を三省す」を参照)

孔子の死後、曽子は弟子と共に、師の教えの真髄を伝える「大学」という書物を書き残しました。 ちなみに、二宮金次郎の像が、薪を背負って手にしている書物は「大学」です。

伊与田 覺 「論語の一句・冒頭の言葉」より

※<六 芸>
 ・「礼」…礼節         ・「楽」…音楽      ・「射」…弓術
 ・「御」…馬車を操る技術  ・「書」…書道・文学  ・「数」…数学
日本の戦国大名も、基本的教養として、幼少の頃から六芸を身に付けた。



【心と体の健康情報 - 338】
~古典から学ぶ~
 「孔子の教え(16) 友をえらべ」

子曰く 益者三友 直を友とし 諒 (りょう)を友とし 多聞を友とするは 益なり
(季氏第十六)
「孔子が言われました。自分の益になる友だちは三種類ある。
 "正直な人"を友達とし、"誠実な人"を友達とし、"物識りの人"を友達すると、益になる」

また、続けてこうも言っている。
損者三友 便癖(べんへき) を友とし 善柔(ぜんじゅう) を友とし
 便佞
(べんねい)を友とするは損なり
「損になる友達も三種類ある。"要領のよい人"を友達とし、"愛想のよい人"を友達とし、
 "口先のうまい人"を友達にすると、損になる」

加えて、よく知られている言葉に、
子曰く 巧言令色 鮮(すく) なし仁」 (学而第一)
「ことさらに言葉を飾り、顔色をよくする者は、仁の心が少ないものだよ」

「へつらいの多い人に、立派な人はいない」と、孔子は言う。
このように孔子は、友人を選ぶことの大切さを説いているのです。

その昔、シラキウスに住む勇者ピチアスは、暴君ディオニソスを暗殺しようとして果たさず、捕らえられて獄に投ぜられた。
彼は死刑に処せられることになったが、死ぬ前に、故郷の父母に、この世の別れを告げたいと思った。
そこで、王様に「必ず帰ってきて、死刑を受けるので、数日の猶予をいただきたい」と、請い願いました。
王は「お前は、必ず約束を守るというが、どうしてそれが私にわかろう…。
お前は、私を欺いて逃げるに違いない…」と、許そうとしません。

この時、1人の若者が王の前に出て、
「王様、どうぞ私をピチアスの代わりに獄に入れて下さい。彼は必ず帰ってきます。
 彼は今まで、ただの一度も約束を破ったことのない男です。
 もし、彼が約束の日までに帰ってきませんでしたら、代わりに私を処刑して下さい」
と、真剣に王様に願い出たのです。
王様は、親友のダモンの申し出に驚き、その友情に感じ入って、遂にビチアスの願いを許すことにしました。

あっというまに日は過ぎて、遂に約束の日になりました。
ピチアスは未だ帰って来ない。
王は、約束の期限が過ぎたら、直ちにダモンを処刑するよう、獄吏に命じた。
ダモンは、どこまでもピチアスの信義を疑わず、
「もし約束の時間に戻ってこなくても、それは決して彼の罪ではない。
 何か不慮の災難な見舞われたに違いない」
と、言いました。
遂に約束の時間が過ぎ、ダモンは刑場に引き出された。
しかし、ダモンが友を信じる気持ちは少しも変わらず、
「親友のために死ねるなら本望…」と、取り乱すこともなく、平然としていた。

そこへ、ピチアスが息を切らせて、疾風のように駆け戻った。
予定の時刻に間に合わず、気が気ではなかった。
ダモンがまだ無事でいるのを見て、嬉しさのあまり飛びついて、その手を取って男泣きに泣いた。そして彼は、自ら手を後ろに廻して、 獄吏に身をゆだねたのです。
彼は帰途、 暴風雨に合ったり、 船が難破しそうになったりして、  約束の時刻に間に合わなかったのです。
王様はこれを聞いて胸を熱くした。ダモンを許すと同時に、ピチアスの罪まで許して、
「王の全財産を投げ出してもよいから、私にもあのような親友が欲しいものだ」
と、言ったという。

2008年04月08日

横田庄一、グアムで28年

■「戦陣訓」

昭和16年1月、陸軍省・東条英機陸相が、軍人に公布した行動規範。
特に、「本訓其の2-第8 名を惜しむ」の項は、戦後、軍国主義の悪の代名詞の
ように言われた。

『恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚 (りょしゅう)の辱 (はずかしめ)を受けず、 死して罪禍(ざいか)の汚名を残すことなかれ

「戦陣訓」は全将兵に、死を覚悟して戦地に向かうべし…と説いた。
欧米では、戦いに敗れ捕虜になることは、何ら恥ずかしいことではなかった。
しかし、日本国軍人は、降伏して、生きて捕虜になることは、最大の恥辱であるとされ、
「非国民」としてさげすまれた。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 219】
~歴史から学ぶ~ 「横井庄一さん、グアムで28年間」

昭和47年(1972)私は31歳。この年の正月、グアムへ観光に出かける日本人が急増した。
グアムへ訪れた観光客の7割が日本人です。
この年以降、お正月になると大勢の日本人が、海外旅行に出かけるようになった。
1月27日、日本人観光客がにぎわうグアム島で、日本人生き残り兵隊、横井庄一さんが見つかったという、 ビッグニュースが飛び込んできた。

この時の報道を思い起こし、振り返ってみることにします…。
横井庄一さんは、名古屋の仕立て職人。26歳の時満州に出征。
昭和19年、グアム島に配属された後、米軍の猛攻撃を受け、部隊は全滅。
生残った横井さん、命からがらジャングルに逃げ込み、洞穴に隠れて生活した。
発見される恐怖におびえながら、毎日乏しい食料で、どうにか生き永らえた。
過酷な生活は28年にも及ぶ。横井さんが、地元の猟師に発見された時には、
57歳になっていた。
発見直後の記者会見で、車椅子の横井さん、集まった記者達を見渡し、両手がブルブル震えていた。前に居並ぶ人たち… 長髪でパーマにサングラスといういでたち…とても日本人には見えなかったのです。
記者会見の後、隣の部屋で「バン!」と処刑されるのでは…と、本気でおののいていた。
28年ぶりに帰国した横井さん、この年最も有名な人物になっていた。
2月2日羽田到着。その時の帰国第一声は、あまりにも有名です。
「グアム島敗戦の状況を、つぶさにみなさんに知っていただきたいと思い、恥ずかしながら…帰ってまいりました」

これは、グアムで亡くなった戦友と、上官に向かって言った言葉です。
もう一つは「生きながらえて帰ってきて、ごめんなさい!」
更には上官や天皇に、「おめおめ生きながらえて帰ってきた自分が、恥ずかしい…」
そんな複雑な心境だったのです。
病院で2ケ月間静養…故郷名古屋に戻ってきた。
市民が日の丸の旗を振って大勢出向かえ、まるでお祭りのような騒ぎ…。
横井さんが最初に向かったのは、母親が眠る横井家の墓地。
ここで彼は、母親によって建てられた、自分自身の墓があることを知った。

Q.ジャングルで何を食べていたのか?
A.<動物系> 毒ガマガエル、野ネズミ、鹿、カタツムリ、川エビ、山猫、ウナギ、
                     子牛、 野ブタ etc
    <植物系> パンの実、ヤシの実、ソテツの実、タケノコ、パパイヤ、 山芋etc

Q.何で出てこなかったのか?
A.戦陣訓「生きて虜囚の恥ずかしめを受けるなかれ」の、軍人心得を叩き込まれていた。
     ジャングルから出て捕虜になるのは、軍人最大の恥辱なのです。

日本中が、「28年間ご苦労様でした」と、横井さんを温かく迎え入れた。
島では、見つからないように夜暗くなってから行動した。
語りかける相手もなく、電気も水道もない孤独な生活に…28年間も…よくぞ耐えられたものです。

横井庄一さん、発見された9ケ月後の11月、美保子さんとお見合い結婚した。
その11日前、フイリピン・ルバング島で、生き残り日本兵二人と、地元警察が銃撃戦。
一人が殺され、生き残った一人は、ジャングルに逃げ込んだ…そんなニュースが飛び込んできた。小野田少尉である。
日本から、直ちに捜索隊が派遣された。

晩年は、講演活動の傍ら、陶芸に打ち込んだ。何度も個展を開くほどの腕前だったという。
平成9年、82歳で亡くなった。新しく作られた墓の脇に、寄り添うように、小さな慰霊碑が立てられた…「グアム島・小動物の碑」である。
横井さんの人柄が忍ばれる。…

2008年04月11日

仕事が人間をつくる

今年は、オーケストラ・アンサンブル金沢設立20周年。
その目玉、イタリア歌劇・世界三大テノール歌手の1人、ジュゼッペ・サッバティーニ金沢公演に出かけた。

情熱的で繊細、ダイナミックな声質・声量に圧倒される、感動に酔いしれた2時間半でした。

前半は、ヘンデル、モーツアルトの歌劇、そしてロッシーニの歌劇「セリビアの理髪師・序曲」など、オペラ名アリア集…

後半は、「アルルの女」「帰れソレント」「遥かなるサンタルチア」「トスカ」など、おなじみのイタリア歌曲、カンツォーネ…

45名のオーケストラとの共演を堪能した。
演奏終了後も拍手は鳴りやまず、8回もアンコールに応えて曲が演奏され、
最後に「オー・ソレ・ミーオ」を熱唱して、締めくった。



【心と体の健康情報 - 339】
~幸せな人生を歩むために~ 「仕事が人間をつくる」

■『仕事は人生そのもの』 致知出版社・川人正臣/編「仕事と人生・第一章」

  仕事をすることによって人間ができてくる
  人間ができると、仕事もできる
  人間が仕事をつくり、仕事が人間をつくっていくのです

  自分の仕事もできない者は、何をやってもできません
  仕事をすることによって存在感がでてくる
  仕事があるということは、素晴らしいことなんです
  生きるということは、仕事をするということです

  自分の仕事ができなければ、何をやってもうまくいかない
  逃げたら駄目なんだ。徹底的に仕事のことを考えなさい
  困難はそのとき辛くても、必ず将来の飛躍になるから

メキシコ人の猟師に、通りかかったアメリカ人の旅人が尋ねた。
「昼日中、のんびりしているようだが、毎日どんな暮らしをしているんだい?」
『日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。
 戻ってきたら子どもと遊んで、昼寝して、夜になったら友達と1杯やって、
 ギターを弾いて歌って…  これでもう1日終わりだね』
それを聞いたアメリカ人。真面目な顔で、猟師に向かって言った。
「漁を会社組織にすべきだ。まず、大きな漁船を買う。
 そして、自前の水産品加工工場を建てるんだ。会社を大きくして、
 株を売却すれば、君は億万長者になれる」
『それで?』
「そうしたら人生最高さ! 日が高くなるまでゆっくり寝て、それから釣をして、
 戻ってきたら子どもと遊んで、昼寝して、夜になったら友達と1杯やって、
 ギターを弾いて歌って…どうだい、素晴らしいだろう」
『 ?… 』

落語にも、似たような噺がある。
大家「八公、真っ昼間からゴロゴロしてねえで、
    少しは真面目に働いたらどうなんだい…」
八公『働けって?…働いたらどうなるんだい?』
大家「働いたら…お金が貯まって…遊んで暮せるようになる」
八公『遊んで暮せるようになったら…どうなるんだい』
大家「昼間っから、のんびり寝て暮せるってェことさ!」
八公「ふう~ン、だったらおいら、今その…のんびり昼寝をしている」

日本人は西欧人と異なり、汗して働くことをいとわない。勤労を尊ぶ民族である。
ならば、私たちにとって"働く"ということは、どういうことを意味するのでしょう?
以下、「理念と経営3月号」伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長と、作家・江波戸哲夫先生の巻頭対談から…
丹羽会長は4000億の赤字を抱えて、不可能と言われた伊藤忠商事を再建した、名経営者です。
その丹羽会長が、「赤字の仕事に挑めば挑むほど、君は育つ」と述べられました。深い深いお言葉です。
若い時にいつも儲ける事ばかり考えている人は、結果的に「人間力(人間としての深み)」が身につかないでしょう。

田舞通信より

「生き甲斐のある人生を送りたい…」と、願わない者はいない。
一方で、苦労することを避けたがるご時世です。
現実社会を見ると、立派に成功している人は、押しなべて若い頃苦労を体験し、貧乏な暮らしを強いられている。
恵まれた環境では、人は堕落する。豊かで、何不自由ない暮らしの中からは、優秀な人材は生まれてこないのです。

寒風の中で人は育つ。厳しい環境の中で人は磨かれる。
辛い仕事を通して、人の傷みが理解できるようになり、人の苦しみが分かるようになる。
どんなに辛くても、それを乗り越え、成し遂げていく中で人は成長し、育っていくのです。
人は仕事を通して成長する。その"源"は、「評価され、褒められる」ことから始まる。褒められることが喜びになって、更に頑張ろうと… 意欲がかきたてられる。
「お前を頼りにしているぞ!」と、任せられ、認められ、褒められた時、 ヤル気が湧いてくるのです。

伊藤忠商事(株) 取締役会長・丹羽宇一郎

落語の八公のように、何もしなけれは、人として成長することはないのです。

2008年04月15日

老舗企業大国日本

■自分が変われば、相手も変わる

イスラム教の開祖マホメットの教えです。
ある日、マホメットが奇跡をやってのけるというので、大勢の人が集まってきた。
なんでも、遠くにある山を、ここに呼び寄せるというのです。

「オ~イ、山よ、こっちへ来~い」
人々が見守る前で、マホメットは呼びかけます。けれども山は動きません。
彼は再び、山に呼びかけました。それでも山は動きません。
三度目、マホメットは呼びかけます。「山よ、こっちへ来~い!」

やはり山は動きません。人々は「なあ~んだ」という顔をしています。
その人々に向かって、マホメットは言いました。
「諸君!ご覧のごとく私は三度、山に呼びかけた。だが、山は動かぬ。
ならば、今度は私が山に向かって歩いていく番である」と…。

そして彼は、山に向かって歩いていきました。
山が動かなければ、自分が動けばいいのです。
こちらが動くと、向こうが近寄ってきます。
私たちは、相手に変わって欲しいと願っています。
でも、それではなかなか奇跡が起きません。自分が変わればいいのです。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 220】
~歴史から学ぶ~ 「老舗企業大国日本」

世界最古の会社はどこにあるのだろうか?
約二千年の長きに渡って世界に君臨した、ローマ帝国イタリア?それとも中国?
実は、我が日本にあるのです。

江戸時代?安土桃山?鎌倉?まさか平安時代? いや、もっとずっとずっと前…
西暦578年、なんと、飛鳥時代から続いている会社があるのです。
大坂の「金剛組」です。創業千四百年…寺社仏閣を建ててきた建設会社です。
世界一の長寿企業が日本にあるのです。

他にも、創業千三百年になろうかという、石川県粟津温泉の老舗「法師旅館」、
千二百年以上の京都の和菓子屋さん、同じく京都で千百年以上の仏具店、
千年を優に超える薬局、と"創業百年"を超える企業は、2002年の東京リサーチ調べで、15,207社もあるのです。
調査の対象から外れた零細企業を加えると、全国に十万社はあるという。

老舗が、これほど沢山ある国は日本だけ。
お隣の韓国には、百年以上続いている店舗や企業は一軒もないし、ヨーロッパで
最古の企業は、1369年設立のイタリアの金細工メーカー…日本には、これよりも歴史の古い会社が百社近くあるのです。
世界の中で、日本にだけ見られる特異な現象です…何故なんでしょう?

(1)日本は、植民地になるなど、他国に支配され、屈服させられた歴史がない。
(2)日本の老舗の半数は製造業…日本は他国に比べ、職人の社会的地位が高かった。
(3)インドや西欧では、職業がカースト制度や職階によって細分化され、
     製造技術全てを、親から子、子から孫へと受継ぐことができたのは、 日本だけ。
     ※茶道や歌舞伎のように、技術を伝承していく家元制があり、 柔道のように、
     ○○道として、代々優秀な高弟に引き継いでいく文化がある。

(4)日本は、お上(国家)への信頼度が高く、国が安定していた年数も長い。
(5)同族経営ながら、長男は分家させ、優れた人材を養子に迎え入れる。
     優秀な他人の血を入れることで、企業の永続を計った。
     ※政情が安定しないアジアの国々は、血族以外は信用しなかった。

(6)老舗でありながら、時代や環境の変化に、しなやかに対応してきた。
(7)時代に即応した製品を生み出していく努力は怠らなかったが、
     創業以来続けてきた本業は、頑固に守り通した。
(8)相場や株に手を出すのはご法度。儲かるからと、本業からはずれた商いに
     手を出したりせず、それぞれ"分"をわきまえた商いをしてきた。
(9)"創業の精神・家訓"を大切に守り、「町人の正義」を守り通した。

角川書店/野村進「千年、働いてきました」より

2008年04月18日

毎日10分間の読書が、子ども達を育む

■今日のことば            二宮尊徳翁

『書物を読んで実行しない者は、鍬を買って耕さないのと同じだ。
 耕さないなら、どうして鍬を買う必要があろう。
 行わないなら、どうして書物を読む必要があろう』

※長年、時間とお金を掛けて学んできたことが、どれだけ生かされているか?
  どれだけ身に付いているか? 自問自答してみると、そのほとんどが仕舞い
  込まれたまま忘れ去られ、取り出すことが出来ない。恥ずかしい限りです。

『遠くをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す。
 それ、遠きをはかる者は、百年のために杉苗を植う。
 まして春まきて、秋実る物においておや。故に富有なり。

 近くをはかる者は、春植えて、秋実る物をも、尚遠しとして植えず。
 唯、眼前の利に迷うて、まかずして取り、
 植えずして、刈り取る事のみ眼につく。 故に、貧窮す』



【心と体の健康情報 - 340】
~子育て心理学~
「毎日10分間の読書が、子ども達を育む」

私の小学生時代、終戦~29年の戦後の10年間は、隣近所みんな貧しく、ひもじかった。
兄のお下がりの、ヒジやヒザに継ぎの当った服を着て、毎日学校から帰ると、暗くなるまで外で遊んだ。

テレビの無かった時代です。子どもの娯楽は、ぺッタやビー玉、石ころをゴムのパチンコで飛ばして戦争ごっこをしたり、 縄跳びをして遊んだ…。下町では、草野球が盛んだった。私が住む繁華街には子どもがいない…家で一人遊ぶことが多かった。
いつの頃からか、本をよく読む少年になっていた。香林坊に貸本屋があった。
また、兼六園内の坂の上にあった、県立図書館へもよく行った。

「ガリバー旅行記」 「宝島」 「三銃士」 「岩窟王」、マーク・トウェィンの 「トムソーヤーの冒険」など、想像力を膨らませ、胸をときめかせて、夢中で読んだものです。
江戸川乱歩の「少年探偵団」も懐かしい。探偵・明智小五郎が活躍する、子ども向けのミステリー小説です。

以下、読売新聞「論点・言語力向上」からの抜粋です。
OECDの調査によれば、日本の15歳の「読解力」は、数年前の8位から15位に転落した。
自分の考えや意見を自由記述する試験でも、他国に比べて白紙回答が際立つ…読解力が著しく低下してきているのです。

日本人が日本語を自由に使うのは、当たり前のことなのに…読解力の低下は、学力全体に影響する。読解力がなければ、 国語ばかりでなく、算数、社会、理科の内容や文章も、読み解けないからです。
これは、学校教育だけの問題ではない。読解力が低いまま社会に出ると、電子メールは書けるけれど、仕事に必要な連絡・ 報告文書が書けない。

そこで一部の企業では、言語力を身につけさせようと、月刊経営誌をグループに分けて読ませ、デスカッションさせたり、 新聞を輪読させて、表現力や文章力を付けさせるなど、読解力を高めるための社員教育が、盛んに行われている。

「読解力」は、本や新聞を読む習慣の中から習得できます。
始業前に好きな本を読む「朝の10分間読書」もその一つ。全国約2万5千校の小中高で取り組まれ、約950万人の子どもが参加している。

この活動によって、読書に親しみ、授業が面白くなり、学習意欲が高まっていく。
視野が広まり、情緒が安定し、問題解決能力が育まれる。
暴力やいじめもなくなった…そんな報告が目立つ。
たった10分間の読書の積み上げで、子ども達の心の窓が開き、心身に活力がよみがえってくるのです。

2008年04月22日

老舗企業大国日本(2)

■老舗の多い金沢

「越中強盗、加賀乞食、越前詐欺師」…北陸の県民気質を言い表した言葉です。
家業がにっちもさっちもいかなくなった時、越中富山は"強盗"してでも…、越前福井は、 "詐欺"をしてでも…あきらめずに、 歯を食いしばってこらえ、何とかしようとする、
へこたれない。
それに引き換え、加賀金沢のわんさんは、へなへなと、なす術もなく乞食になる…。

金沢市は、富山市や福井市のように、戦災や地震で焼け出され、辛酸をなめた辛い経験がない。昔ながらの古い町屋・老舗が建ち並ぶ金沢… 土蔵のある家も珍しくない。
多くの老舗は貸家や不動産を持ち、おんぼら~と商をしている。
代々、謡曲をたしなみ、お茶屋遊びをする、粋な土地柄。富山や福井の商人ほどには、働かない…。
福井市の問屋団地、衣料品問屋の社長さん…「石川県は商いやすい」と言う。
富山県・高岡の卸問屋…能登の商圏に入り込み、金沢の問屋のお得意先を取っていく。
それをやっかんで、このような言葉が生まれた…。

京都で活躍する商人の多くは、滋賀の"近江商人"だという。
同じように金沢で活躍する商人は、富山県人が多いのです。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 221】
~歴史から学ぶ~ 「老舗企業大国日本(2)」

仏像・仏具の装飾に欠かせない金箔。金箔の99%が、我が故郷金沢で生産される。
加賀藩を興した前田利家が、京都から職人を呼び寄せたのが、その始まりという。
明治32年(1899年)創業の"カタニ産業"。金沢の金箔業界の一翼を担う老舗。
戦後養子に迎えられた三代目社長は、台湾に目を付けた。
台湾の人々はお寺参りする時、金色の紙に火をつけ、パチパチと派手に燃えれば
燃えるほど、ご利益があると信じた。

その金色の紙とは、紙にアルミ箔を張りつけ、黄色く塗ったものです。
三代目社長、このアルミ箔を自社で製造し、台湾に売り込んで、莫大な利益を得た。
カタニの箔の生産高は、金箔1割に対して、アルミ箔が9割…全国のアルミ箔シェアの半分はカタニ、と言われた時もあった。

富山県から来たよそ者…当然、同業者から妬まれ、異端児と白い目で見られ、風当たりは強かった。養子だからこそ、 保守的な金箔業界の観念にとらわれずに、実行できたのです。
蚊谷社長の座右の銘は「伝統は革新の連続」…伝統で受継がれてきた金箔の技術を守っていくだけでなく、その技術を生かし、 その時代時代に即応した商品・技術を次々開発していった…だからこそ、現在のカタニがあるのです。

私は繁華街香林坊育ち。商店街の名の知れた薬局、九谷焼、家具、ブティックの店主は養子でした。何れも、 店を廃れさせては養子の恥と、よく働き、店を繁盛させた。
私も某老舗から、養子に欲しいと打診されたことがあるが、片町の帽子店の同級生(次男)が、同じ商店街の老舗家具店の養子になっている。

一方で、「家督は長男に継がせる」と、決めている経営者も多い。
苦労して築き上げた会社…「有能な他人より、信頼できる血族…我が息子に」の思いが強いのです。
大坂の船場や東京の日本橋には「息子は選べないが、婿は選べる」という言い伝えがある。百年以上続いてきた老舗には、 男子を後継者にせず、経営者の資質に優れた人材を、
婿養子に迎え入れて、暖簾を守ってきたところが多い。

そういったことから、船場には、娘が生まれると赤飯を炊く風習があった。
NHK篤姫が嫁いだ、徳川家十三代将軍"家定"のように、跡取り息子がとんだ"アホのぼんぼん"でも、長子相続にこだわる限り、 経営を委ねざるをえない。
これで店を潰すくらいなら、赤の他人でも、優秀な娘婿に任せたほうがいい…。
船場や日本橋の老舗…家訓にしてまで、店を守ろうとしたのです。

NHK・BS朝の連続ドラマ、「京都の風」の再放送が3月末に終了した。
京都・老舗呉服屋の三姉妹が、店の暖簾を巡って繰り広げるドラマ…。
店を継ぐことになった次女は、店の番頭ではなく、外から養子を迎え入れた。
その養子、商いに失敗して店を潰しかけた。次女は「店を出ていってほしい」と、
夫である養子に三くだり半を突きつける…そんなシーンが印象に残っている。
役に立たない養子は、離縁して縁を切る。
養子縁組の裏には、そのような打算が働いているのです。

角川書店/野村進「千年、働いてきました」より

2008年04月25日

自ら学習し、身につけさせる

■『本』は、想像力を養う

「思いやりの心で接しましょう…」と、先生はいう。
でも、「思いやり」って何なの? 子どもたちには分からない。
思いやりは、「想像力」を働かせることから生まれてくる。

では、想像力を養うにはどうしたらいいでしょうか?
それは、本を沢山読むことでしょう。
本を読むことによって、想像力が育まれるのです。

想像力が未成熟の子どもに、"情報"のシャワーが絶え間なく降りそそぐ…
物事の良し悪しを判断する能力がない幼い心に、とんでもない誇大妄想が膨らんでいく。
妄想と日常の区別が出来ないまま、何が良くて、何が悪いか? 判断できずに、常軌を逸脱した行動に走り、事件を引き起こす…
まわりを不幸にし、自分も不幸になる…子どもたちが抱える問題でしょう。



【心と体の健康情報 - 341】
~子育て心理学~
「自ら学習し、身につけさせる」

 『一見したところ、なんでもやすやすと「学べる」ということは、
  子どもにとっては、破滅の原因でしかない。
  そういうふうに、やすやすと「学べる」ことにこそ、
  子どもが、なに一つ学んでいない証拠であることが、人にはわからない』

(ルソー・エミール)

※「学べる」を、「手に入る」と改めても、あてはまる
※「ルソー」(1712~1778)
 フランスの思想家で、教育論「エミール」で近代的人間教育の理念を確立した

戦後間もない小学生の頃、家は貧しく、両親は日々の暮らしを立てるのに精一杯…
親に「勉強しろ」と叱られたことはなく、クリスマスや誕生日に、オモチャを買ってもらった記憶もない。
小学校の高学年になると、オモチャを自分で作った。
模型店で小さなモーターを買い、宝物のように握りしめて、家に走って帰った。
ロープーウェイや戦車を手作りし、胸をときめかせ、モータのスイッチを入れた。
また、木をくり抜いてカヌーを作り、帆柱を立て、四高(旧第四高等学校)のプールに浮かべ、夢中で遊んだのも懐かしい…。

昔、暴走族で、相手を威嚇するために、バットを持ち歩く者がいた。
でも、バットで人を殴ることはなかった。下手に殴れば「相手が死ぬかもしれない」という怖さを知っていたからです。
今の子どもは、日々の遊びから学ぶことが少ない。痛みの程度が分からないし、手加減することを知らない…むかつくからと、 本気で殴ってしまう。

私の子どもの頃は…転んで、すりむいて、血が出て、こっそり父親の刻みタバコで止血して…どの程度までなら大丈夫か、 体験を通して知っていた。
今の親は過保護。
子どもが転ぶ前に手を差し伸べてしまう…転んで学ぶ機会を奪ってしまう。

孫

嫁いだ娘…私の会社で働いている。
保育所への孫の送迎は、私の役目です。
長女は、おませな3歳児…園児服を着るにも、靴を履くにも、何でも自分でやらないと気が済まない。

もたもたしている孫に、親が手を貸そうとすると…
「はっちゃん、自分でしたかった~」と、そっくり返って泣くのです。


朝、子どもを幼稚園に出す時…母親は、出勤時間に追われ、子どもにゆっくり構っていられない…上着を着せ、靴下を履かせ、 防寒コートを着せ…親が手を貸し、手っ取り早く片付けようとする。それでは子どもは育たない…学べない。

子どもが自分でやろうとすることを、我慢強く見守る…そんな余裕が欲しい。
何でも親がお膳立てし、手をかけ、テキパキ片付けていく…その方が短時間に済ませられ、楽だから…。
「早く食べなさい」「お片づけしなさい」…背中から言葉を投げかけるだけのお母さんも多い。
子どもがいない時に片付けるから、いつまでたっても、片付けの出来ない子になってしまう。大人になってからでは手遅れ… 一生後片付けの出来ない人間になってしまう。
少々時間がかかっても、子どもと一緒にやる…子どもと一緒に後片付けをする。
そうやって子どもと親が同時に育つ。私の息子や娘を見ていると、「三つ子の魂百まで…」。間違いなくそうである。 幼い頃の躾けがどれほど大切か…
子育てを終えてからそのことに気付いても、手遅れである。

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