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2007年12月 アーカイブ

2007年12月04日

子育てと父母の役割

■良妻賢母、そして女優70年

NHK・BS朝の連続小説「さくら」(再放映)。9月末までの半年間、毎朝楽しく見ていた。 東京の叔父叔母を演じる小林亜星と中村メイコは、はまり役だった。

実生活における中村メイコは、子育ての間は朝5時半起床。朝食の支度、弁当作り…平均睡眠時間は3~4時間。超人的努力で「女優・ 良妻・賢母」の3役をこなし、仕事の合い間に、姑、夫、子ども達の世話を、手抜きなしに頑張ってきた。

「28年間欠かさなかったお弁当作り…母親の意地もありました。
"忙しいから今日はパンを買ってきて"と言われる方が、子ども達には気楽だったかもしれない…。
子育てというのは、寄せてくる波のように、毎朝起こして食べさせ、出かけさせて寝かせて、 「それを"いつか"じゃなく"毎日"しないと、 育てることにはならないのです」と、中村メイコは振り返る…。

読売新聞「時代の証言者」より


【心と体の健康情報 - 322】
~子育て心理学~
「子育てと父母の役割」

今日の話題にふさわしい夫婦といえば、神津善行、中村メイコ夫妻だろう。
中村メイコは、1934年5月13日東京生まれ。2歳8ケ月で芸能界デビュー。
73歳。
ご主人は作曲家の神津善行。長女は作家のカンナ。次女は女優のはづき。
長男は画家の神津善之。素晴らしい芸能一家である。こんな素敵なファミリーが育まれたのは…夫、善行氏と、妻、 メイコの理想的な子育てにあったのです。

「三つ子の魂百まで」というように、人間の基礎は三才頃までに、ほぼその原型が出来上がっていく。三歳の頃から、 何か一つの事に集中させ、その子の持つ隠れた能力を開花させていく。
4歳、5歳と、習い始めが遅くなるほど、その後の熟達度に、大きな差が生じてくる。野球、ゴルフ、卓球、オリンピック選手、 バイオリニスト、囲碁など、近年プロの世界で活躍する人の多くは、三歳の頃からの教育にあるのです。

我が子に才能があってもなくても、子育てには、母親・父親それぞれ役割があります。子供が三才の頃までは、 母親の母性をたっぷり子供に注ぎ込み、愛情一杯育てることです。母親から受ける愛情の大きさが、大人になってからの人間形成に、 大きく影響するのです。

母親の胸に抱かれ、母親の心音を聞き、母親のオッパイの匂いを一杯嗅いで、愛情たっぷり育った子は、成人した後、 心身のバランスが良く、自然と気配りのできる、心の優しい人間になっていく。

子供が幼稚園に入る頃からは、父親の出番です。人間として一人前に自立するよう、物事の善悪を厳しくしつけていきます。その頃のしつけ方が、 その後の人格形成に大きく影響するのです。

女性の社会進出が進み、夫婦共働きが当たり前の今の時代。まだもの心がつかない頃に、保育所に長時間預け、 子育てを人任せにしているお母さん。
この最も大切な時期に、両親から受ける愛や、しつけが薄いと、成人した後の人格形成に問題を引き起こすことになる。
親から受ける愛が薄い分だけ、人から受ける愛や優しさに気づきません。
人に、優しさや愛を与えることのできない人間になってしまうのです。

更に、父親不在となればなおさらです。そういった家庭が多くなるにつれ、小学校の教室が荒れ、子供たちに落ち着きがなくなり、 勝手気ままに動きまわり、先生の言うことを聞こうとしない。

むかつくからと、いじめっ子になり、いじめられる側の心の内など、気づきもしない。思春期になると、 親を親とも思わない言動に走り、こんな子に育てたつもりはないと、両親を嘆かせることになるのです。

我が子の幸福を願うなら、今一度、子育てのあり方を考えてみる必要があるようです。

2007年12月07日

江戸小噺・大晦日のツケ払い

■ことば遊び 「中村メイコ」名前の由来

9月まで、NHK・BSの朝のテレビ小説で再放送していた「さくら」。
ハワイ生まれの日系三世の"さくら"が、高山の中学の臨時教員になり、文化・習慣の違いから騒動を繰り返す、とても面白い番組だった。 東京で叔父(小林亜星)が金魚屋を営み、その奥さんが"中村メイコ"。何とも素敵な脇役を演じていた。

中村メイコの父親は、昭和初期の日本では育ちにくい、面白おかしいものを書くユーモア作家。それがよく売れて、人気作家になった。

メイコは、昭和9年5月15日、東京杉並の洋館建ての自宅で産声を上げた。
父は白い紙に「五月」と書いて言った。

  「役所には五月(ごがつ)とだけ届けましょう。
  その名前を見て、漢字好みの人は"さつき"、
  西洋好みの人なら"メイ"と呼ぶかも しれません…」

読売新聞「時代の証言者」より



【吉村外喜雄のなんだかんだ - 202】
~ことば遊び~
「江戸小噺・大晦日のツケ払い」

12月に入り、年賀状の手配も終り、何となく気ぜわしい思いをしている毎日です。
江戸の昔は、普段はツケで買い物をして、支払いは盆暮れにまとめて支払うのが習慣でした。大晦日ともなりますと、このツケの支払い、 カケの受け取りで、大変でございますな…。
そりゃ金がありゃあいいですよ。その日暮らしの貧乏人の中には、どうしても金の工面がつかないという者が出てまいります。 そうかといって、商人の方だって、夜明けまでに取り損なえば、また半年待たなくっちゃいけないんでございますからな…。

♪この暮れは、どうにもこうにもやり繰りがつかないという男。
どこからか都合してきた棺桶の中に入って、女房に申しましたですな…。
「俺を死んだことにして、何とか今夜をやり過ごしてくれ」
『そんなバカなことをして、後をどうしなさる?』
「なぁに、元日に生き返ったと言えばよい」

無責任なヤツがあったもので…。そこへ米屋が掛取りにまいりましたな。
女房は、あまりの情けなさに涙を零しながら、しどろもどろの言い訳をいたしますてぇと、気のいい米屋、
『この暮れへきて、急に亡くなったとはお気の毒。せめてこれでも…』
と、いくらかの銭を置こうとする。
「とんでもないことで、お借りしたものをお返しも出来ないのに、これはいただけませぬ」
『そう言わずに取ってくだされ』
押し問答をしておりますと、棺桶から手が出て、
「呉れるというものは、もらっておけ!」

そんな気のいい米屋ばかりではありませんな。
♪大晦日、みすぼらしい姿の浪人が、米屋にまいりまして、
「お主のところの借財が払えぬ。拙者も侍の端くれ、申し訳のため、この店先にて腹を切り申すが、どうじゃ…?」
米屋の亭主はせせら笑って、
『お前様方のお決まりの脅し文句…。その手には乗らぬ』

進退窮まった浪人、肌脱ぎになりますてぇと、脇差を腹へ突き立て、へその際まで切りましたですな。
「うぅ…どうじゃ、かくの如くだ…!」
『どうせ切るなら、なぜみなお切りなさいませぬ?』
「うむ…、残りの半分は酒屋で切る」

掛取りに回る手代の方にも、泣き落としの決まり文句がございましたそうで、
「今日は大晦日、たとえ半金でも払ってくだされ。手ぶらで帰っては、主人の手前、わたしが首をくくらねばならぬ」
『すまぬが、今夜のところは、そうしておいておくれ』

こちらは橋の下を住まいとする、乞食夫婦でございます。
「ねえお前さん、町中では、払え、払えぬで大騒ぎしているようだけど、こっちは気楽でいいねぇ…」
『これ!大きな声で言うんじゃない』
「あれ、どうしてだい?」
『みんなが乞食になりたがる…』

2007年12月11日

「かわいそうや」は甘やかしのもと

■「えッ! 宙に浮いた年金5千万人の一人に私が…」

妻が60歳の誕生日を迎え、年金受給手続きに、社会保険事務所へ同伴した。
提出した住民票で、妻と私の生年月日を係員がチェック…。
すると以外や、私にもう一つの年金手帳があることが判明。
厚生年金の届出誕生日と、国民年金の届出誕生日が、何故か一日ずれていて、国民年金が、該当者不明の「宙に浮いた5千万人」 の一人になっていたのです。

38歳の時、脱サラ独立。その後、株式会社を設立するまでの16ケ月間、国民年金に加入していたのです。加入時、 誕生日を一日ずらして手続きしたため、60歳になって「年金記録」を照会・確認した時、国民年金に加入していたことも、 抜け落ちていることにも、気づかなかったのです。

「年金番号重複取消届」を出して、二つあった私の年金が一つに…。一年さかのぼって、年に2万数千円増額されることになった。何か、 徳したような気に…。


【心と体の健康情報 - 323】
~子育て心理学~
「"かわいそうや"は甘やかしのもと」

我が家の愛犬ヘブン。好んで散歩に行く公園に、野良猫が三匹棲みついている。
どこの誰だか知らないが、夕食のご飯やおかずの残りが、山盛りに置いてある。
「かわいそうだから」と、餌をやるのでしょう。それが、公園の子供たちが遊ぶ砂場の脇…。
汚らしいだけでなく、カラスが集まってきてついばむ。餌を撒くから、野良猫が棲みつく。
他人への迷惑を考えると、野良猫に餌をやる行為は、良いこととは言えない。
何かにつけて「かわいそうだから」と、甘やかす人がいる。大概は自分勝手な判断で、人に迷惑をかけていることに、気づいていないのです。

相手が子供であれば、なお更である。食品スーパーのお菓子売り場で、「これ買って!」とダダをこねて泣く孫に、 お婆ちゃんが閉口し、「こんなに泣いてかわいそうや」と、ねだるお菓子を買ってやる。

今度は、買ったらすぐにその場で食べたいとぐずる孫に、「仕方ないか…」と食べさす。こんなふうに「かわいそう」「仕方ない」 と言って、場所をわきまえず、子供の我がままを許すのは、しつけにはならない。
しつけも教育もない。泣いてわめく孫を前に、可愛さあまり、困った状況から早く逃れたい、無難に済ませたいという気持ちが、 そうさせるのです。

北国新聞 丹羽俊夫の「教育一本勝負」

野良猫に「かわいそう」「仕方がない」と餌を与えるのも、似たような行為…。
我が家のヘブン。家族が何かを食べている時、横に座って、じぃ~っとおねだりの姿勢を取る。その可愛さに根負けして、つい与えてしまう。

一度味を占めると、次から餌をくれる人の横に座るから、家族の中で誰が飼い犬に甘いか、すぐわかってしまう。 肥満した犬を散歩させている飼い主…犬の「しつけ」が出来ないことを、証明しているようなもの。

社会生活でのマナーは、一人ひとり違っていいものではない。みんなに共通する礼儀作法が必ずある。自分だけの「かわいそうやから」 を満足させて、みんなに迷惑をかけるのは、決して良い行為とはいえないのです。

2007年12月14日

歴史から学ぶ「辞世の句」

■徳川家康「東照宮遺訓」

一. 人の一生は 重き荷を負うて遠き路を行くが如し 急ぐべからず
一. 不自由を常と思えば不足なし
一. 心に望みおこらば 困窮したる時を思い出すべし
一. 堪忍は無事長久の基
一. 怒りを敵と思え
一. 勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば 害その身に至る
一. 己を責めて 人を責むるな
一. 及ばざるは過ぎたるより勝れり

最初の「人の一生は重き荷を負うて…」は、ズシッと心にしみる言葉です。
この言葉は、"千利休"が言った言葉というのが、最近の歴史家の通説です。



【吉村外喜雄のなんだかんだ - 203】
~歴史から学ぶ~ 「辞世の句」

516号の 「ことば遊び」で、石川五右衛門が釜茹でにされる時、"辞世の句"を読む噺をしましたが、 歴史に名を残した人たちの辞世の句は何だったのか、集めてみました。

今宵は、赤穂浪士が元禄15年吉良亭に討ち入り、主君の仇討ち果たした日である。大石内蔵助は、翌年の2月4日、 享年44歳で切腹した。
辞世の句は、
あら楽し 思いは晴るる身は捨る 浮世の外にかかる雲なし
無事復讐を遂げ、武士の面目を保つことができて、晴れ晴れとした心境が詠まれている。
事件の大元、浅野内匠頭の句も有名です。
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかんとやせん

歴史に名を残した人たちが人生の最後に詠った句。万感の思いが伝わってきて、心打たれる。以下幾つか紹介しますが、 中でも戦国時代、1516年に北条早雲との戦いに破れて自刀した"三浦義同(よしあつ)"の辞世の句は、心打たれる。
討つ者も討たれる者も 土器(かわらけ) よ 砕けて後はもとの土くれ

この句は詠むほどに、世の無常、武家に生まれた無常を、土器・土くれといった無機質なモノに例え、 心の内の無念さを詠に込めている。 (濱野意忠)

数ある辞世の句で、最も知られていて有名なのは、豊臣秀吉。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢

上杉謙信は、天正6年3月、毛利と連合して織田信長と対決しようとしたが、出陣直前に急死。死の予感があったのか、 2月に描かせた自画像に、辞世の句を書き残している。
四十九年 一酔の夢 一期の栄華 一盃の酒

松尾芭蕉(1694没)の辞世の句も、よく知られている。
旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる
我が故郷の歌人…加賀千代女(1775没)。
月も見て われはこの世を かしくかな

石川五右衛門の句は、人の世を皮肉っている。
石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ
細川ガラシャ婦人の句は美しい。
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

浄瑠璃・滑稽本の作者、十返舎一九の辞世の句です。
この世をば どりゃお暇(いとま) に せん香の 煙とともに 灰 さようなら
このようにダジャレを言って、明るくこの世とオサラバしたいものです。

最後に、明治天皇の崩御に合わせて夫と共に自害した、乃木将軍の妻の句。
出でまして かへります日の なしと聞く けふの御幸に 逢ふぞ悲しき

室町・鎌倉の頃から、武家、文人、僧侶、庶民、おしなべて辞世の句を残している。古の人は何れも、高い教養があった。今の時代に、 このような辞世の句を残せる人はどれだけいるだろうか…。私には、とてもとても…とても…。 

2007年12月18日

苦悩体験が、人生に成功をもたらす

■成功者になる条件は「貧乏に生まれること」

貧乏が人を鍛え、偉人・英雄を創り上げていく。
キリストは叩き大工の子で、「貧しき者は幸いなり」と説いている。
孔子も生涯、貧乏暮らしで過ごした。
豊臣秀吉は水飲み百姓から、位人臣を極める関白にまで、昇り詰めている。
アメリカの富豪カーネギーは、「腕一本で巨万の富を作る必要な条件は、貧乏に生まれることである」と、自らの体験を語っている。

先週、倫理法人会で、長野県で裸一貫、事業に成功した社長さんの講演があった。
小学生の頃家が貧しく、お昼の弁当を持たせてもらえなかった。
同級生が昼食を終え、グラウンドに飛び出して来るまて、校庭で空腹をこらえていた…。

私の知る限り、幼少の頃、誰よりも貧しい暮らしを強いられたのは、作曲家の"遠藤実"であろう。
戦時中、東京から新潟に疎開。
浜辺の電気もない、ムシロを敷いただけの、すき間だらけの船小屋…真冬の北風が吹きすさぶ中、凍えた母子が寄り添い、屑拾いをして、 乞食同然の暮らしをしていた。

卒業の時母は、小学校で穿いていた半ズボンを二つつなぎ合わせ、息子の門出に穿かせている。その幼い頃の苦渋体験が、 作曲家になって後、心にしみる名曲を次々と生み出す、源になっている。


【心と体の健康情報 - 324】
~幸せな人生を歩むために~
「苦悩体験が、人生に成功をもたらす」

徳川家康。幼名は竹千代。
6歳の時、尾張の織田信秀の元へ送られ、人質として2年間過ごす。
それから人質交換で駿府へ移され、義元の下で少年期を過ごし、元服している。
秀吉が没した後、天下統一を為しえた家康。幼少の頃、人質で過ごしたことが、
よく気の回る、人心掌握に長けた家康を育んだのです。

以下、「白隠禅師・座禅和讃に学ぶ」からの抜粋です。
人は、他人の幸福を見ると、何か喜べない妬みの心が湧き、人の不幸を見ると、ひそかにほくそ笑む…そんなさもしい心が湧いてくる。
他人の悪い所は、口をきわめて非難し、他人の善い所はけなしたくなる… そんな、いやしい心も潜んでいる。

人生の苦しみは、「自己愛」から生まれてくる。自分のことが何よりも可愛い。
そうした狭い考えが、苦しみや悩みを生み出していく。
「生きることの執着」「名誉への執着」「人並みでありたい執着」から、苦悩が生まれてくる。

身の回りに生じる苦悩を、5つつ挙げてみると…
(1)癌の宣告を受けるなど、自分が死の宣告を受けたり、直面した時
(2)自分に最も身近な妻や夫、子どもが死を宣告されたり、直面した時
(3)倒産や風水害、人に騙されるなどして、生活が根底から破綻した時
(4)失恋、離婚に直面した時
(5)いじめに遭うなど、劣悪な人間関係に巻き込まれた時

何れも不眠症に陥り、苦悩は片時も頭から離れず、人生に失望する。
将来に希望が持てなくなり、苦しみから逃れるには死ぬしかないと、思い詰め るようになる…。
こんな時、静かに目を閉じて、自分の心と向き合うようにします。
自己を客観的に見つめることで、本当の自分が見えてくる…どうあるべきかが見えてくる。
禅寺で座禅をして、自己を問い直すのも、一つの解決方法でしょう。

死にたくなるほどの苦悩に遭遇した時こそ、己の本性に出遭える又とない機会になる。
苦悩を体験することなく、人生を終えるに越したことはない。が、己の真の姿を見い出せないまま、一生を終えることになる…。

月刊誌「理念と経営」に毎号連載される、「逆境!その時経営者は」を読んで、 苦悩の極みを経験した者にしか、手にし得ないものがあることを学ぶ…。

12月号は、倒産・一家離散に追い込まれた経営者が、見事再起した話です。
社長と労苦を共にした、専務の規子さんは、私と約1年間机を並べ、経営者のスキルアップ研修を受けた間柄…。
今回の掲載を読むまで、そのようなご苦労があったこと…まったく知りませんでした。
「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」の、素敵な奥さんです。

ゲーテの言葉に、「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない」というのがある。
"死ぬほどの苦労"を、自ら望んで体験したい…と思う者はいないだろう。
しかし、苦労した人間でなければ、人生の深さや真髄を味わえないだろう…。
苦労らしい苦労も知らず、歳を重ねただけの私には、分りえないことです。

2007年12月21日

歌は世につれ人生とともに

■「人生は塗りばしのようなもんや…」

NHK朝のテレビ小説「ちりとてちん」。
福井県若狭の塗りばし職人の娘が、落語家を目指して巻き起こす、笑いあり、涙ありの物語。
以下は、今は亡きお爺ちゃんが、孫娘"喜代美"に託した思い…

「若狭塗りばしは、卵の殻や、貝殻や、松葉やら…
そういうもんで色を付けて、上から何度も何度も漆を塗り重ねて、研ぎだす。
そうしたら、みごとな模様の 塗りばしになる」

「人生は塗りばしのようなもんや…一生懸命生きてさえおったら、悩んだことも、落ち込んだことも、きれいな模様になって出てくる。
だからお前は、なりたいもんになれ…」



【吉村外喜雄のなんだかんだ - 204】
「歌は世につれ人生とともに」

第一生命のサラリーマン川柳に、「こりゃ誰だ この歌なんだ 大みそか」というのがある。
紅白歌合戦を見ながら、「世の中、わけの分らない歌ばっかりになっちまったよなァ~」と、つぶやくお父さんが多いのではないでしょうか… 。
平成になって19年、老若男女が愛唱する、国民的演歌が見当らない。
一つだけ、昨年のNHK紅白歌合戦で歌われた、「千の風になって」が、そうだろう。
演歌は人生の愛唱歌である。戦後六十数年、豊かで平和な世の中になり、みんなが心から愛唱し、口ずさむ… そんな演歌を作曲する人がいなくなった。

そんな中、文部科学省の検定に合格して、来春から使用される、高校と中学の教科書の音楽の教材に、 初めて演歌が登場することになった。
北島三郎の「まつり」と、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」です。
そこで、私たちが口づさみ、親しんできた…その時代を表す、心にしみる歌…
国民的愛唱歌を世に送り出してきた、作曲家を並べてみました。

古賀政男 1903~1990】
 日本人すべてに親しまれ、愛唱された"古賀メロディー"
 「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」「二人は若い」「東京ラブソディ」
 「男の純情」「うちの女房にゃ髭がある」「人生の並木道」「人生劇場」「新妻鏡」
 「誰か故郷を想わざる」「湯の町エレジー」「無法末の一生」「柔」「悲しい酒」
 「ゲイシャワルツ」「りんどう峠」など…あまり多くて選びきれません。

服部良一 1907~1993】
 終戦直後の何もない苦しい世の中に、元気と希望を与えてくれた…
 「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」「青い山脈」「蘇州夜曲」「湖畔の宿」
 「山寺の和尚さん」「別れのブルース」

猪俣公章 1938~1993】
 日大芸術学部に在学中から、バンドマンとして活躍。
 古賀正夫に師事して作曲を学ぶ。
 森進一のデビュー作、大ヒットした「女のためいき」で、桧舞台に踊り出る。
 「女のブルース」「君こそ我が命」「港町ブルース」「空港」「千曲川」「祝い酒」
 「おふくろさん」「冬の旅」「大坂ラプソディー」など…

吉田 正 1921~1998】
 ソ連シベリアに抑留され、昭和23年夏、舞鶴港復員。厳しい抑留体験から、
 「生きていることは素晴らしい。私の歌づくりは、ここに始まり、ここに終わる…」と、
 その後の作曲人生で、国民に愛唱された歌曲は数限りない。

 「異国の丘」でデビュー。
 「誰よりも君を愛す」と「いつでも夢を」がレコード大賞に。
 「同期の桜」「街のサンドイッチマン」「花の三渡笠」「弁天小僧」「赤と黒のブルース」
 「有楽町で逢いましょう」「おまえに」「東京ナイト・クラブ」

市川昭介 1933~2006】
 「さよなら海峡」「皆の衆」「連絡船恋歌」「恋吹雪」「伊豆の雨」「大坂しぐれ」
 「渡り鳥仁義」「夫婦坂」「さざんかの宿」「細雪」「浮草くらし」「東京めぐり愛」
 「ふたりの大坂」…何れも、居酒屋でよく歌われた…。

船村 徹 1932~ 】
 「王将」「柿木坂の家」「兄弟船」「東京だよおっ母さん」「別れの一本杉」
 「なみだ船」「矢切の渡し」「哀愁波止場」「みだれ髪」「女の港」「おんなの出船」
 「風雪ながれ旅」

遠藤 実 1932~ 】
 乞食同然の少年期を過ごし、17歳の時、貧乏から脱出したいと、上京。
 プロ歌手を夢見て、流しの演歌師に…。
 幼少の頃に見たお月さんを懐かしみ、「お月さん今晩わ」でデビュー。
 貧しくて行けなかった高校生活を思い、「高校三年生」を作曲。
 世に送り出した楽曲は、五千曲に及ぶ。

 「星影のワルツ」「せんせい」「くちなしの花」「北国の春」「すきま風」「新宿そだち」
 「ついて来るかい」「他人船」「水割り」「夢追い酒」「昭和流れうた」「みちづれ」など、
 私の青春期の思い出を彩る歌ばかり…

その他、昭和50年代、60年代と…口ずさみ愛唱した演歌の数々…。
[平尾昌晃] 「うそ」「グッドバイ・マイ・ラブ」「瀬戸の花嫁」「二人でお酒を」
[中村八大] 「黒い花びら」「おさななじみ」
[曽根幸明] 「圭子の夢は夜ひらく」は、少年院の中で作ったという伝説がある
[山本直純]  寅さんの「男はつらいよ」
[小椋 桂]  「シクラメンのかほり」「夢芝居」「流氷の街」「愛燦燦」「夢追い人」
[森繁久弥] 「知床旅情」
[谷村新司] 「群青」「サライ」「昴」「いい日旅立ち」

2007年12月25日

邯鄲(かんたん)の夢

■40年の積み重ねが…

あと一週で2008年…今年も様々な自分史を残して、暮れていく。
私の友人で、過去四十年間欠かさす、自分と身の回りの身近に起きたことを、十大ニュースに書き残している人がいる。

高校のクラスメイト四人が、この秋、金沢の同級生のサロンで、趣味の作品を持ち寄り、第一回「おじさま四人展」を開催。 親しい友人に案内状を送付した。
四人の一人、埼玉在住の同窓生は、毎年年賀状を刷るたびに作成した、手作りの版画(芸術家はだし)を出展した。過去40年、 年に一絵の賀状の個展です。
年代順に並べられた40枚の版画の下に、その年の出来事が書き添えてあった。
一枚一枚、版画が刷られた年代を思い起こしながら、じっくり鑑賞した。
誰も真似の出来ない人生の宝物でしょう。

 

「一つことをやり続けると、十年…偉大なり。二十年…恐るべし。
三十年…語り継がれ、歴史になる。五十年…神のごとし」

~鍵山秀三郎語録より~

 


【心と体の健康情報 - 325】
~故事から学ぶ~
邯鄲(かんたん) の夢

NHK・BSで、放映終了したばかりの「関口知宏の中国鉄道大紀行」。
中国の隅々を旅行しているような気分にさせてくれる。
NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」に似た、私の好きな番組です。

数日前、録画を見ていたら、河北省邯鄲(かんたん)駅に降り立ち、「邯鄲の夢」の故事ゆかりの、道教寺院へ立ち寄る所があって、 この故事の由来を知った。
お寺の名前は、黄梁夢(こうりょうむ)呂仙寺。
今から800年前の北宋の時代に、「邯鄲の夢」の故事にちなんで建てられた、立派なお寺である。

「邯鄲の夢」の故事とは…
唐の時代。廬生(ろせい)という貧しい若者が、邯鄲の宿舎で、旅人の呂翁という道志に会い、しきりに「あくせくと働きながら、 苦しまなければならない」と、身の不平をかこった話をした。

やがて廬生は眠くなり、呂翁から不思議な枕を借りて寝た。
すると、夢の中に自分の生涯が写し出された。
進士の試験に合格し、美人を嫁に迎え、子を授かり、トントン拍子に出世して、ついに都の長官になった。 戦いに出ては匈奴を破って勲功をたて、栄進して太夫になった。

ところが、時の宰相に妬まれて、辺境の地の長官に左遷。そこに居ること三年。
再度召されて、いくばくもなく宰相にまで上った。それから十年間、よく天子を補佐して善政を行い、賢相のほまれを高くした。

位人臣を極めて、得意の絶頂にあったとき、突然、無実の罪を着せられ、捕らえられた。彼は縄につきながら、嘆息して妻子に言った。
「わしは、山東の家で百姓をしていれば、それで、寒さと飢えをしのぐことができた。
何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう…。そのために、こんなザマになった。
昔、ぼろを着て、邯鄲の道を歩いていた頃が懐かしい」

刀を取って自殺しようとしたが、妻に押し止められてかなわず、遠島に付された。
数年して天子は、それが冤罪であることを知り、廬生を呼び戻して燕国の公に封じ、恩顧はことのほか深かった。
五人の子は、それぞれ高官になり、天下の名家と縁組をし、十余人の孫を得て、幸福な晩年を送った。 50年に及ぶ波乱万丈の生涯を夢に見たのです。

廬生が夢から覚めてみると、もとの邯鄲の宿舎に横たわり、傍に呂翁が座っている。
うたた寝を始める前に蒸しはじめた黄梁(ご飯)が、まだ煮えていなかった…「ああ、夢だったのか!」
呂翁は、廬生に笑って言った。『人生はしょせん、みんな、そんなものだよ…』

廬生はしばらく憮然としていたが、やがて、呂翁に感謝して言った。
「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。これは、先生が私の欲をふさいで下さったものと思います」
廬生は、呂翁にねんごろにお辞儀をして、邯鄲の宿から旅立っていった。

「ほんのひと時の、つかの間の夢であった…」という故事になって、現代に伝えられ、そこから「人の一生というのは、 このように短くはかないものだ」の、例えに使われる。
「邯鄲の夢」から、「一炊の夢」「黄梁の夢」「邯鄲の枕」などの言葉が生まれている。

※黄梁…粟のこと

2007年12月28日

地球温暖化を考える

週2回メルマガを配信して、6回目の正月を迎えようとしている。
一年を振り返り、読み返すほどに、いろいろ書くことがあるものだと、我ながら感心している…続けるうちに、それが記録となって残っていく。

10年は続けたいと思う。
30年続けたら、90歳以上生きたことになる。
その時「いい人生だった」と、自らを褒めることができるようになりたい…。

来年も引き続き、なんだかんだと、お届けします。
皆さま よいお年をお迎えください…



【吉村外喜雄のなんだかんだ - 205】
「地球温暖化を考える」

インドネシアのバリ島で、地球温暖化をなんとか食い止めようと、世界の国々が集まって、新たなルール作りを話し合った。
その国際会議の名称は、「気象変動枠組条約第13回締約国会議(COP13)」…舌を噛みそうな、なんとも長ったらしい名前です…。

そしてこの15日、国別削減目標や、期限にかかわる数値目標を取り除いた形で、大混乱の中、何とか合意に到った。
国際社会が、目先の損得に囚われ、このまま手をこまねいているようなら、人類の未来も、地球の生命も、 深刻な危機にさらされることになるだろう。

今世紀末には、世界の平均気温が6~7度上昇するという。
南太平洋、海抜1.5メートルしかない、サンゴ礁の小さな国ツバル。
満潮のたびに、人々の家が、地面から湧き出てくる海水で壊されていく。「最初に沈む国」として、何度かTVで放映された。
北極では氷が融けて、白熊が絶滅するという。

今年は3月に入るまで、まったく雪がなかった。
スキーが趣味の私。山に雪が無ければ、スキーを楽しめない。1~2月の真冬に雪が無い北陸なんて、過去何十年記憶にない。
毎年、11月中旬に夫婦で、京都の寺院へ紅葉狩りに出かけている。
近年は、鮮やかに紅葉する前に、薄汚く枯れてしまう。そんな庭園を散策する気になれず、今年は出かけるのを止めてしまった…。

明日から正月休みの間、地球温暖化国際会議が開かれたバリ島へ、スキューバーダイビングに出かける。
当初予定していた、沖縄の石垣島を変更してのツアーである。
世界有数の広大なサンゴ礁群で、世界遺産に指定されてもいい、沖縄ケラマ諸島。
今年の秋、台風が少なかったため、海流がよどみ、水温が例年より1~2度上昇した。
あの美しかったサンゴ礁が…ああ~、サンゴの80%が窒息・死滅しようとしているのです。

サンゴの墓場と化した海底は、一面真っ白になる。
生態系が破壊され、美しく群れる熱帯魚、集まって来る回遊魚、いろんな生き物が陰をひそめ、お魚のいない水族館のような、 殺伐とした風景になってしまう…。
そんな惨状を目にするのは、耐えられない…。
美しい自然、海や山をこよなく愛する私。
毎年秋に、真っ赤に美しく燃え上るはずの山々が、一面枯れ山になり、小鳥も小動物もいない、死の山になったのと同じ状態… そんな海になっていく。

地球温暖化が私たちの身近で、目に見える形で、警鐘を鳴らし始めている。
この地球に生きる私たち。「もし空気が無くなったらどうしよう」などと、考えもしない。
まだ大丈夫、まだ大丈夫と思っているうちに、人類の生存できない地球になっていく…。
「ゆで蛙」の逸話を笑ってはいられない。
恐竜が地球上から忽然と消えてしまったように、人類の生存を賭けて、子孫繁栄のために、何をどうすればいいか…?
一枚余分に着て、室温を下げるなど、小さなことでも、出来ることから実行していきたい。

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