孔子の教え「自らを省み、反省する」
■ものごとには必ず「本末」がある
ものごとには必ず「本末」
というものがあります。
植物を例にとると、その「本(もと)」になるのは"根"であり、枝や葉が「末」になります。
人間にも、生まれながらにして「本末」があります。
その本になるのが「徳性」です。「知能・
技能」は末の方になります。
植物を育てるには、先ず根を養うことが大切です。従って、人間を作っていく上で最も大切なのは、根本である「徳性」を育てることです。
その徳性を育てる学問を「本学」といい、「人と成る」ための大切な学問になります。
社会人に必要な要素には、「道徳・習慣・知識・技術」の四つがあります。
「道徳・習慣」を修得する学問が「本学」になります。「知識・技術」を習得する学問は非常に大切ですが、
「人と成る」上からすれば「末学」というべきでしょう。
論語は、こうした「人と成る」人間学を網羅した書物であり、論語を学ぶことは、本学・徳性を学ぶことになります。
二十歳の成人になって尚、人として未熟なのは、本学・徳性を、つまり「道徳・習慣」を修得させていない、教育に問題があるようです。
伊与田 覺「人間学と論語」より
【心と体の健康情報 - 329】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(14)自らを省み、反省する」
「吾日に吾が身を三省す」…論語の中でもとりわけ、私の好きな一節です。
過ぎし人生を振り返えれば、反省だらけの人生…赤顔の至りです。
「若い頃に、もっと勉強していれば…」
「あの時何故もっと、気持ちを汲んでやれなかったのだろう…」
「自分が至らなかったばかりに、かけがえのない人材を失ってしまった」
など…思い起こせばキリがない。
「曽子曰く 吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、
朋友と交りて信ならざるか、習わざるを伝うるか」 (学而第一)
以下、伊与田 覺「理念と経営1月号・論語の対話」での注釈文です。
「曽子曰く 吾日に吾が身を三省す…」
「曽先生が言われた。私は毎日、自分をたびたひ省みて、よくないことは省いている…」
「三省」は、三回という意味ではなく、「たびたび」という意味になる。
「省」という字には、振り返る「反省」の意味と、「省略する」の二つの意味があります。
省みるだけでは不十分で、省みて、その誤りに気づいたときは、自らこれを改めていく。すなわち、「省く」行動が伴っていなければ、
「三省」にはならないのです。
「…人の為に謀りて忠ならざるか…」
「人のためを思って、真心からやったかどうか…」
振り返ってみて、本当に真心から相手のことを思って、やったかどうか?
お義理で、やむを得ずやったのか?
それを見過ごしたら…他人から「人でなし」と言われるから、表向きをつくろうために、やったのか…?
※この時代の「忠」は、国や君に対する"忠義"ではなく、自分自身に対する「忠」の問いかけだったのです。
「…朋友と交りて信ならざるか…」
「友達と交わって、うそ偽りはなかったか…」
「…習わざるを伝うるか」
「まだ習得しないことを、人に教えるようなことはなかったか」
まだ十分に習得していないことを、知ったかぶりして教えてはいないか?
夏目漱石の「坊ちゃん」の中に、知ったかぶりをせず、「知らないものは知らない」と、はっきり正直に言える先生が本当の先生だ…
という意味の場面がある。
■次は、孔子が尊敬する、"きょ伯玉(きょはくぎょく)"先生の言葉です。
「五十にして四十九の非を知る。六十にして六十化す」
「五十歳になって振り返ってみると、いろいろな過ちを犯し、その非を知った。
これからは、その非を改めながら、さらにより良い人生を歩むようにしたい。
六十歳になれば、六十にふさわしい人間でいたいものだ…」
更に、「七十にして七十化す」「八十にして八十化す」「九十にして九十化す」というように、限りなく成長・脱皮し、
若々しく生きていきたい…という願いが込められている。
孔子が"きょ伯玉"先生に、深い尊敬の念を抱いたのは、絶えず自らを省みて、自らの至らなさを知り、より良い人生を築いていこうとする…
そんな生き方に、感銘したからです。