■人間学の根本聖典/論語
「論語から人間学を学ぶ」 伊与田 覺
"人間学"を学ぶテキストには、小学には『小学』が、大学には『大学』が、中学には『中庸』という書物があります。
「小学」というのは小人の学です。
小人とは"一般の人"ということです。
人としてわきまえておくべき、基本的なことを学ぶ学問です。
戦前まで、小学校の上に"尋常"が付いていました。「尋常=常を尋ねる」
その学びで「自分を修める」…即ち「修己修身の学」です。
「大学」というのは"大人(たいじん)
の学"です。
大人とは、周りに良い影響を及ぼすような人物を言い、自分がよく修まっているだけでなく、周りの人に良い影響を及ぼす人を言います。
「修己治人の学」なのです。
「中学」というのは、
異質のものを合わせて新しいものをつくる、"調和の学"であり、"創造・造化の学"です。
人間学のテキストは、「小学・大学・中庸」ですが、論語は人間学の根本聖典ですから、小学も大学も中学も合わせて、学ぶことが出来るのです。
【心と体の健康情報 - 337】
~古典から学ぶ~
孔子の教え(15)「無心になる」
「子、四(よつ)
を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし」
(子罕第九)
「先師は常に、私意、執着、頑固、自我の4つを絶たれた」
以下、「理念と経営2月号・伊与田 覺/論語の対話」の注釈文から…
孔子自身、「私の心を痛めつけているのが、この4つだ…」と言っている。この4つは、 なかなか絶ちにくいものです。 「私意・執着・頑固・自我」が取れてくるということは、
心にわだかまりがなくなったということです。細かいところまで、よく見えてくるようになります。 |
これは、般若心経の教え、"空"にあたるのではないでしょうか。
"空"とは、簡単に言えば「こだわるな!」ということです。
"煩悩"をなくそう…4つを絶とう…と、悶々とこだわるのではなく、煩悩そのものに、こだわらなければいいのです。
例えば、眠れぬ夜に眠ろう、眠ろうと、羊の数を数えるのが煩悩です。
眠ることにこだわらなければいいのです。 眠れなければ、眠ろうとしなければいいのです。眠くなったら眠ればいいのであって、
煩悩にこだわらなければいいのです。
俗世界の私たちは、様々な欲望に囲まれて生活しています。
金銭欲、名誉欲、権力欲などがそうで、長生きしたいという欲望もあります。
それらの欲望を絶つことは至難の業です。貧しい…お金が欲しい。
お金が手に入れば、欲望が満たされるかというと、決してそうはなりません。
月収30万円の人がいるとします。それで十分食べていけるのに、更に50万円の収入を願望します。そして、
50万円稼げるようになると、更に100万円、200万円と際限なく欲望が膨らんでいきます…際限がありません。
私たちの欲望は、どんどん膨らんでいくのです。
頂点を極めて尚、欲望の虜になった前防衛事務次官の、守屋氏の顔が浮かんできます…。
般若心経は、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」
で始まり、
「照見五蘊皆空 度一切苦厄…」
と続きます。
「観自在菩薩が、般若波羅蜜多を行深された時、五蘊(ごうん)が皆"空"であると照見されて、一切の苦厄を度された」と読みます。
簡単に言えば、「観自在菩薩が、一切の苦しみ災厄を、度された」の意味になります。
"五蘊(ごうん)"とは、「 人間の肉体と精神 」のことで、私たちの肉体も精神もみな"空"で、
実態がありません。
江戸時代、臨済宗の高僧に"盤珪(ばんけい)禅師"という人がいました。
ある日、盤珪禅師のところに、1人の僧が訪ねて来て、質問しました。
「それがしは、生まれつき短気でございます。これは何としたら直りましょうぞ」
答えて、盤珪禅師は…
『それは面白いものを持って、生まれつかれたの…今も短気でござるか?
あらば、ここへ出しゃれ…直して進ぜよう』と言われた。
そう言われても、僧は"短気"を取り出して、見せるわけにはいきません。
なぜなら、私たちの肉体も精神も、すべて"空"だからです。
このように、"短気"などというモノがあるのではなく、それらはすべて"空"である。そのことがわかれば、
自らの気持ちの持ちようで、解決の道もあろう…というものです。
つまり、"短気"が生じてくる状況を、作らないようにすればいいのです。
私たちは、 短気そのものを無くそうと思案しますが、 するとかえって問題が、こじれてくるのです…。
新潮社「ひろさちやの般若心経」